AIで普通の動画を3D動画に変換する

◆6◆
秋の章
          1
 
休みが明けた九月の中旬からは、前期の試験が始まる。
夏休みいっぱい馬三昧で過ごした笠井はたっぷりつけが貯まり、青くなった。
毎日毎日、数学や物理のノートをさらい、ドイツ語やラテン語の格変化を暗唱する。
ついこの間、東医体が開かれたことが信じられない。
J医大は馬場と障害飛越で一位となり、総合優勝を成し遂げたのだった。
しかも個人と団体両方のタイトルを独占するという完全優勝だ。
坪内の引退試合を飾ることが出来、部員達は大喜びだった。
打ち上げで新宿に繰り出し、OBの奢りで大騒ぎをしたことも夢のようである。
それどころか、あの合宿の最後の夜のことも、夢だったのではと笠井は時々思うくらいだった。
あの時のことは今日に至るまで二人とも一切口に出していない。
笠井は今までと全く同じに、牧之瀬の部屋の洗濯機を使い、時々一緒に食事をしていた。
あのあと、初めて笠井が夕食に牧之瀬を招待したときのことだった。

笠井は「新作です」とホタテのカルパッチョを自慢げに振舞った。
「今日はイタリアンで統一してみました」

メインは乾燥トマトとパルメザンチーズのペンネである。
「なんか、すごいね、本格的だ。これはなに?」
乾燥トマトのみじん切りをフォークで刺すと、牧之瀬は尋ねる。
「これはね、乾燥トマトです。この前、有名なスーパーで買ったんですよ」
しばらく食べていると急に牧之瀬は黙り込んだ。
食べながら牧之瀬はちらりと笠井を窺う。
眉を寄せ、眼は落ち着かなく辺りを彷徨っている。
「あのね……合宿の」
言いかけるのを笠井は「牧之瀬さん、お代わりはいかがです?」と遮った。
「もっと食べてくださいよ。沢山茹でちゃって、余らせるのもったいないから」
笠井はさっさと食べ終わった皿を持ってキッチンへと立った。
『今の関係を壊したくない』
あのことはもちろん忘れてはいない。
熱い迸りの感覚は今も手に残っている。
それだけではない、白い肌に刻まれた傷痕も、幻などではない。
それでも牧之瀬がそのことについて話したくないのなら、無理に話題にしたくはなかった。
たっぷりとお代わりをよそってまた戻ると、牧之瀬はすっかり落ち着いた表情に戻っている。
「笠井、試験のほうは大丈夫かい?」
牧之瀬は心配そうに尋ねた。
「馬に夢中になって、留年したりしたら、勧誘した僕は責任があるからね」
「大丈夫ですよ、馬も勉強も牧之瀬さんみたいに両立させて見せますから」
明るく答える笠井に牧之瀬はほっとした表情を見せる。
そして晴れやかな笑顔になった。
笠井も内心寂しさを感じつつ、『これでいい』とにっこりする。
『これで十分だ……』
 
