AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

1

 多摩川を渡った暖かい湿った五月の風が、花の香りを運んでくる。
 河川敷から少し離れているこの辺りは、高台になっていて、川べりの遊歩道の向こうに草の伸び始めた河原が見下ろせる。二日間続いた雨は上がって、もう路面も乾いているのが分かった。
 笠井良(かさいりょう)は持っていたシャベルを馬房の壁に立て掛けると、隣にあった鉄製の大きなフォークを取り上げた。かなり重いのだが、180cmを越える上背に、逞しい筋肉質の身体なので、苦にはならないようだ。
「さぁってと、寝藁(ねわら)を干さなくちゃ」
 土曜の昼下がりで、まだ日は高い。雨のせいでしばらく日干し出来なかったので、たくさんたまっているはずだ。
 フォークを肩にかついで厩舎(きゅうしゃ)の裏へ回るとすでにジーンズのつなぎにゴム長の男達が数人、積まれた藁の山をほぐしていた。笠井の姿を見て「ああ、J医大さん、ご苦労様」と声をかける。
「えっと、名前、なんだっけ」
「笠井良です」
 笠井は東京近郊にある私立J医大にこの四月、入学し、ひょんなことから馬術部に入部した。
 J医大の馬術部はこのアバランシュ乗馬学校に持ち馬を預けており、練習もここで行っている。笠井はまだ新入部員というわけで、時々厩舎の人に名前でなく「J医大さん」と呼ばれていた。今も『JRC(J医大Riding Club)』のロゴがついた紺のトレーナーに乗馬ズボンという服装で、認知されたらしかった。
「じゃあ、J医大さんはこっちを頼むよ」
「笠井です」
 J医大は、私立の医学部の中では老舗で、馬術部も伝統があったが、単科大学の悲哀で、入部する人数が多いというわけにはいかない。それゆえ大学から補助される活動費も少ない。安い預託金で馬を預かってもらうかわりに、厩務員の仕事を手伝い、肉体で支払っているのだ。
「聞いてなかったよな、こんな重労働なんて」
 笠井は独り言をいいながら、背丈よりも高く積まれた湿った藁の山に、フォークを突き刺す。が、顔はそれほど嫌そうではない。口笛を吹きながら、藁山を崩し始めた。
 黒々とした髪は短く刈り込まれ、太い眉も、その下の大きな漆黒の瞳も、なかなか男前だ。が、顔全体は柔らかな丸い輪郭で、がっしりとした体格の上に乗っているのだが、男らしいというよりは若々しくてかわいいといった表現が当たっている。十八才という年齢ならそれは当たり前かもしれない。
 器用にフォークを操り、笠井は持てるだけ藁を乗せると、日なたへと運ぶ。乾いたコンクリートの上に降ろした。
 ちょうど広い馬場を見渡せる所で、馬の洗い場になっている。
 万遍なく日光があたるようにと、湿った藁を広げながら馬場の方へ眼をやる。と、白いものが視野を横切った。
「あれ?」
 馬場は二つあり、丸い形の準備馬場を挟んで、広い角馬場が並んでいる。白い物は障害専用の馬場の方だった。
 真上から降り注ぐ太陽に手をかざすと、白い馬が角馬場の縁の蹄跡と呼ばれる窪んだ道を、軽やかに走っている。騎乗しているのは……。
「牧之瀬(まきのせ)さんだ!」
 馬術部の主将で今年六年生の、牧之瀬拓海(たくみ)であった。
 持っていたフォークを肩にかつぐと、笠井は急いで馬場へ駆けつける。丸太を渡した柵によりかかり、じっと牧之瀬を見詰めた。
 牧之瀬は水色の長袖のポロシャツにベージュのキュロットパンツをつけ、練習用のゴム長だ。軽い準備運動をさせていたらしく、程なく停まって、馬の首筋を手袋を嵌めた手で、パタパタと叩く。それから手綱をもう一度、引き締め、馬場の中央に設置された横木へと向かった。障害飛越の練習をするらしい。
