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 夕方の飼い葉やりを手伝い終えると、暖かい春の宵が訪れていた。
 馬たちの餌は、たっぷりのふすまや燕麦にキューブ状に固められた干草、それにビタミン剤と一掴みの塩である。食べやすいように湿らせてあり、ニンジンやリンゴを細かく切ったものも入っている。
 馬房の柵に紐で下げられた、大きな金盥(かなだらい)のような桶に、どの馬も長い鼻面を突っ込み、もくもくと食べている。あっと言う間に食べてしまい、不満げに桶を揺らしてアピールする馬もいる。無論、ブロンコだった。
 笠井はこっそり余分の飼い葉を入れてやる。
「お前は育ち盛りだもんね」
「笠井とおんなじだね」
 いつのまにか牧之瀬が後ろに来て、クスクス笑うので、笠井は顔を赤くした。
「松浪さんは? まだ終わらないんですか?」
 ごまかして話を振る。
「うー、もうじきだと思うけど、結構大変みたいだったよ、さっきクラブハウスを覗いたら」
 言い終わらないうちに、「悪い、悪い」という声とともに、大きな身体が厩舎の入り口に現れた。
「打ち上げパーティの料理のことで、トラブっちまってさ。さあ、行こうぜ」
 駐車場へ向かうと、松浪は牧之瀬に「車だろ?」と尋ねる。
「ううん、今、車検でね。今日は笠井のバイクに乗せて来てもらったんだ」
「へぇーッ」
 牧之瀬は言い訳をするように、
「笠井は僕の隣の部屋に住んでるからさ」
と続ける。
 偶然、牧之瀬の借りているマンションの隣の部屋が空いたのである。
 元々、J医大出身の開業医が副業に、賃貸マンションを建てたのだが、ちょうどJ医大にも近く、友人の息子が入学した際、部屋を貸した。大家が親身に世話をするので、以来、口コミで同窓生に話が伝わり、次々とJ医大生が入居するようになった。今や学生寮のようになっている。
 牧之瀬の隣に住んでいたのも、馬術部の先輩で、研修が終わり、地方の病院に派遣が決まった所だった。渡りに船とばかりに、笠井はその部屋を借りたのである。
 笠井の家は、甲府の側の塩山という町にあり、東京の親類の家に寝泊まりしていた所で、グッドタイミングでもあり、憧れの先輩の隣というのが何よりだった。
「どうする? 俺の車に乗るか?」
 MGの横で、松浪は笠井達を振り返る。
 ツーシーターの助手席には鞍が置かれているので、牧之瀬は手を横に振って断り、笠井のヤマハ450ccの後ろにまたがった。
 笠井がMGについてヤマハを走らせて行くと、この辺りは広大な敷地に大邸宅といった街並である。
「さすがですねー」
 笠井はエンジン音に負けじと大声を出した。
「松浪んとこはもっとすごいよ。何しろ、自宅に美術館があるんだから」
「ええーッ」
 笠井の自宅の近くの石和(いさわ)温泉には、ミョーな物を集めて自宅を博物館にしている奇人変人がいるが……無論、それとは格が違う。温泉街にはつきものの、ちょっといやらしい形の岩とか、古今東西の大人のオモチャとかを展示していて、小さい頃、親戚に連れていってもらったことがあったが、その時は意味が分からず、大声で質問して、周りの大人の失笑をかったという記憶がある。
「唐三彩とか、仏像とかの美術館なんだよ」
「すごいですねー」
 しばらく走っていると、運転席の松浪が、片手で『来い』という合図をする。スピードを上げ、併走すると、
「牧之瀬、道、知ってるだろうから、先、行ってていいぜ」
と言った。
「じゃあ、お先に」
 言われた通り、MGを追い越して前へ出た。
「笠井、突き当たりを右だよ」
 さらにスピードを出し、MGとの距離が開いた所で、サイドミラーに黒いベンツが侵入した。
『え?』
 肩越しに見ると、路上駐車していたのが動き出したようだ。フロントグラスには、禁止されている筈の紫外線防止シートが貼られて、真っ黒だ。運転席の様子は分からない。
『すげー、Sクラスだ! 一千万以上、するヤツじゃないか』
 Sクラスの中でも排気量の大きいタイプで、小さなMGは車体に隠れて見えなくなった。
『ま、いいや、牧之瀬さん、道、知ってるもんな』
 指示に従って、右へ曲がりばらく走った。
『え?』
 再び、サイドミラーに眼をやる。ベンツもMGも姿を見せない。
……左へ曲がった筈はない……この道は一方通行なのだから。
「牧之瀬さん?」