 
前期の試験は一週間の日程で行なわれた。
全部の科目が終わった直後に、掲示板に追試の知らせが出る。
おおむね通過したと思っていた笠井だが、なんと一番厳しいと評されるラテン語で赤点を取ってしまった。
「うわっ、佐久間教授は厳しいことで知られるからな、笠井君、絶対口頭試問で頑張らなくちゃ駄目だよ」
一緒に掲示板を見ていた大野が心配する。
ラテン語の追試は口頭試問なのだ。
男女に分け隔てなく厳しい佐久間教授は、何人もの女子学生を泣かせた、と噂されていた。
大野のほうは物理が赤点だ。
「じゃあ、俺がお前に物理を教えるからさ、代わりにラテン語を教えてくれよ」
「それ、いいアイディア!」
すると後ろから聞きなれた声が「俺も混ぜてくれ」と上がる。
髪を金髪に染め、耳には五個もピアスをつけた名波である。
「俺は数学と物理なんだよ、笠井、お前の得意科目だろ?」
三日後の追試に備え、笠井のマンションで三人は合宿することになった。
リビングのテーブル代わりのコタツの周りに三人は座り込み、必死で教科書に頭を突っ込んだ。
「終わったらすぐ、バンドの練習に入ることになってたのに……」
名波はブツブツ言いながらも、笠井のノートを参考にしながら試験問題を解く。
笠井のほうはラテン語の語尾変化の暗記だ。
口頭試問では佐久間教授の前で格変化を唱えなければならないのだ。
「どうしても覚えられないよー」
頭をがしがし掻きながら笠井はぼやく。
「だって、フランス語とあまり変わらないんだよ?
 なんで覚えられないんだい?」
気軽に応じる大野は語学に才能があり、フランス語もラテン語も楽勝なのだ。
「うーん、なんかさあ、歌かなんかで覚えたらどうだ?」
名波が助け舟を出す。
音楽の才能のある名波も、耳が良いので語学は得意なほうだった。
「ほらさ、ラップなんかどうだよ?」
「ラップ? ラップかあ……」
調子に乗って名波は立ち上がり、身体を揺らす。
「名詞の第一種、いきまーす、ア、アム、アエアエアー、アエアス、アールム、イスイス」
笠井も一緒になってステップを踏んでやってみる。
確かにリズムと韻を踏んでいて、覚えやすそうだ。
「なんか、いけそうだよ?」
「だろ? 次、第二種語尾変化、ウスウム、イーオーオー、イーオス、オールム、イスイス」
「ラップというよりは、ブードゥー教の呪文だなあ……」
大野は呆れて踊る二人を見つめた。
なんとか身体で覚えこんだ笠井は、三日後、しかし大恥をかくことになった。
教授室に一人一人呼ばれ、口頭試問を受けるのだが、その場には教授だけでなく教授秘書もいる。
佐久間教授は机につき、笠井の顔をじっと見る。
「では笠井君、名詞第一種転尾に属するROSAと第二種DOMINUSの活用を言ってごらん?」
「あの……」
椅子に座っていた笠井は思い切って「立ってもいいですか?」と尋ねた。
「それは構わないけれど、なんでかね?」
「俺、ラップで覚えましたんで、ちょっと動かないと出てこないんですよ」
言い終わると笠井は歌いだす。
「ア、アム、アエアエアー、アエアス、アールム、イスイス、ロサ、ロサム、ロサエロサエロサー……」
佐久間教授は眼鏡を外し、口をぽかんと開ける。
教授秘書がついに堪えきれず笑い出し、バタバタと部屋から出て行った。
まだ歌い踊り続ける笠井を佐久間教授はうんざりとした声で「もういい!」と遮った。
「口頭試問は終りだ!」
「ええっ」
「その代わり、君はレポート提出にする。
 こんな調子でやられたんでは、うるさくてかなわん」
佐久間教授の音を上げさせた名物学生として、一躍笠井の名は知れ渡ってしまった。
横井太に継ぐ快挙、と評判である。
追試の打ち上げをその夜、笠井の部屋でやっていたとき、大野と名波の耳にもすでにその顛末は入っていて、話題に上った。
「いくらラップで覚えたからって、普通、教授の前でやるか?」
自分は楽々と追試をクリアした名波は缶コーヒーを飲みながら呆れて言う。
「だって、歌ったほうがすんなり出てくると思ったから……」
「お前って天然だなー」
名波にまで笑われ、笠井はすっかりへこんだ。
「もう絶対お前とは勉強しないぞ!」
「ま、いいじゃないか、とりあえず試験は通ったんだから」
大野は笑いながらも慰める。
「俺も君の個人教授のお陰で、物理は通ったし」
そう、これでまた馬に乗れる。
そして牧之瀬ともゆっくりした時間が持てる。
そう思うと笠井は喜びがこみ上げて、追試のことはすっかり頭から消えてしまった。
 