 今は黒い乗馬ヘルメットを目深に被っているから良く見えないが、栗色のさらっとした髪を横に流し、華奢な顎に細く高い鼻梁、くっきりとした眉に切れ長の眼、それに褐色の瞳は日本人とは思えない美貎だ。背は175cmだが、顔が小さく手足が長いので、実際より高く見える。なんでも8分の1、白系ロシア人の血が混じっていると聞いていた。
 乗っている馬は乗馬クラブ所有のもので、シルバーアロー号だ。雪のように白いアングロアラブで、たてがみも尾も、銀の絹糸を垂らしたようだ。購入された時は、この乗馬クラブの名の由来ともなったアバランシュ号の二代目を期待されていた。
 アバランシュ号はその昔、フランスから買い付けた障害飛越用の馬で、フランス語で『雪崩』という意味の名を持ち、180cmもの大障害もなんなくクリアする名馬だった。
 残念ながらシルバーアロー号は性格がおとなしく、大障害やスリーデイイベントという三日間もかかるハードな競技には向かず、小障害や中障害専門に試合に出場している。が、その美しさからCMにも出演したことがあり、クラブ員の人気は高い。オーナーは大事にしていて、VIPでないと乗せてもらえない馬だった。
 そんな馬に牧之瀬が騎乗出来るのは当然、と笠井は思う。なにしろ、医学部在籍なのに、関東学生馬術大会では、上位の成績を収めている。医学生は学業が大変なので、普通の学部学生の敵ではないと思われていた。その彼に負けたために、ある名門大学馬術部の馬術部員が坊主になったという話を聞いたことがある。
 普段着でもひときわすらりと見える牧之瀬が、黒い乗馬ジャケットに白い手袋、磨き上げられた革の長靴という正式の馬装でシルバーアロー号に騎乗していたら……まさに白馬の王子様といって良かった。
 乗馬クラブのオーナーの孫は、牧之瀬と高校の同窓で、日曜日には練習に現れる。そのたびに牧之瀬がいると、シルバーアロー号に乗せていた。「お前がこれに乗るとギャラリーが喜ぶ」と言って。
 笠井が見ていると、牧之瀬は軽く馬の脇腹を踵で蹴る。
 シルバーアロー号は初め速足で、次に駆け足で馬場の中央の横木へ向かった。
1m程の低い障害で、すんなりクリアする。続いて横木障害が二つ、狭い間隔で並べてあるダブル障害へと向かう。これも簡単にクリアし、大きく右へ回って、レンガ障害のアプローチに入った。
 レンガといっても、四角い木の箱を積み上げて作られたもので、箱にペンキでレンガの絵が描かれているに過ぎない。こちらは今までの横木と違い、高さも横幅もかなりある。
しかし、うまく踏切の足が合い、シルバーアロー号は首をぐいと前へ伸ばし、ふわりと舞い上がった。同時に牧之瀬は鐙の上に立ち上がり、鞍から腰を持ち上げて馬の首に身体を寄せ、前傾姿勢をとる。たなびいた銀色のたてがみの中に、端正な横顔が隠れた。
 まるで天馬に乗って、そのまま空に駆け登るような錯覚さえ覚える。が、一瞬ののち、流れる矢のように白い馬は障害を飛越し、優雅に着地した。
「綺麗だなー」
 笠井は溜め息をつく。
 笠井が馬術部を選んだのは動物好きだからと思われている。それもあるが、入部の動機の大半は牧之瀬の存在だった。正式の馬装で新入生の勧誘に現れた彼に、笠井はすっかりまいってしまったのである。これは胸に秘めていることだったが……。
 数歩、駆け足をしたあと、牧之瀬は手綱を緩め、ペースを落とす。
 もう一度、首の付け根をはたくとまた顔を寄せ、
「よーし、よし」
と声をかけた。
 すると馬が振り向く。親しげな会話をしているように見え、笠井は胸が暖かくなった。牧之瀬は真面目で少し気難しく、キャプテンという地位もあって、気軽に話しかけられない雰囲気だ。