 声をかけて、バイクを停止させた。
「変ですよ?」
「そうだな」
 異変は牧之瀬も感じていた。
「事故かな?」
「でも、音もしなかったし……とにかく、戻りましょう!」
 Uターンすると、アクセルロッドを全開にした。
「しっかり、つかまってて」
タイヤを滑らせながら角を曲がると、やはりベンツとMGが前後して停まっていた。
 黒服の男が三人、MGの運転席に群がっている。
「松浪さん!」
 大声を上げ、ホーンを鳴らした。男たちはあわてる風もなくベンツに戻ると、平然と発進させる。ゆっくりとバイクの隣を通り過ぎて角を曲がって行った。
「どーしたんですか?」
 急ブレーキをかけ、二人はバイクから飛び降りる。
 運転席の松浪は平静を装って「なんでもない」と言うが、さすがに顔色は青ざめていた。
「俺にも分からないんだ……ベンツが急に停まって、あいつらが降りてきて……とにかく、早く行こう」
 笠井は「どうして」と言いかける。詳しく聞きたかったのだが、牧之瀬が腕を掴んだ。
「こんな所で話さない方がいい。早く家に行こう」
「そうですね」
 牧之瀬の判断が的確なので、笠井はまた自分との違いを見せつけられたように感じた。
『牧之瀬さんって、ほんっと、しっかりしてる』


 松浪の家は高台にあり、広大な敷地に斜面を活用した設計の建物が建っていた。
 外観はモダンな白いタイル貼りで、道路側に面した壁の窓は小さく、遠くから見ると城塞のようだ。いささか殺風景なコンクリートの高い塀が、敷地を取り巻いている。
 松浪が運転席からリモコンを操作すると白い門が左右に開いた。そのまま笠井もバイクで乗り入れると、レンガを敷き詰めた前庭になっている。スロープを下って、半地下の車庫へと、MGの後を付いていった。
 四−五台も置けそうな車庫の隅にMGを停め、松浪は車から降りる。
「こっちだ」
と二人を車庫の奥へと案内した。
 階段を上がると、玄関ホールに出た。
 ホールは三階までの吹き抜けで、外観と同じ、白を基調にした色使いだ。床はバラ色と白の大理石が、市松模様に貼られている。天井からは巨大なシャンデリアが下がっていた。 広々としてはいるが、過剰な飾り付けはなく、子供一人が楽々と隠れられそうなサイズの壷が二つ、並んでいる。
「高級ホテルみたいですね!」
 きっととても値打ちのある物だろうと、笠井が眼を凝らしていると、その間に松浪と笠井は大きくカーブした階段を上り始めていた。
「笠井!」
 声をかけられ、急いで後を追う。
 松浪の部屋は三階で、聞けば、一階が祖父母、二階は叔父夫婦、三階が松浪の家族という部屋割りなのだった。
 リビングに飲み物を用意させると、松浪は「座れよ」と二人をソファへ勧める。
 しばらく沈黙してコーヒーを飲んでいたが、
「実は何度か、黒いベンツがあとをつけていると、感じたことがある」
と切り出した。
「さっきは何か、されそうになったのか?」
 牧之瀬は心配そうに松浪の顔を覗き込む。
「いや、ただ、『松浪雄祐だね』と言われただけだ。脅すようなことも言わないんだよ」
 黒服の男達は、一見してヤクザと笠井には思え、あの状況で彼らが松浪を脅かさなかったとは、信じられない。
 松浪の言葉に牧之瀬は、
「それって、プロっぽいよ」
と意見を述べる。
「明かに脅すような事を言って、それが誰か他の人も聞いてたら、脅迫罪になるから」
 ソファから背を離すと、前に乗り出して松浪をじっと見詰める。
「雄祐は色んな女の子に恨まれてるから、そっちの方かと思ったけど、何か違うね」
「何だよ、それ!」
 松浪は顔を赤らめた。 
「俺は女ったらしか?」
「だって、よく付き合ってた女の子を取られた、とか捨てられた、とか恨まれてたじゃないか」
「そりゃあ、昔の話だ!」
 きっぱり言って、松浪はコーヒーを飲み干した。
「今は馬にしか、興味ないよ、俺は」
 かまわず牧之瀬は続ける。
「どうだか。でもいくらなんでもさ、色恋沙汰で、ヤクザとかプロを雇って、脅かすってないよな」
「だから、もうそんなことはしてないって!」
 聞いている笠井は、松浪がいつも美女軍団に囲まれていることを思い出す。
『恋人をとられて恨んでる男だったら、やるかも』
 ちらりと考えた。
「だとすると……」
 松浪は遠くを見るような目付きになった。
「……クラブのことかな」
「乗馬クラブがらみにしちゃ、時間が経ち過ぎてないか?」
