AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

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夏の章
 
          3
 
夏休みに入ってすぐ、馬術部では東医体の強化練習を兼ねた合宿を行うことになった。
アバランシュ乗馬学校には宿泊施設がないので、千葉の房総ライディングファームが合宿所となる。
房総半島の南に位置し、海も近く、裏手には深い山があるという大自然の中の乗馬クラブである。
オーナーは五十台の三浦という夫婦で、中学一年生の息子と小学二年生の娘、それに手伝いの厩務員が二人というこじんまりとした家族経営だ。
三浦は痩せぎすで背が高く、真面目そうなな四角い顔の男で、妻の咲子は反対にふっくらとした小柄な女性である。
部員は十五畳ほどの畳敷きの離れに寝泊まりし、食事は皆から「咲子ママ」と慕われている三浦夫人の咲子が作ってくれる。
息子の勇(いさむ)は今時の子供に珍しく、口数が少ない真面目な子だ。
農業高校に進み、将来は父親を手伝うと言っている。
娘は由衣花(ゆいか)といい、こちらはまだまだ幼い。
それでも動物好きで、「大きくなったら動物園の飼育係になる」とのことだった。
ファームには馬は当たり前だが、沢山の動物が溢れている。
ラブラドールレトリバーやイングリッシュシープドッグにコーギー、そして猫は三毛やキジ、ブチなどの日本猫だ。
それとヤギが三頭に、なぜかカルガモ一家が朝夕、厩舎へやって来て飼い葉のお裾分けをねだる。
咲子は「もう何年も前から近くの池に毎年来るのよ」と気前よく飼い葉を零してやっていた。
動物好きの笠井にとっては天国である。
犬も猫もすぐに笠井に馴れ、どこへ行くにも何匹かが常に従うようになった。
元々田舎育ちの笠井にはさほど珍しくない光景だが、東京は本郷育ちの大野はひどく感動していた。
「うわっ、動物村だね、ここは!
 いいなー、住んでみたかったんだ、こういうところ」
大野の実家は本郷の古い下宿屋だ。昔は苦学生が下宿していたものだが、今は人が入らず、
「もう親は止めると言ってるんだ」
と大野は言った。
「どうせ僕も医学部に入って、下宿屋を継ぐこともないだろうしね」
大都会の真ん中で育った大野にとって、田舎暮らしは初めてなのだった。
合宿の日程は普段の生活とまるで違う。
朝は五時に起床だが、これは夏の暑い日中は馬の疲労が激しいので、朝練のためである。一鞍、乗ったあと、朝食、そのあとは馬房掃除と馬の手入れ、午後からは馬の食べさせる草刈りや近隣の農家へ寝藁を貰いに行くなどの作業だ。
夕方また練習をすると、夜はオーナーによる馬術理論の講義という乗馬漬けの日程である。
一週間の合宿は充実していて、笠井と大野は初めて障害の練習をすることになった。
まず馬場の砂の上に、横木障害に使う長いバーを何本か平行して並べる。
キャバレッティというそのバーの連続を通過する時、馬はバーを踏まないように歩幅を調節するのだが、これが障害を飛越するために踏切を合わせる訓練になるのだ。
いつもの早足より振動が大きいので、大野は、
「うわっ、鐙が外れる!」
と悲鳴を上げた。
「ま、最初は何回か落馬するけどな」
と赤木。
「そうそう、でも馬は利口だから踏むことはないよ」
青木が引き取る。
大野は鞍の上で青くなった。
正直が「こらっ」と二人を叱る。
そして大野に、「大丈夫、俺が馬を引くから」と優しく声を掛けた。
坪内は少し離れたところで柵に寄りかかり、笑っている。
もう下の学年に部は任せると決めているのだ。
二人がキャバレッティに馴れると、今度は低い五十pほどの横木障害をしつらえる。
牧之瀬は銜輪に長い綱を結びつけ、ロンジング練習を始める。
障害の反対側から綱を引いた。
「手綱は放していい。
 鞍の前部に掴まってるんだ。
 馬が飛ぶ瞬間、そこを支えにして尻を持ち上げろ」