 だが、馬といる時は別なのだ。
「先輩」
と呼ぼうとした瞬間、
「牧之瀬!」
という力強いハスキーな声が響いた。馬場から少し離れた駐車場に、幌を上げたツーシーターの赤いMGが停まっていて、その運転席から声はかけられたのだった。
 白いタートルネックのシャツに派手なアースグリーンのジャケットを羽織った大柄な男が、ひらりとドアを飛び越え、地面に降り立った。そろいのアースグリーンのジョッパーと焦げ茶のショートブーツを履いている。短く切った髪は丁寧に櫛が通り、髭を剃りたての四角い顎に、大きな造作の精悍な顔立ちは、オーナーの孫の松浪雄祐(まつなみゆうすけ)であった。
 新入部員の笠井はまだ、直接話したことはない。時折、馬場やクラブハウスで見かけたが、向こうはデパートやホテルや、私鉄やらを有する有名な企業グループの会長でもあるオーナーの孫という身分で、いつも取り巻きを引き連れている。たっぷり高い会費を払っている正規のクラブ員ならいざしらず、預託している大学の馬術部員である笠井の話しかける余地はなかった。牧之瀬だけは、同窓なのでタメ口をきいていたが。
 松浪は口を両手で囲うと、ひょうきんな仕草でもう一度、
「はい、駐車禁止区域です」
と、ミニパト風に呼ばわった。
「松浪!」
 立ち止まっていた馬の上で、松浪に牧之瀬が気づき、明るい声を上げる。続けて笠井の姿も目に入り、
「笠井!」
と呼んだので、笠井はちょっと嬉しくなった。
 松浪雄祐は、大股で柵へと歩みを進めていたが、今気づいたように笠井に鼻白んだ表情を見せた。
「誰だ、お前」
「誰って……」
 思いがけない横柄な物言いに、笠井はたじろぐ。いくらオーナーの孫だからといっても、そういう言い方はないだろう、と思う。乗馬ズボンを履いて、フォークも持っているのだから、ここの関係者に決まっているではないか……。
「笠井良っていうんだ。うちの一年生だよ」
 頭の上から、澄んだ声が降って来た。牧之瀬である。
シルバーアローに騎乗したまま、いつのまにか二人に接近していたのだった。
「なんだ、俺の知らないとこで、誰かがバイトでも雇ったのかと思ったぜ」
 経営者のような口ぶりに、一瞬、疑問が笠井に沸いた。
 オーナーの孫ではあるが、校長は別にいる。工藤という、もう70歳近い、宮内庁に努めていたという温厚な紳士であった。
 が、牧之瀬は気にもとめていない様子で、笠井に
「笠井、こいつは松浪雄祐。前、言ったろ? 大金持ちのドラ息子で、高校からの悪友」
「おいおい、そりゃないぜ」
 松浪は忌憚ない紹介に、やれやれといった声を出す。が、顔は嬉しそうだ。
「だって、ドラ息子じゃないか。卒業しても就職しないでフラフラ遊んでるんだから」
「週に三日は、店に顔を出してるよ。ちゃんと働いてるぜ、しかも社長だ」
 個人的なやりとりに、笠井が怪訝な顔をしているので、牧之瀬は簡単に、松浪が乗馬グッズのインポートショップを父親に持たせてもらっているのだと、説明した。
「僕から言わせれば、親掛かりのドラ息子だね」
「はいはい」
 松浪は大きな両手を挙げて、降参という身振りをする。
 ちょっと困ったような眼をして笑っているのが、さっきの印象よりはだいぶ人が良さそうに見え、笠井は好感を覚えた。
 牧之瀬は馬上から、笠井を指して、
「この笠井はうちの部のホープなんだ。名前をちゃんと覚えてくれよ」
と言う。
「ホープったって、使役のホープですよッ」
 キャプテンの牧之瀬にそんな紹介をされては、恥ずかしい。焦って笠井は言い直した。使役とは、業界用語でつまりは下働きのことである。