 笠井が怪訝な顔をしたので、松浪が「ああ」と言った。
「雄祐はあのクラブの経営を建て直すとき、随分、リストラしたんだよ」
 牧之瀬は笠井に説明にかかる。松浪もあとを続けた。
「なんていうか、前のオーナーは世間知らずで人が良くてな、飼料会社から、言い値で飼料を買ったり、まるで働かない奴を雇ってたり。厩務員が何人かつるんで、飼料の横流しもやってたんだよ。しかも、二重帳簿まで作ってた」
 そういう人達の首を切り、真面目に働いていた人達の給料を上げた。

 結果的に残った人達は、雄祐の手腕に感心し、従うようになった。
「けど、やめさせた奴には恨まれたかもな」
 頭の後ろで腕を組むと、松浪は天井を睨んだ。
「にしても、もう三年も前のことだよ? 今頃ってことは、ないだろう」
「そうだな……」
 大金持ちの息子なら、営利誘拐ということもあるかもしれないが、こんな大きな男を誘拐するのも大変だと、笠井は思った。
『グリコ事件は、社長だったっけ』
 思い出したが、にしても本当に誘拐なら、もっと素早く行動した筈、とも考える。色々、思いを巡らしたが、それ以上の想像力は働かなかった。
「やっぱ、女の線かもな」
 松浪は結論を出す。パッとソファから立ち上がると、明るい声で
「それより、飯の前に笠井君に美術館を案内するか」
と言った。
 敷地内のある美術館は、やはり白い外観の円筒形の二階建てで、母屋と回廊で繋がっている。ちょうどリビングの窓から、芝生の斜面と建物の一部が見えていた。玄関は別になっていて、週に三日だけ、見学者を受け入れているとのことだった。
「すごいですよね、自宅に美術館なんて!」
 笠井が例の、ヘンタイじみたものを集めた美術館の話をすると、松浪はゲラゲラ笑った。
「爺さんの趣味だけど、なんでも節税効果もあるらしくて、今は系列のデパートが管理してるんだよ」
 高尚な趣味なんだと笠井は感心する。
「爺さんは昔、満州にいたんだ。そこで焼き物とかにハマッたらしいな」
 リビングから出て、三人で階段にさしかかった時、音もなく上ってくる黒ずくめの人影に会った。
「え?」
 笠井が眼を凝らすと、俯いている細身の青年は、雨宮啓である。
『こんな所に、なんで?』
 雨宮の方も連れ立った三人に驚いた様子で、一瞬、歩みを止めたが、壁際に身を寄せ、足早に通り過ぎようとした。
「啓、一緒に夕飯、食べないか?」
 すれ違いざまに松浪が声をかける。
「いえ、結構です。お友達のお邪魔になるでしょう」
「そんなことないよ」
 追いすがるように松浪は数段、雨宮の後を追って上る。が、雨宮は振り向きもしない。松浪もすぐにきびすを返した。
 一階まで降りた所で、笠井は『?』と、牧之瀬の顔を覗き込む。牧之瀬も驚いていたようで、さらに松浪の顔を見上げる。松浪は
「あいつ、啓、俺の家に二年前から住んでるんだ」
と言った。
「入院費とか、結構、金かかるしな。居候させてるのさ」
「ああ、お父さんの」
 牧之瀬が納得という声を出す。そして笠井に、
「雨宮さんのお父さん、脳出血で倒れたんだ」
と説明した。
「それで乗馬クラブ、倒産したんだけどね。練習中に倒れて、一時はうちの大学の脳外科に入院してたんだよ」
「そのあと、リハビリの為に、温泉病院に転院してね」
 松浪は喋りながら庭へ出る扉を開け、二人を先へ行かせる。
「妹が今、アメリカに留学してるからな、その部屋を使ってもらってるんだ」
「そっか、松浪さんと雨宮さんは、親友なんですね!」
 笠井は何やら嬉しくなる。牧之瀬も自分の隣に笠井が住めるよう、算段してくれたっけ……。
『それって、すごく親しみを感じてくれてるってことだよな』
 松浪と雨宮もきっとそうに違いないのだ。
 が、松浪は少し困ったような曖昧な笑みを浮かべる。足早にガラス張りの回廊の先に見えている白い建物へと向かった。残された二人は顔を見合わせた。

 三人は美術館の通用口から入る形になった。
 丸い建物は吹き抜けで、二階部分はロフトになっている。階段はなく、勾配の緩いスロープが壁際をぐるりと回って、二階へと繋がっている。展示物を入れたガラスケースが、ベージュの絨毯を敷き詰めた広いフロアに、いくつも立っている。展示物は、スロープに沿った壁の棚にも飾られていた。
 展示物の入れ替えをしていた、紺のスーの品の良い中年女性が、松浪を見つけて挨拶に来た。
