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| 南仏(Le Midi)……隆生がこの言葉を初めて聞いたのはいつだったろう。 とにかくその言葉の持つ音色の美しさに心を奪われた。 ル・ミディ。 唇に昇らせるとその柔らかい響きは初恋の少女の面影と重なる。隆生が中学生の時知 り合った、年上のフランス人の少女だ。もっとも少女は南仏出身ではなく、イギリス国 籍だったが。 異国への憧憬や、美しいものと接した時の胸を締め付けるような感動は、あの時の想 とよく似通っている。 愛して止まないフランスの、荒々しい波の砕け散るブルターニュの海岸も、明るく洒 脱な都会・パリも、哲学的な静けさに佇むオーベルニュの山々も、それぞれに魅力があ る。しかし南仏は特別だ……特に、今・現在、自分がいる南仏は格別の甘やかで幸福な 光に溢れている、と隆生は想う。 その理由は、もちろん恋人の隼人とともにいるからなのだ。 南仏を旅行するのは隼人も隆生も初めてではない。 隼人は以前勤めていたフレンチレストラン「シュバリエ」のオーナーシェフ・ギョー ムと、プロヴァンス料理の研究のため、何度かこの地を訪れていたし、隆生もパリに留 学していた頃、偶然ビブリオテークで知り合った小森という映画好きの青年と、カンヌ 映画祭の見物に訪れたことがあった。 でも今回は、いわば二人の新婚旅行なのだ。 ちょうど隼人の店「ファンファン・ラ・トゥール」が改修のため休業することになり、 隆生は勤務している「Avec」という雑誌の編集長にかけあって、休みを無理に合わ せてとった。名目はグルメ紀行の記事を書くための取材だが、ワイン好きの黒沼編集長 の弱点を隆生はよく知っていた。 「むこうへ行ったら、日本では入手出来ないようなワインを買って送りますから」 更なる後押しが、渋っていた黒沼を上機嫌にさせた。 「ルネ・シャペルブランドも頼んで売ってもらいますよ」 ルネ・シャペルは往年の仏映画界の二枚目俳優で、今は舞台の演出を手掛けている。 最近は小説も書き、フランスの有名な文学賞を受賞しているという文化人だ。 隼人と隆生はひょんなことから親密な交際をするようになっていた。 そして今、二人はルネの住んでいるプロヴァンス地方の古都アヴィニョンへと向かっ ている。 その前にちょっと寄り道をした所であった。 まず有名な本場のブイヤベースを味わうために、マルセイユを訪れ、そのあと、近郊 のカシという町を目指した。マルセイユはパリに継ぐフランス第2の大都会なので、そ れよりひなびた田舎町を味わおうと隆生が選んだのである。カシは小さな港町で、有名 なワインの産地でもあったので、黒宮への土産を仕入れる目的もあった。 昨夜、ホテルに帰り着くと、隼人はさっさとベッドに潜り込み、 「俺、あしたの朝、早いから」 と眠そうな声で言った。 「え?」 「だからー、朝、早いからもう寝る」 風呂に湯を張っていた隆生は、ベッドルームへと戻って、毛布を被っている隼人の肩 に手をかけた。 「どういうこと?」 「あのね……」 ようするに、先程夕食をとったレストランのシェフが、隼人を同業者と知りえらく気 に入って、朝市を案内してくれると言ったのだ。 「隆生はいいよ、朝早いから来なくても。それよりワインとかお土産とか、買うんだろ ?」 隼人は眠そうな声で付け足した。 「俺の分も買っといてよ」 そういう訳で、今朝起きると隣のベッドは空だった。 泊まっているホテルは急な丘の中腹に位置するので、窓から顔を出すと、家々の鈍色 の屋根瓦の上に紺碧の海が輝いているのが見える。部屋はこじんまりしたツィンだが、 広めのルーフバルコニーが付いていて、白いデッキチェアとガーデンテーブルが置かれ ていた。内部のファブリックはラベンダー色で、ちょっと少女趣味だったが、新婚カッ プルにはふさわしい。 隆生はテラスに出ると、頬を撫でる塩の香を含んだ風に目を細めた。 これで恋人が隣にいれば文句は無いのだが……。 『まぁ……仕方がない。料理のこととなると、隼人は夢中になってしまうからな』 隼人は昼過ぎに帰ると言っていたっけ。 「それまでちょっと、一回りしてくるか……」 隆生としてもお土産を買う時間が取れたのはありがたかった。実は編集部の女性同僚 達には空港の免税店で香水を買うつもりでいたところ、秋庭陽子という女性編集者に 「ダメ」とクギを刺されていた。 「あのね、女は気に入った香水しかつけないのよ。貰っても無駄になっちゃ、しょうが ないでしょう?」 そして、 「プロヴァンスに行くなら、ハーブ・エッセンスがいいと思うわ」 と知恵をつけてくれた。確かに今流行のハーブのエッセンシャルオイルなら入浴剤にも なるし、部屋の香りとしても便利だ。プロヴァンスはハーブの名産地なのだ。 「そうだ、ハーブエッセンスを買いに行こう!」 決めると隆生は部屋を出た。 |