 松浪はプッと吹き出した。
「新人の時はみんな、そうさ。俺だって、大学の馬術部では先輩の長靴磨きもしたよ」
「え、乗馬クラブのオーナーの孫なのに?」
 素直に驚いて大声をあげる笠井に、松浪は眼をふと細めた。
「俺は大学に入ってから乗馬を始めたし、その頃は爺さんはオーナーなんかじゃなかったよ」
「そう、だから笠井だって、こいつみたいに巧くなって、学生選手権で優勝出来るよ」
 牧之瀬は馬から降り、腹帯を緩めようと鞍に手をかけた所で、振り向いた。
「あ、雄祐、乗るか?」
「いや、少しサンダーブレイズに乗っておこうと思う」
 二人の会話を聞いた笠井は、眼を輝かせた。
「松浪さん、これからサンダーブレイズ号に乗るんですか?」
「ああ」
 サンダーブレイズ号は何億もしたという英国産のサラブレッドで、松浪と厩務長である雨宮啓(あめみやけい)の二人しか、手を触れられない名馬だ。
 黒鹿毛で、黒いたてがみに尻尾も長く、全身黒だが、唯一、額から鼻梁にかけて流星(ブレイズ)という白線を持つ。その白線は少しギザギザと曲がっていて雷に似ており、サンダーブレイズの名の元になった。厩舎の一番奥の馬房に普段はつながれている。普通の馬房の三倍も広く、特別におが屑が敷き詰められているので、この馬がいかに大切にされているか、良くわかるのだった。
「俺、馬装して連れて来ましょうか?」
 笠井が嬉しそうに言ったので、松浪は「え?」と驚いたような声を出した。
「あ、俺みたいな新米が触ったりするの、駄目ですよね」
 しゅんとした声になる。
「そうじゃなくて……」
 サンダーブレイズ号は、き甲と呼ばれる肩の高さまでが170pもある巨大な体格で、首回りも太い威圧感のある馬だ。馬の扱いはプロである厩務員でさえ、敬遠する者もいる。
 松浪は不思議そうに言う。
「あいつに触れるのか、お前」
 牧之瀬が割って入った。
「笠井はね、どんな動物も手懐けるんで有名なんだよ。ムツゴロウみたいって言われてるんだ。ほら、ブロンコもさ」
 牧之瀬の言ったのは、ブロンコ・バスター号という明るい栗毛にブロンドのたてがみと尾を持つ馬である。まだ五才と若く、エネルギーを持て余していて、よく乗り手を振り落とす。しかもやたらと噛む癖があり、この馬の馬房の前を通る時は、皆、気をつけなくてはいけない。
「それが、笠井にはすごい大人しいんだよ。サンダーブレイズ号も、だから大丈夫だと思うよ」
「へぇ……」
 興味深げに松浪が見たのは、牧之瀬の方だった。回り込んで柵に肘を乗せ、耳元で言う。
「なるほど……お前も懐かせたわけだ」
 くすりと笑った。
「むっつり屋のお前が、こいつには結構良く喋るから、驚いてたんだよ」
「馬鹿、なに、言ってんだよ」
 牧之瀬は小声で応じる。が、そのやり取りは笠井には聞こえなかったので、牧之瀬は笠井の「なに?」という顔に、曖味に笑って見せた。
「ま、いい、あんまりいじめてもな」
 松浪は厩舎の方を振り返った。と、コンクリートの洗い場に立ち尽くす人影を認める。
「啓!」
 大声を出した。笠井が見ると、黒い革ジャンにぴったりしたストレッチタイプのジョッパーズボンを身につけた、痩せた若い男が眼に入った。
「雨宮(あめみや)さん!」
 厩務長の雨宮啓だった。
 ストレートの肩までの髪を後ろでギュッと束ね、大きな二重の眼でこちらを見ている。色は浅黒く、ちょっとラテン系のように見える綺麗な顔立ちで、『長』と名のつく職にしては随分若いと始め紹介された時は驚いた。牧之瀬や松浪と変わらない年頃に見えるのだ。いつもは忙しげに立ち働いていて無口だが、優しい雰囲気のある人なのに、今日に限ってなぜか向けられる視線が冷たく感じられると、笠井は思った。