前傾姿勢の練習なのだ。
腰を持ち上げるタイミングを身体で覚えないと、馬が障害を飛越する時、ついていけずに落馬してしまう。
着地したあとは、すぐまた腰を鞍に下ろし、次の飛越に備えなくてはならない。
何度かやると二人とも鞍に掴まって立ち上がれるようになった。
「じゃあ、今度は掴まらないで立ってごらん」
牧之瀬が指図する。
タイミングを覚えた二人は、支えを使わずに前傾姿勢を取れるようになっていた。
「俺の時は、ひたすら身体で覚えろって、落馬しても落馬しても飛ばされたなー。
 このタイミングを覚えるのには結構時間がかかったよ」
赤木は感嘆の声を上げる。
「さすが、牧之瀬さんの指導は理論的だな。
 首から下の誰かさんとは違う」
これは青木のコメント。
「それって俺のことか」
黙って見ていた坪内が唸り声を上げたので、二人はぴょんと同時に飛び上がった。
「おお、いいタイミングだ、確かに身体で覚えてるな」
坪内がしたり顔で付け足したので、どっと皆から笑い声が上がった。
夕方の飼い葉やりが済むと、部員達は坪内の運転するワゴン車に乗って、少し離れた町の銭湯へ行くことになっていた。
その間に咲子が夕食の用意をするのである。
何日か経った時、笠井はいつも牧之瀬が同行しないことに気づいた。
しかし上級生はみな、それを不思議とも思っていないようで、誰も「牧之瀬は?」と誘わない。
『どういうことなんだろう?』
女子部員だったら『あれ』ってことがあるけれども……。
その理由はすぐ判明することになった。
ある日の夕方、たった一人で笠井が飼い葉に混ぜるため、厩舎の片隅でリンゴとニンジンを切っているところに咲子が通りかかった。
笠井の包丁さばきに目を留め、「すごいわ!」と感嘆の声を上げる。
「男の子なのに、すじがいいじゃないの」
「俺のお袋、栄養士で……」
いつもの説明を始めると、咲子は笠井の腕を引いた。
「あなたを厩舎ではなく厨房勤務に任命します」
「ええっ?」
「みんながお風呂へ行っている間、私を手伝ってちょうだいな」
咲子に請われれば断るわけには行かない。笠井は頷いた。
「その代わり、うちのお風呂、あとで使っていいわよ」
とんでもないと笠井は首を振った。
「夏ですから、俺、そこらで水浴びします」
「いいのよ、気を遣わなくて」
咲子は笑い出した。
「裸でそこらへんにいられるのも困るわ。
 それに牧之瀬君がいつも最後に入って、掃除してくれてるのよ。
 だからこっちも助かってるの。
 一緒に入ればいいじゃない」
えっと笠井は驚いた。
『どういうことなんだろう……』
牧之瀬と風呂に入れるのは嬉しいけれど。
『なんで牧之瀬さんだけ……』
風呂掃除のためにみんなと銭湯へ行かない、とは思えない。
釈然としないものがあったが、笠井は「わかりました」と答えた。
再び野菜を切り始めた時、厩舎の入り口で坪内が困ったような顔をしてこちらを見ているのに気づいた。
「牧之瀬さんのことですか?」
笠井が口にすると、坪内は眼を細めた。
「だって俺、牧之瀬さんの隣に住んでるんで」
何度か笠井は自分の部屋で風呂を勧めたことがあった。
そのたびに何かと理由を付けて断られていたのだが、深く考えたことがなかった。
咲子の言葉で「そうだったのか」と思い当っていたのだった。
思い返してみると、雑魚寝の合宿所でも牧之瀬は人前で着替えることはなかった。
それに馬場の中では長袖が正装なので今まで気づかなかったが、牧之瀬が半袖のシャツを着ているところを見たことはない。
寝るときだってパジャマは長袖で、しかも下には丸首のシャツを重ねるという重装備だ。
笠井などは「暑い」と持ってきているパジャマは一度も使わず、トランクス一枚で寝ているというのに。
「牧之瀬さん、俺らと風呂に入らない理由、何かあるんですね」
笠井は遠慮がちに坪内に尋ねる。
「俺も良くは知らない。
 入部した時からそうだなんだ。
 なんていうか……タブーってんじゃないけど、『暗黙の了解』って奴かな」