| 土産物屋でハーブエッセンスとポプリを買い、大きなワインショップでカシ名産の白 ワイン半ダースを日本に送る手続きを済ませると、隆生は土産物の紙袋を抱え、街をぶ
らつくことにした。 カシの街は同じ名の小さな湾の奥に位置し、背後には高く聳えるビジュ山塊を背負っ て、坂の多い風趣溢れる港町だ。カシ湾の先端は緑深い岬と、カランクと呼ばれるリア ス式の深く入り込んだ水路のような入り江が人々を引き付け、観光の名所となっている。 もちろん港からあがる海の幸や、カシ名産の白ワインも人々の目的であった。 街の狭く急な坂道は、大雨が降ると小さな川に様変わりする。家々の戸口は水の浸入 を防ぐため狭く、防水用の板を填め込むための仕掛けがあり、それがまた趣を感じさせ る。 隆生は家並みを眺めながら、入り組んだ裏道をしばらく歩いた。 ふと「お菓子の家」のような、パステルカラーの壁に赤い瓦の家に気づく。 軒先には木製の看板が下がっているが、文字はなく、カードとアラジンの魔法のラン プのようなものが描かれている。ランプの細い口からは、ピンクのハート型の煙が出て いた。 「お店なのかな……」 近寄ると、壁には小さなショウウィンドゥが開いていて、宝石のようなクリスタルの 小瓶がサファイヤブルーの天鵞絨の上に展示されていた。 「香水ショップかな?」 興味を覚え、隆生は木の扉を押して中へ入った。 カランコロンとカウベルが鳴る。 「Bon jour」 入るとそこは小さな客間のようで、明るい花模様のタイルが床に敷き詰められ、白い 漆喰の壁にはドライフラワーがそこかしこに飾られている。 奥は大理石のトップのカウンターになっていて、白いレースのカーテンが一角にかか り、その向こうはもう一部屋あるらしい。 手前の部屋の角には可愛らしい木製の椅子とテーブルが置かれ、上にはラベンダーと 金色のマリーゴールドの鉢が乗っていた。その隣にはガラスのショウケースがあり、美 しい色の石のネックレスやらガラスの瓶やらが花びらの敷き詰められた中に飾られてい る。 「Bon jour」 もう一度隆生が声をかけると、カーテンが揺れて、プラチナブロンドを高く結い上げ た中年のマダムが現れた。ボリュームたっぷりの胸にエメラルドグリーンのスーツを身 につけ、大きく開いた襟にバラ色の石のネックレスを飾っている。 隆生を認め、細く弧を描いた優雅な眉の片端を上げ、「Oh,la la(おやまあ) 」と目を丸くした。 「男性のお客様だったの」 「あっ……ここ、何を売ってるお店なんですか? 僕、観光客で……可愛らしいお店だ から入ってみたんですけど」 ひょっとしてえらく場違いなのかもと、隆生は慌てた。その顔を見てマダムはくすり と笑うと、 「女性向けのお店なのだけれども……恋人へのお土産にはいいかもしれなくてよ?」 と片目を瞑った。 「うちはねぇ、女の子の為に色々なものを置いているの。宜しかったらどうぞ」 マダムはカウンターに入ると、壁に作り付けになった戸棚の一つを開く。 「プロヴァンスのお土産だったら、こういうのはいかが?」 取り出された藤製のバスケットに入っているのは、小さな袋詰めのポプリだった。 「部屋に置いてもいいし、クッションに縫い込んでもいいのよ?」 先程幾つか買ってしまってはいたのだが、隆生は手にとってみる。袋には可愛らしい フランス刺繍が施されている。顔を近づけると、素晴らしい香りがした。さっき買った ものより、ずっと質がいい。 「ああ、いい香りですね!」 マダムは得意そうな顔になった。 「それはそうよ。私が庭で自分の手で育てたハーブや花なんですもの」 続けて首の細いワインボトルのような形のガラス瓶を何本か取り出した。微かに緑や 黄金の色のついた透明な液が、なみなみと入っている。 「ハーブエッセンスよ。お好みで調合出来ますのよ。地元の女の子達は、こうやって自 分の香りを作るの」 あまりハーブの知識がない隆生である。迷っているとマダムが、 「疲れを取る、とか、元気をつける、とか、目的別でも作れるのよ?」 とアドヴァイスしてくれる。 「使う人の性格や好きな物に、合わせることも出来るわ」 「そうなんだ……」 秋庭陽子の顔が目に浮かぶ。仏文科の助教授である夫の出張に伴って、1年間パリに 住んでいた。なまじのお土産では感心してくれないかも知れない。 