『え……?』
 戸惑っていると、
「啓、サンダーブレイズを出してくれ」
 松浪が柵に寄りかかったまま、命令する。
 雨宮はしばらく瞬きもせずに見詰めていたが、
「はい、わかりました、松浪さん」
 抑揚のない声で返事をすると、くるりと長靴のかかとで回り、靴音をコンクリートに響かせながら、馬房の中へと入っていった。
 厩務員ではないのだから、別にやましく思う必要もないのだが、笠井はなんだかサボっている所を見とがめられたように感じ、ばつが悪くなる。まさか、さっきの冷たい眼はそのせいじゃないとは思ったが、
「俺、手伝って来ます。いいですか?」
 牧之瀬に同意を求めた。すると松浪が、「そうだ!」と言う。
「新しい鞍を試したいんだ。車に乗せてあるから、それ、持ってってくれないか?」
「いいですよ」
 松浪について、駐車場へ行くと、MGの助手席にはぴかぴかに磨かれた鞍が積んであった。本体は漆黒に近い黒だが、膝止めの切り返し部分はスウェードで、滑らないようになっている、上等な作りだ。さらに鐙を下げる鐙革は、明るい茶色のツートンカラーというお洒落なもので、まだ新しい革の匂いがする。
「ポーランドで作らせたのさ」
 松浪は得意げに言う。
「サンダーブレイズの馬体に合わせた、特別製だ」
 笠井は鞍をひょいと肩に担ぐと、小走りに厩舎へ向かった。

 サンダーブレイズ号の馬房は、厩舎の外れにあった。

 馬房の前の通路はそのまま外へとつながっている。
 境の大きな観音開きの扉は、昼は裏手の日当たりの良い斜面に向かって、いつも開け放されており、風通しも良い。今日もすぐそばの川面から、湿った涼しい空気が吹き込んでいる。すぐ手前の馬房は、装蹄をする場所として使われていた。
 笠井が鞍を持って近づくと、ちょうど明るい栗毛の馬が、厩務員に引かれて入って行くところだった。
「ブロンコの蹄鉄(ていてつ)、取り替えるんですか?」
 覗くと、いつも装蹄に来る鍛治職の飯島という老人が、バーナーに火をおこしている。ブロンコは馬体を揺らして不穏な雰囲気だ。
「ちょっとJ医大さん、手伝ってくれないかな」
 厩務員に頼まれ、笠井は内心がっかりした。本当は、サンダーブレイズに触ってみたいのだ。が、仕方がない。隣の馬房へ行き、雨宮が馬の頭に頭絡をかけている所へ声をかけた。
「これを使って欲しいそうです」
 馬房の柵に、鞍を乗せる。
「新しい鞍か」
 雨宮は少し眼を細める。スリムな身体に似合わず、ひょいと鞍を担ぎ、サンダーブレイズ号の馬体に置いた。
「ピッタリだな」
 独り言を言いながら、腹帯を締め始める。
 笠井は未練を残しながら、隣の装蹄場へ戻った。
 「一緒に押さえてくれ」
 厩務員と一緒に、ブロンコの頭にかけられた頭絡(とうらく)を掴んだ。
 飯島は手早く馬の右後肢を膝に抱え上げ、蹄の裏を上へ向ける。
 そして固定している釘を引き抜くと、古い蹄鉄を蹄から引きはがした。
 次に、新しい蹄鉄を火の中から鉄鋏で取り出し、大きさを目測する。真っ赤に焼けているそれを鉄床の上に置いて、カンカンと槌で形を整えると、バケツの中に突っ込んだ。
 ジュッという音とともに水蒸気が上がり、ブロンコは驚いたのか、暴れ始めた。
「こ、こらッ」
 二人がかりで頭絡を押さえたが、どうにもならない。
 飯島は後趾にすがりついているので、長い尾でバシバシ顔を叩かれ、
「おい、ちゃんと押さえててくれよ」
とうなり声をあげた。
「あの、ちょっと一人でここ、持ってて下さい」