理由を薄々は知っていても部員達は敢えて口に出すのを避けていた。
「理由って?」
笠井は重ねて尋ねる。
坪内は重い口を開いた。
牧之瀬は入部する際、「小さい頃ひどい怪我をして、その痕を見られたくない」と言ったのだった。
「俺達は医者の卵なんだから、そんなこと気にしないけれど、それでも本人にしてみればいやなんだろうと思ってな」
いわば不文律となった。
『そうなのか……』
確か、両親が交通事故で亡くなったと言っていたっけ……。
その時自分も一緒にいて怪我をしたのかも知れない……。
もしそうなら、辛い記憶と結びついて、見られるのはいやということもあるだろう。
「わかりました」
笠井は坪内ににっこりする。
「俺、馬の洗い場で水浴びしますから」
坪内は安堵の溜め息をつく。
「笠井、お前は素直で明るくて、俺は助かるよ。
 牧之瀬のことは俺も心配しているんだ。
 何しろ、五年来の付き合いだからね。
 この五年間、あいつに直接尋ねるような奴が出ないように気を配ってきたんだ」
きゅっと眉を寄せると顔の真ん中に眼も眉を寄って、まるでコアラのようなので笠井はシリアスな話なのに吹き出しそうになってしまった。
 さらに坪内の次の言葉で、ついに笑い出した。
「あいつは本当は女じゃないか、なんて赤木の奴は陰で言うしさ。
 まったく口が悪いんだから」
そう言ったあとで肩を竦める。
「ま、それはあり得ないけど。あの顔じゃ、ちょっと疑りたくなるけどね」
「確かに!」
笠井は同意する。
そして「女だったら良かったのに」と思ったが、付け加えられなかった。
『牧之瀬さんが女だったら、俺の悩みは吹っ飛ぶんだけどな……』
いや、もし牧之瀬が女だったらとうに誰かのものになっていたに違いないと笠井は思い直した。
『そうしたらやっぱり、どうやったら別の男から奪えるかって悩みが出て来たろうな……』
 
 
充実した合宿の最後に、打ち上げの日程が組まれていた。
いつも休みなく働くオーナー一家を一日フリーにして接待する、というのが習わしだ。
今年は咲子と由衣花のリクエストでお台場へ行く、ということになった。
もちろん馬たちの世話はいつもと変わらずにしなくてはならない。
クジで二人が残るのである。
新人のうち一人が当確で、笠井はじゃんけんで居残りになってしまった。
「ちぇーっ」
しょげる笠井に坪内は「今度いいところへ連れてってやるから」と慰める。
「キャバクラでもいいぞ?
 そういや、お前、童貞だろ?
 ソープがいいか?」
「結構です」
きっぱり笠井は断った。
「俺、初体験は好きな人とって決めてるんですから」
次に上級生五人であみだを引こうとした時、牧之瀬が「僕が残る」と手を挙げた。
「ちょっと風邪気味で気持ちが悪いんだ」
ワゴン車に乗った一行を送り出すと、急に寂しくなる。
乗馬クラブは定休日で、練習に訪れる人もいない。
犬も連れてのお出かけなので、カルガモ親子が帰ると辺りはしんと静まりかえった。
時々厩舎から馬が鼻を鳴らす音と、カポカポとコンクリートの床を蹴る蹄の響きが上がるだけだ。
猫たちは朝方は日だまりでうろうろしていたが、太陽が真上へと動くにつれ、暑すぎるのか、日陰のひんやりしたコンクリートを求めていなくなってしまった。
「猫って、一番気持ちのいいところ、知ってるよなー」
乗馬クラブが定休日でも、作業は変わらずにある。
笠井は汗だくで馬房掃除に励んだ。
「それにしても新浦さんとこは、一日も休めなくて大変なんだな」
独り言を言うと「そうだよ」と牧之瀬が後ろから答えたので、笠井はフォークを取り落としそうになった。
さっきまで休んでいた牧之瀬が、いつのまにか竹箒で床を掃いている。
「生き物を扱っていると、世話を休むわけにはいかないからね。
 お正月だって、お盆だって」
「でもだから、こういう一日って大切ですね」
笠井は納得する。
そう思えば居残りも価値があるというものだ。
「そうだ、牧之瀬さん、午後、あっちの川まで行って、草刈りしませんか?