「あら、ぼっちゃま、いらっしゃいませ」
「友達と見学に来たんだ」
「ご説明いたしましょうか?」
 笠井は慌てて手を振る。詳しい説明など肩が凝るだけだ。
「い、いえっ、結構です、どうかおかまいなく」
「笠井君は牧之瀬と同じ、医大生なんだよ」
 松浪の言葉に、女性は眼鏡の奥の眼を細める。
「まあそれは、秀才なんですね」
 言ったあと、にっこりした。
「ぼっちゃまのお友達は、遊び人やら、派手な方やらばかりと思っていたら、そうでもないんですね」
「もう、かなわないな、水野さんには」
 松浪は急いで二人の背中を押す。
「あっち、いこうぜ」
「あ、そう言えば、浅田さんがいらしてます」
 水野という女性は、三人のうしろから声をかけた。
「へぇ……なんだろう」
 松浪は二階へと続くスロープを上り始める。
「二人とも、ゆっくり見ててくれ」
 笠井はぶらぶらと一人になって、ガラスケースの中の美術品を眺め始めた。
 展示物は主に中国の陶磁器で、笠井でもとても値打ちのあるものと、一見して分かる。白い地に濃いブルーで細かな模様がびっしり描かれているものや、緑がかった水色で何も描かれていないものもある。
「こっちが青磁っていうんだよ」
 いつのまにか牧之瀬がそばに来て、教えてくれた。
「二階には、ガンダーラ仏があるよ」
 スロープを上ると、そこはやはり絨毯の敷き詰められたフロアで、ギリシャ彫刻と仏像を足して二で割ったような等身大の像が、そこここに飾られている。
「うわー、世界史の教科書に出ているのと、そっくりだ」
 順番に見て行くと、奥の方にソファがあり、コンピューターの乗った大きなデスクが置いてある。係員の仕事場になっているらしかった。二人が近寄ると、なんと松浪がコンピューターに向かって作業している。そして、松浪の肩越しに椅子の背に手をかけ、熱心にディスプレイを覗き込んでいる男がいた。男は中年で、髪を後ろに撫でつけ、ダブルのモカブラウンのスーツに身を包み、松浪の隣では細く見えるが、がっしりした体格である。
「おかしいよ、浅田さん」
 松浪はキーボードに指を走らせながら、呟く。
「確かにこの三点は、去年の十月から十一月にかけて、同じ美術商から購入したことになっているけど」
「でも、こちらのリストにはないだろう?」
 二人が近づくのに気が付かず、松浪はさらに続ける。
「爺ちゃんや、叔父さんは知らないってことか。となると、イミテーション?」
「いや、鑑定書は本物だ。それよりも、購入価格が、問題なんだよ」
 浅田と呼ばれた男は、笠井の牧之瀬に気づき、口をつぐむ。
「雄祐君、この話はあとだ」
 松浪は眼を上げ、
「大丈夫、俺の友達だから」
と言う。
「それより、俺、こういうの、経験あるよ。二重帳簿って奴だ。例の、乗馬クラブを引き継いだ時、これとおんなじように、キーワードが別にあった」
「水野さんか?」
 浅田は声をひそめる。
「いや、水野さんは学術委員だもの。こういう管理は、一切、していない」
 なんとなくやばい話、というのが笠井にも分かり、牧之瀬の顔を伺う。牧之瀬も心配そうに、松浪と浅田を見ている。
「ここは、叔父さんのデパートの美術部が管理している」
「そうか、やっぱりな」
 浅田はポンと松浪の肩を叩く。
「助かったよ。君がいなきゃ、キーワードが分からなくて、調べが出来なかった所だ」
 笠井と牧之瀬に打って変わって人懐こい笑顔を見せた。
「どうも、お邪魔したね。お友達のお相手をしてくれたまえ。私はもう少し、調べていくから」

「浅田さんは、俊之叔父さんのデパートの総務部長なんだけど、元々は親父の部下でさ、小さいころからよく、遊びに来てた人なんだ」
 松浪は母屋に戻ると、二人に話して聞かせる。
「え、松浪さんのお父さんは、別の仕事、してるんですか?」
「いや、同じ系列だけど、ホテル部門ていう、別の会社なんだ」
「へぇーっ」
 でもやっぱり社長なんてすごいと、笠井は思った。
「とんでもない、ホテル部門てのは、新しくできた会社で、外様なんだよ。親父は婿養子で、最初は抵抗してたらしいよ」
 松浪の祖父が会長を努めているのは、企業グループといっても、日本特有のファミリー経営とみえる。笠井には関係が複雑すぎて、説明されてもすぐには分からない。さすがに付き合いの長い牧之瀬は、少しの説明で通じているようで、あとでゆっくり聞こうと笠井は思った。