 頭絡から手を離すと、笠井は急いでブロンコの肩の所へ行く。右の前脚を曲げさせ、自分の膝の上に抱え込んだ。こうなると馬は三本足で立っていることになり、さらに飯島が後肢を持ち上げると不安定な体勢で、暴れることが出来なくなった。
 ブロンコは不満そうに鼻を鳴らしていたが、笠井が脚を摩りながら、
「よーし、よし」
と声をかけるにつれ、次第に大人しくなった。
「へぇ、いいアイディアだ。二本足じゃ、ケリもいれられないからなー」
 厩務員も感嘆の声を上げる。
「足癖の悪い馬には、この次からこれだな」
 飯島は急いで蹄をナイフで削り、新しい蹄鉄を取り付ける。
 作業は手早く進み、すぐに四本とも真新しい蹄鉄に取り替えられた。
「すごいよ、ピッカピカでオシャレだ」
 錆止めのオイルをたっぷり塗ってやり、笠井が鼻面を撫でながら誉めると、分かるのか、ブロンコも嬉しそうだ。
 道具を片付けながら、飯島は感心した。
「今時の若い子にしちゃ、良くやるじゃないかね」

 

 ブロンコを馬房へ連れて行くと、笠井は走って馬場へ戻った。
 既に松浪がサンダーブレイズに騎乗し、軽い駆け足をさせている。
 牧之瀬と雨宮は馬場の中央で、障害の高さを調節していた。横木障害を1m程にあげると、雨宮は手を挙げる。
 合図を見ると、松浪は自然な手綱さばきでサンダーブレイズを障害へと導いていく。横木の直前で、大きな黒い馬体はまるで重力を感じさせずに、ふわりと浮き上がった。ほとんど前傾姿勢をとる程のこともなく、松浪は馬の動きについて行く。砂を撒いて着地をした所で、笠井は我に返った。
「すげぇ……やっぱ、大きい馬って、ド迫力だなー」
 牧之瀬とシルバーアローのコンビは優雅で美しかったが、サンダーブレイズに乗った松浪は、荒々しく野性的で別の美しさがあった。
「もう20cm、あげましょうか?」
「いや、1m70にしてくれ」
 馬体を返すと、松浪は雨宮に指示する。
「うわ、大丈夫かな?」
 心配そうな牧之瀬に、雨宮は笑って
「大丈夫ですよ」
と、また横木を支えている金具の位置を上にずらした。
 1m70cmは、まだ大障害には及ばないが、ほとんど大人の背の高さだ。今度は少し遠くから、アプローチに入る。「ハッ」という松浪の掛け声とともに、サンダーブレイズはぐいと前肢が折り曲げ、胴体に引き付ける。同時に後肢で力強く地面を蹴った。
 太い首が伸ばされ、サンダーブレイズはほぼ立ち上がった形で垂直に上へ飛んだ。松浪も滑らかに前傾姿勢を取る。まさに人馬一体のジャンプだ。
 かなりの余裕を残して、馬体は横木を通過する。着地したあと、タタラを踏むように馬は数歩走り、ぴたりと止まった。
「よーし」
 松浪は軽く馬の首を叩くと、ひらりと飛び降りる。そして、腹帯を緩め、鞍を外した。
「もう、終わりですか?」
 雨宮が尋ねる。
「ああ、あとはお前にまかせる。この鞍はもう少し、調整させるから、お前は別の鞍で乗ってくれ」
 松浪は雨宮がサンダーブレイズを厩舎へ連れ戻すのを見送りながら、「牧之瀬」と声を掛けた。
「久しぶりに俺んちで、メシ、食わないか? 笠井君も一緒にさ」
「俺なんか、いいんですか?」
「ああ、客が多いほど、酒はうまいからな」
 鷹揚に松浪は笑うと、鞍を肩に担ぐ。
「俺、ほら、今度の大会の打ち合わせがあるから、練習終わったら、クラブハウスで待っててくれ」
と言い、駐車場へと大股に歩いて行った。
「大会の打ち合わせって、何です?」
 笠井が隣に立っていた牧之瀬に尋ねる。
「ほら、来週の日曜、ここの乗馬クラブの大会があるだろ? 僕たちも手伝うことになってるじゃないか」
「ああ、あの!」
 クラブ主催の馬術競技会のことである。