 明日の分まで」
勢い込んで言ったあと、はっと気づいて牧之瀬の顔を窺った。
「あ、具合、どうです?
 悪いようだったら午後、休んでください、俺一人でやってきますから」
すると牧之瀬は力無く微笑んだ。
「大丈夫だよ、随分良くなったから」
それでも午後になって、軽トラックを車庫から出すと、笠井は牧之瀬の顔色がまだ悪いことに気づいた。
「俺一人で行きますから」と言っても、牧之瀬は「一緒に行く」と言い張る。
根負けして笠井は「じゃあ、裏の山にしましょう」と提案した。
「近いほうがいいでしょう」
古めかしいリヤカーを押して、二人は裏手の山に入った。
上のほうは広葉樹の雑木林だが、南の斜面は馬の飼い葉にぴったりの草地になっている。夏の日差しを一杯に浴び、人の背丈ほども伸びて、足を踏み入れるとむっとするほどの草いきれだ。
青々とした夏空が広がり、肌がじりじりと焼けつくように暑い。
鎌を振るっているうちに笠井は、牧之瀬が帽子を被っていないことに気づいた。
自分は元々甲府育ちで、暑さには慣れているし、このところの田舎生活のせいで、肌は真っ黒に日焼けしている。
だが色白の牧之瀬は、肌は赤くなるだけで日に焼けないのだ。
『日に弱そうだし、具合悪いって言ってたしな』
心配になって、
「牧之瀬さん、帽子被ったほうがいいです。取ってきましょうか」
と声を掛けた。
牧之瀬は額を手で拭いながら、「もう少しやってからでいい」と答える。
「それに、ほら、曇ってきてるし」
確かに山の向こうの高い積乱雲が崩れ始め、日差しは少し翳ってきていた。
遠くからゴロゴロという低い響きが空気を振動させる。
「夕立になる前に、うんと刈っておこう」
熱心に鎌を振るううちにはっと気づくと、辺りは日暮れのような暗さだ。
「牧之瀬さん、もう帰りましょう」
「そうだね」
リヤカーに刈った草を積み込むと、二人はファームへ戻り始めた。
案の定、ポツリポツリと大きな雨垂れが落ちてくる。
と思う間もなく、雑木林の梢が強い風に鳴り、時折稲妻が光る。
「うわ、鎌を持ってるけど落ちないかな」
「大丈夫、タイヤはゴムだからね」
話しながらリヤカーを引いていると、雨足はどんどん強くなった。
坂道をまるで川になったように水が流れる。
「パンツの中までびしょ濡れだよー」
笠井が情けない声を出したので、牧之瀬は苦笑した。
「頑張れ、もう少しだ」
なんとかファームに辿り着くと、リヤカーを厩舎へと運び込む。
「草を降ろして、切っておこう。そろそろ飼いやりの時間だから」
牧之瀬はびしょ濡れのまま、刈ってきた草を鉈で切り始めた。
「牧之瀬さん、風邪引きますよ、脱いだほうがいいです」
言いながら笠井はTシャツを脱いで上半身裸になった。
牧之瀬ははっとした様子で笠井を見上げる。
「あ……」
まずいことを言ったと笠井は口ごもった。