『でもこれなら……』 気が利いていると思う。 マダムに尋ねてみた。 「友人にあげたいんですが……個性にあわせられます?」 「そうね、どんな人か教えてちょうだい」 「えー、三十代の美女で、バリバリ仕事をしてて、でも美味しいものや綺麗なものが好 きで」 「キャリア・ウーマンという訳?」 「そういうんでもないなぁ……好きなことしかしないし、仕事第一ってことはないし」 マダムは笑いながら、手のひらに乗るほどの小さな瓶をまた戸棚から出した。 「癒しの効果のあるヒュアキントスの香りに……明日への活力の出るエッセンスを混ぜ、 ロマンティックを付け加えましょうね?」 続けて隆生のリクエストに応え、何種類かの詰め合わせを作ると、マダムは香水のサ ンプルのような小さな瓶を幾つかまた箱から出した。 「たくさん買っていただいたから、これはサービスよ。お風呂に入れたらいいわ」 花柄の袋にザラザラと入れながら、マダムは隆生にウィンクをする。 「みんなお友達へのお土産なのねえ。恋人はいらっしゃらないの、ムシュー? そんな ハンサムなのにもったいないわ」 「あ……そんなことはないですけど」 顔を赤らめる隆生に、マダムはまた話しかける。 「それじゃあ是非、買っていらっしゃいな」 隆生は首を横に振った。 シェフである隼人にとっては、香りを身につけることはタブーなのだ。 「ありがとう、でも僕の恋人は香水をつけてはいけない職業なんです」 マダムは「Oh,la la」と口を手に当て、驚いた顔をして見せたが、すぐに、 「そうだわ」 と大きく頷く。 「それなら、あれがいいわ」 「『あれ』?」 カーテンの奥に引っ込んだマダムは、また幾つかの瓶を銀のトレイに乗せて運んでく る。 「これは香りがほとんどないの。でも筋肉を解して疲れを取る作用があるから、お風呂 に入れたらどうかしら」 「それはいいですね!」 職業柄、一日中立ちっぱなしで、重い物も運ばなければならない隼人にはぴったりだ。 顔を輝かせた隆生に、マダムはクスリと笑った。 「あなたの恋人はきっと働き者なのねぇ。日本人は真面目すぎるわ」 目盛りのついたガラスのシリンダーで液を計ると、白い陶器の壷に入れ、混ぜ合わせ た。 「一回の入浴には、そうねぇ、大匙2杯分も入れれば十分よ」 蓋を閉めながら、マダムはまた隆生に、 「恋人達の特別の物はいらないかしら?」 と尋ねる。 「特別のもの?」 「殿方を元気にするものよ、女の子にとっては大事なの」 あっと気が付いて、隆生は頬を赤らめた。 「い、いや……僕は……」 隆生の恋人が男性とは知らないので、マダムは熱心に売り込みにかかる。 「この場合、恋人用というよりはムシュー、あなたご自身用ということですけれどね」 「うーん……」 隆生は隼人の顔を思い浮かべる。なかなかロマンチックなモードにギヤが入らない隼 人には……ちょっといいかも知れない。 「それ、下さい!」 マダムは笑いながら、軟膏薬の壷のようなものを戸棚の奥から取り出した。蓋を取る と、透明なピンクのジェルがたっぷり詰まっている。 「これを塗って貰いなさいな。二人の恋は燃え上がることを保証するわ」 |
| かなりの金額をクレジットで払ったが、隆生は満足して包みを抱える。 今まで友人達へのお土産ばかり買っていたのだから、たまには自分の欲しいものを 買ってもいい。 のんびりと港まで戻ると、ちょうど昼時でたくさんの屋台が出ている。フランス一の 港町・マルセイユに近いこの辺りは、北アフリカからの移民も多く、屋台の中にはシシ カバブなどアラブ風のものもある。 「珍しいなー」 スパイスの香りが漂う中、隆生は観光客や港で働く人々に交じって、屋台を見て歩い た。 隼人は帰るのは昼過ぎになるから、食事を済ませておいてと言ってたっけ……。 大きな鉄串に巨大なマトン肉を突き刺し、グルグルと回しながらあぶっている屋台に 行き当たった。 「ひとつ、下さい」 チョビ髭を鼻の下に蓄えた、アラブ人と思われる色黒の男が、にっこりと白い歯を見 せ、マトンの肉を薄く剥ぎ取る。平たいパンを二つに切り開き、シコレの葉をひいてそ こに乗せた。とろりとしたソースを塗り付けると、紙に包んで隆生に渡す。 「Bon appetit!」 ピリッと辛いクミンが効いているが、ソースは照り焼き風の甘みがあり、エスニック な味付けで、このところフランス料理を食べ続けてきた舌には新鮮に感じる。ビッテル で喉を潤し、満足してホテルへ戻った。 |
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