 
翌朝、笠井が久しぶりにゆっくりと朝寝をしていると、突然の着メロである。
「はい?」
「おう、笠井、今、外にいる」
横井の大声が携帯と部屋の外から同時に到達した。
さらにガンガンと扉を叩く音もする。
「ええっ?」
パジャマ姿で戸口に走り、扉を開けると確かに横井が立っていた。
いつものサングラスにジャージー、雪駄姿だ。
許しも請わずに上がりこむと、
「さあ、行こうぜ」
と言う。
「え、どこへですか?」
「今日は俺の引退試合なんだ、当然応援に来てくれるよな?」
思わず笠井は「引退って、また来年もやるかもしれないんでしょう?」と口にし、焦って手で押さえた。
横井は気にもせず、大笑いする。
「いいから、お前だって一応部員だからな、それに試験、終わったんだろう?」
断りきれず、笠井は横井と共にマンションを出た。
部員達の乗ったワゴンが停まっていて、そのまま拉致されるように試合会場へと運ばれる。
相撲部は秋の関東学生トーナメントが始まったところだった。
有名なN大など、名門強豪大学がひしめく中で当然いつも一回戦で敗退するのではあるが、それでもJ医大は創立以来、不出場だったことはないのである。
笠井は補欠登録されており、回し姿にされてしまった。
「いやだなあ、もうこんな格好は高校で終わったと思ったのに……」
嘆く笠井を横井は控え室で他大学の主将に、
「こいつ、ホープです、来年は活躍しますよ。俺の後釜ですから」
と紹介して回る。
「本気で卒業する気なんだ……」
会場は県立体育館なので、二階スタンドもある広さだ。
各校の応援団は学ランを着て太鼓を叩き、巨大な校旗を振り回すという典型的なもので、なかなかの迫力である。
J医大の中では弱小部である相撲部に自校の応援は誰も来ておらず、
「引退試合なのに寂しいですねぇ」
これには笠井も少し同情した。
一回戦の対戦相手は強豪N大で、選手は皆、迫力のある坊主頭に学ランだった。
箱根駅伝の応援でも知られるN大恒例の応援音頭を、応援団員がずらりと整列し、大根を手に持って踊るという大迫力だ。
「応援から負けてるなー」
ところが笠井達が土俵際に出てくると、なんと「J医大、頑張れ!」と黄色い声が飛んだ。
「ええっ」
笠井は驚いたが、それよりも主将の横井が飛び上がる。
みると横井の顔は茹でダコのように真っ赤だ。
「?」
副主将を振り返ると、ニヤリと笑って小指を立てる。
「うっそーッ」
声の主を確認しようと笠井は二階スタンドを見上げる。さらにのけ反るほど驚愕した。
「志保里さん!」
ワインレッドのスーツを着た原野志保里が、赤いメガホンを手に「頑張れ!」と叫んでいる。
原野は相変わらず月に一、二回は牧之瀬の留守に差し入れに来ていて、その都度、笠井が受け取っていた。
笠井に手渡すと忙しそうに帰っていくので、あの後ほとんど話はしたことがないどころか、じっくりと顔を見る暇もなかった。
久しぶりに見る原野は、やっぱり牧之瀬によく似た美人で、さすがに学ラン姿の応援団員も美女を目の前に引いているようだ。
わざわざ試合に駆けつけ、なおかつむくつけき男どもの間で応援するなんて……。
『ひょっとして……』
もう一度副主将を窺うと、
「俺だって信じられないよ」
との答え。
『うそ……信じられないよ、美女と野獣じゃないか!』
それよりも、志保里さんは牧之瀬さんが好きだったんじゃないのか?
『いや、やっぱり単なるはとこ同士だったってことだろうか……』
頭の中は混乱して、そのあと笠井は試合どころではなかった。
 