「じゃなくて、着替えてきてください、俺、やってますから」
「いや、いいんだ」
硬い声で牧之瀬は答えると、手を動かし続ける。
それ以上のことが言えなくて、笠井は飼い葉の用意を始めた。
二人での作業はかなり時間がかかり、厩舎から出たときには雨もすっかり上がっていた。遠く西に微かな日の名残りが見られるが、頭上の群青色の空には星が瞬き始めている。
離れに引き上げると笠井は、
「俺、夕食を作りますよ、何がいいですか」
と牧之瀬に話しかけた。
「ああ……」
力のない声に笠井が驚いて顔を見ると、牧之瀬が震えていることに気づいた。
「どうしたんですか、牧之瀬さん!」
「ちょっと、寒い……」
『うわっ、まずい!』
笠井は牧之瀬を抱きかかえると、急いで布団を敷いて寝かせた。
だがびしょ濡れの服ではと震える牧之瀬を見下ろす。
「寒い……」
牧之瀬はぎゅっと眼を瞑って呻き続ける。
自分の身体に腕を巻き付け、荒々しく息を付くので、笠井は青くなった。
「なんとかしなくっちゃ!」
毛布を何枚も重ねてみたが、とにかく「濡れた服を脱がせなくては」という結論に達した。
『しょうがない……』
バスタオルを持ち出すと、牧之瀬の服を脱がせ始める。
「牧之瀬さん、手を抜いて」
袖を引っ張りながら言うと、牧之瀬はぼんやりとした眼で、おとなしく笠井の指示に従う。
シャツとキュロットを取り去った笠井は現れたものに息を呑んだ。
『これって……』
酷い傷跡などどこにも見あたらない。
ただ、腹部と背中、そして腕の付け根には確かに無数の小さな痕があった。
肌が透き通るように白いので、深くはないものの、確かに目立つ。
線状だったり丸かったりと、形は様々だ。
バイク仲間に何人かワルがいた笠井は、何の傷なのか、見当がついた。
腰骨の辺りに付いた小さな丸い痕は、
「根性焼きだよ……」
唖然として呟く。
『これって、いじめってことか?』
だが今はそんなことを考えている余裕はない。
乾いたバスタオルで手早く身体を拭くと、上から毛布を掛けた。
「寒い……」
しばらく牧之瀬は呟いていたが、そのうち寝入った。
『なんてことだろう……』
笠井は枕元に座ると、牧之瀬の寝顔を見続ける。
ふと暖かく柔らかい毛皮が足に触れ、見ると猫たちが餌の催促に来ているのだった。
「ごめんな、忘れてたよ」
猫たちと母屋の台所に入る。
戸棚から猫用の缶詰を取り出すと、一斉に猫たちは鳴き始めた。
「今やるから、待っててくれよ」
中身を皿に移しながら笠井は猫たちに語りかけた。
「俺、どうしたらいいんだろう……俺が見たって知ったら、牧之瀬さん、俺のことを嫌になるかな」
あれでは人に知られたくないと牧之瀬が思うのも無理はない。
次に思うことは、『誰に』ということだった。
「子供の頃だったら、やっぱり親になのかなあ、どう思う?