 笠井はせいぜいクラブ員の親睦程度のものを想像していたのだ。そう言うと、牧之瀬は全然違うよ、と首を振る。
「かなり本格的でね。よその乗馬クラブも参加するし、元々、この乗馬クラブの創設者が始めたものだったんだけど」
 前のオーナーは経営に失敗して、破産していた。それを3年前、松浪の祖父が買い上げたのだった。
「ごたごたしていた時は中止になってて、3年ぶりだし、オーナーが代わってから初めての大会だからね。かなり大々的にやるようだよ。雄祐も派手好みだしね」
「松浪さんが、計画してるんですか? 校長の工藤さんじゃなくて?」
 怪訝な笠井の顔に、
「ああ!」
 牧之瀬は今気づいたという声を出した。
「そっか、笠井は事情を知らないんだもんな」
 乗馬クラブが閉鎖寸前だったのを、会員だった松浪が頼み込んで、祖父に買ってもらったのだ。顔の広い松浪の祖父は、宮内庁で宮様達に乗馬を教えていた老人を、校長に迎えた。それが工藤だが、『宮内庁車馬課主馬班(くないちょうしゃばかしゅめはん)』という浮世離れした部署に人生の大半を捧げていた工藤に、無論経営の才能はなく、実質的な経営者は雄祐なのだった。
「あいつ、大学3年の時から、全部一人でやってたよ」
「すっごい、優秀なんですね!」
 金持ちのドラ息子といった色眼鏡で見ていたことを、笠井は反省する。
「雄祐は本当は、高校ん時、T大ストレート間違いなしって言われてたんだよ。それが高3の夏に、この乗馬クラブに見学に来て以来、馬に狂っちゃってさ」
 わざわざ、名門馬術部のある私立大学に入学したのだった。
「それ以来、馬一筋」
 シルバーアローの手入れをしながら、そういったことを牧之瀬は笠井に話してきかせる。
 この乗馬クラブは、元々多摩川の河川敷に都の所有地を借りて経営していたのだった。しかし水捌けの悪い土地で、馬の健康にも適しているとは言えなかった。
 ちょうどバブルの弾ける寸前、移転拡張といううまい話をもちかけられ、前のオーナーはそれに乗った。元のオーナーは真面目で馬が好きということで、このクラブを始めたので、そもそも経営の才はなかった。
 移転先の住民の反対に会い、高額のごみ処理施設など、思わぬ出費もかさみ、色々あって倒産した。それはまだ、笠井が大学に入る前のことだった。さらに、オーナーの息子、雨宮啓が厩務員としてクラブに残っていることから、昔のことに皆、口を閉じていたので、噂話に上ることもなく、笠井が知らないのも無理はなかった。
「そうだったんですか……雨宮さんって、オーナーだったんだ……」
 雨宮がどこか他の厩務員達と一線を画していることは、笠井も感じていた。
『雇っていた側だったのが、一緒に雇われる側になったんだもんな』
 時々、馬の調教をしている所を見るが、その腕は素晴らしく、乗馬姿には気高さが漂っていて、単なる厩務員ではないとは思っていたが。
「オリンピックにも出られる腕なんだよ、雨宮さんは。あの時は、イギリス留学の最中だったんだけど、それも取りやめになっちゃって。でも、一時は乗馬もやめるって言ってたけど、ここに残って今まで通り、続けられるようになったしね」
 本当はもう少し複雑な事情があることは、雄祐から聞いて知っている牧之瀬である。が、今は細かいことまで話す必要もないと思い、切り上げる。
「それより、バビンスキーに鞍をつけよう。練習を見てあげるよ」
 バビンスキーはJ医大所有の馬である。脳神経学者の名からとっており、持ち馬に有名な医者の名をつけるのが、J医大馬術部の伝統であった。
「えっ、先輩が個人教授してくれるんですか、ヤッターッ」
 笠井はガッツポーズをとると、ブラシとバケツを片付け始める。
「すぐ、用意しますから!」