 
いつもの通り試合は負けたのだが、横井は引退試合が無事に終わったことを満足していた。
控え室で帰り支度を整えていると、原野がねぎらいにやってくる。笠井の顔を見て、「また会ったわね」とにっこりした。
笠井は思わず、「本当に横井先輩と付き合ってるんですか」と尋ねてしまう。
「だいたいどこで知り合ったんです? いつからですか?」
矢継ぎ早の笠井の質問に、横井は苦笑した。
一年ほど前、原野が牧之瀬の元へ差し入れに来た時、いつものように留守だった。
隣の矢部に預かってもらおうとインターホンを押すと、出てきたのがちょうど遊びに来ていた横井だったのである。
「ナンパされちゃったの」
けろりと原野は言い、笠井はまた眼を丸くした。
「硬派の横井さんが初対面の原野さんをナンパするなんて……」
「そりゃお前、牧之瀬にそっくりの顔をして女だったら、普通口説くだろうが」
横井が頭を掻きながら抗弁するので、笠井も「確かに」と同意する。
「あら、あなたは口説かなかったくせに」
鋭く原野に突っ込まれ、笠井はうっと詰まった。
「それにしても牧之瀬さんはお二人のことを知ってるんですか?」
焦って笠井は話題を変える。
「うーん……そのことは……」
横井は口ごもり、「あとでな」と答えた。
部員達と別れ、横井は原野と笠井を連れて会場をあとにする。
近くのファミレスに入った。
原野のような美人を連れていても相変わらず横井はジャージーに雪駄で、
『まあ、飾らないところが横井さんらしいな』
と笠井は思った。
『結構、美人はこういうのが新鮮でいいのかな』
とも。
横井の話では前途有望な医学生とはいえ、留年を繰り返している身なので、国家試験に合格してから皆に公表するつもりだとのことだった。
「ああ、それで今年は絶対に卒業するって……」
ちょくちょく口にしていたのはそういうことだったのかと、笠井は今初めて納得した。
「まあな。出来れば来年春に結婚したいし」
「うわっ、速攻ですね!」
ちょっと横井は照れて頭を掻く。
原野は笑いながらも、
「拓海はまだ内緒にしていてね」
と口を挟んだ。
「あの人のことは私、良くわかってるから。
 国家試験前に言ったら、絶対、心配しちゃうと思うのよ」
笠井は何と答えたらいいか迷った。
『そんなに良くわかるなら、なんで牧之瀬さんと付き合わないんだろう』
しかし横井の前で、「牧之瀬さんのことが好きじゃなかったんですか?」とは尋ねられなかった。
原野が「買い物がある」と先に帰ると、横井と共に残った笠井は黙って牧之瀬と原野のことを考えていた。
『原野さんが横井さんと付き合ってるのはライバルが減って嬉しいけれど……でも牧之瀬さんはどうなるんだろう……』
原野は何年もそれこそ一つ屋根の下に住んでいたのだ。
本人の言うとおり、色々な事情があるだろう牧之瀬のことを一番良くわかっているのだろう。
『だったら、一番わかっている人と一緒になるのが牧之瀬さんに取っては幸せなのかもしれない』
それが自分ではないことは辛いけれど……。
横井はコーヒーを飲みながら黙って俯いている笠井の様子を窺う。
そして躊躇いながら「牧之瀬のことだが」と言ったので、笠井は椅子から飛び上がりそうになった。
「坪内から聞いたんだが、お前ら、何か、あったのか?」
坪内主将は横井と同じ学年なのだ。
合宿の夜のことを聞いたに違いなかった。
それでも笠井は同様に否定する。
「いえ、何も」
「それならいいが」
横井はコーヒーを飲み干すと、しばらく沈黙した。
サングラスを外すとぽつりと言葉を吐く。
「男っていうのはな、変なプライドがあるもんだ」
「ええ?」
なんの話かと聞き返しかけた笠井を、横井はじろりと睨み、制する。
そして話を続けた。
「つまりな、俺が言いたいのは……男は同情されたくないって気持ちがあるんだ。
 俺もそうだったよ。
 発病して、薬の副作用で失明するかもと言われてた頃は、同情されるのが嫌だった。
 今から思えば、アホみたいだけど、渦中にある時はそんなもんだ」
「はあ」
笠井は曖昧な相槌を打つ。
横井は再び笠井の顔をじっと見た。
「だからな……何も知らないほうがかえっていいこともある。
 お前が牧之瀬のことを何も知らないまま、好きになるのはいいことなんじゃないかな?」
「ええっ」
今度は本当に笠井は椅子から腰を浮かせた。
「お前な、お見通しなんだよ」
横井はサングラスを掛けなおすとにやりと笑う。
「坪内が言ってたぞ。
 あの牧之瀬が素肌に他人のパジャマを着て寝るわけがないって」
そこでふいに声をひそめる。
「で、どうなんだ。本当にやったのか?」
「やってません!」
大声で答え、笠井は慌てて口を手で塞いだ。
横井はがっかりとした顔になったが、さらに「じゃ、どこまで行ったんだ」と追求する。
「寸止めです!」
という笠井の答えに大声で笑い出した。