 それとも近所のワルかな?」
どの猫も笠井の問いに答えず、顔や髭の手入れをしている。
もう皿も空になってさっさとくつろげる場所を探しに行ってしまった。
溜め息をつきながら離れに戻る。
冷たい蛍光灯の光りに照らされて、白い血の気のない頬をしている牧之瀬の寝顔を見ていると、痛々しさに胸が苦しくなった。
蛍光灯を消して、そっと枕元に座り、また寝顔に見入る。
窓から月の光が差し込み、額に落ちた髪や高い鼻が影を投げかける。
それがまた寂しそうで、笠井は思わず顔を近づけた。
薄い色の唇に自分の唇を重ねる。
すると牧之瀬が僅かに口を開いた。
『え……』
舌を差し込もうかと笠井は一瞬思った。
だが唇から漏れたのは「寒い」という呟きだった。
「寒いよ……」
もう一度牧之瀬は言い、笠井の首に腕を巻き付ける。
毛布から細く白い肩が露わになって、笠井は眼が釘付けになった。
『牧之瀬さん……』
擦りつけてくる冷え切った身体を受け止め、笠井は毛布の中へと入った。
「ああ……気持ちいい」
牧之瀬は眼を瞑ったまま、うっとりと呟く。
「あったかいよ……」
それでもまだ頬は青ざめていて、笠井は胸の中で熱い塊が膨れ出すのを感じた。
ひんやりとした細い肩を抱き、前に手を暖めた時のように自分の息を吐きかける。
白い肌に吸い寄せられるように唇をつけた。
「あ……」
牧之瀬は声を漏らしたが、そのまま唇を受け入れる。
口づけていると下腹に力が充ち、
『うわ、まずい……』
笠井は悟られないように腰を引いた。
すると牧之瀬は熱を求めるのか、自分から足を絡めてくる。
毛布からはみ出した白い太ももが月光に艶めかしく揺らめき、見ていると下腹がずきずきと疼くのを笠井は感じた。
『うわっ、駄目だ、これじゃ! 我慢できなくなっちゃう!』
身体を入れ替え後ろから抱くことにした。
 そしてすべすべした肌に指を這わせる。
何をしたいのか自分でもわからないまま、笠井は愛撫を続けた。
心の中では「まずい、止めよう」と思ってはいるのだが、指は勝手に滑らかな感触を楽しんでしまう。
『少しだけ……それに牧之瀬さんは寒がっているんだから……』
栗色の髪に顔を埋め、手で平らな胸をまさぐる。

やはり肌は氷のように冷たく、笠井は大きな掌を胸に押し当て、熱を与えようと試みた。

ふと、指が小さな突起を探り当てる。
ぽっちりとした小さなものが可愛らしく、笠井は思わず指で摘む。
「あっ」
瞬間、牧之瀬は小さく悲鳴を上げた。
「しっ、黙って」
笠井は耳元で囁くと、そのままくりくりとこねるようにいじる。
誰ともそういった経験はなかったが、AV(アダルトビデオ)ぐらいは見ている。
男達がそうやって女性を悦ばせる、という場面は記憶にあった。
女性ではない牧之瀬がこれで感じるかどうかは不明だったが、これしか笠井には思いつかなかい。
揉んでいるうちに柔らかかった突起は次第に硬くなる。
「ああっ、うう……はっ……」
牧之瀬は執拗な愛撫にやがて喘ぎ始めた。はっと首を振って、笠井をぼんやりとした眼で振り返る。
「え……か、さい……?」
「黙って」
もう一度笠井は力強く命令する。
するりと手を下へ伸ばした。
ブリーフの中へ指を差し込む。
そこはすでに熱を孕んでいた。
「あっ、く……」
牧之瀬は身体を強張らせたが、かまわず笠井は中のモノを指で掬い出す。
身を捩って離れようとするので、両腿(もも)でがっちりと腰を挟んだ。
「じっとして」
ピンク色に染まった耳に話し掛け、手を動かす。
少しの間、抗っていたが、牧之瀬はやがて脱力すると笠井の胸に納まった。
冷たい身体の中であの部分だけがどんどん熱くなっていく。
自分が与えているその熱を笠井は愛おしく思った。
『もっと熱くなって』
『俺の熱をあげるから』
手に息を吐きかけて暖めた時のように、少しでも熱が与えられるなら……。
いつの間にか、牧之瀬は笠井の太ももを掴み、自分から離れないように身体を押し付けていた。
やがて柔らかい下腹が細波のように痙攣する。
「くぅっ」
その瞬間、喉の奥から押し殺した声が漏れる。
熱い迸りを手に受けると、笠井はバスタオルで綺麗に拭い、下着を元通りにした。

牧之瀬はがたがた震えながら、笠井の胸の中で膝を抱え、背を丸めた。
傷痕のついた丸い背中が、まるで打ってくれと言わんばかりに笠井の視野の中に広がる。その様がひどく悲しく見え、笠井はそっと話し掛けた。
「俺、今日のこと、忘れます。牧之瀬さんも忘れてください」
牧之瀬は怯えた眼を肩越しに投げかける。
まるで怒られるのを覚悟している子供のようで、笠井は腰に回した腕に力を込めた。
「心配しないで下さい、俺、何も見ませんでしたから」
牧之瀬はふっと大きく息を吐いた。
毛布から這い出すと笠井は自分の荷物からパジャマを取り出す。
牧之瀬のはどこにあるかわからないので、そのままそれを手にして牧之瀬のもとへ戻った。
「俺のだけど、着てください」
パジャマを着せると、笠井はもう一度横に潜り込む。
そっと抱き寄せ、また自分の熱を与えた。
片手で牧之瀬の手を握り、もう片方の手で肩を抱える。
牧之瀬はずっと目を閉じたままだったが、次第に預けている手の力が抜けていく。
その手があまりにも冷たく柔らかなので、雪のように溶けてしまうのではと笠井は思った。
 
 
オーナーの新浦一家が帰ってきたのは十一時過ぎだ。
もう由衣花はリヤシートでぐっすりと寝ていて、犬達もしっぽを振るだけで決して吼えない。
「お休みなさい」
咲子は由衣花を抱き、勇と共に母屋へと向かう。
坪内が新浦に「じゃあ、二次会をしましょう」と誘い、離れへと向かったので、迎えに出ていた笠井は焦って止めた。
「牧之瀬さん、具合悪くて、寝てるんです」
「えっ、そうなのか」
新浦が「じゃあ、クラブハウスで少し飲もう」と部員達の先に立つ。
「ちょっと様子を見てくる」
坪内だけが離れに入った。すぐさま忍び足で出てくる。
心配そうなほかの部員達に「大丈夫だって」と告げた。
ビールと日本酒の二次会が終り、深夜、離れに戻るとき、笠井は坪内に「おい」と呼び止められた。
「ちょっと来い」
言われるままに笠井は坪内について、厩舎から馬場のほうへと歩いていった。
月明かりに馬場の砂が白く光っている。
柵に寄りかかると坪内は、
「おい、なんか、あったのか?」
と咎めるような視線で笠井を見る。
「いいえ」
笠井はきっぱりと首を横に振った。
「なら、いいが……」
坪内は大きく息を吐く。
「とにかく、大人として行動しろよ」
そして離れへと戻っていったが、すれ違いざま、笠井の肩をぽんと叩いた。
見透かされていると笠井は思った。
坪内が引き上げたあとも、笠井は独り白く輝く砂を見つめていた。
もう蠍座は西に沈み、夜空には冬の星座が東から上ってきている。
『なんであんなことをしてしまったんだろう……』
あれではセクハラどころか強姦未遂だ。
それでも笠井は「悪いことをした」と謝るつもりはなかった。
それで咄嗟に「忘れてください」と言ったのだ……。
傷痕のある身体を人目から隠している牧之瀬が切なくて、誰よりもいとおしく感じた。
「すべてをひっくるめて、あなたが好きなんだ」
その気持ちを伝えたくての行動だったに違いない。
笠井は溜め息ついて空を見上げた。
「今、出来ることはあの人の傍にいることだけだ……」
秋人は手の届かないところへ逝ってしまったのだ。
同じ失敗をしてはいけない。
「もしあの人が、誰にも見られたくないと思っているなら」
見なかったことにして、今までと同じように振る舞わなくてはいけない。
あの行為だけでなく、傷を見たことも忘れたように振る舞おう。
笠井はそう決めると、離れに戻った。
もう部員達は雑魚寝をしている。
牧之瀬の布団は坪内が移動させたのだろう、一番奥に敷いてあった。
丸く盛り上がった毛布が見える。
笠井は傍へ寄ると、肩口に毛布を寄せてやった。
すると牧之瀬がゆっくりと眼を開ける。
何か言いたそうに唇が動くので、笠井はしっと指を立てる。
「牧之瀬さん、俺、何も見ませんでしたから」

囁くと牧之瀬は安心した様子で眼を閉じた。