| ◆7◆ |
|
秋の章
2
基礎過程の試験が終了し、十月に入ると、今度は入れ替わりに三年から六年の学部学生の試験が始まる。
せっかく追試にも無事通ったのに、また馬に乗れない日が続くことになった。
上級生が一緒でないと、まだ危ないので新人の一年生だけでは練習をしてはいけないのだ。
それでも笠井は連日乗馬クラブへ通った。
試験の間は休んでいたこともあり、馬に会うだけでも楽しい。
厩舎の床を竹箒で掃きながら、一頭一頭に声をかける。
お気に入りのブロンコの馬房に来た。
「ブロンコ、しばらく見ないうちにでかくなったんじゃないか?
あっ、そんなわけ、ないよな」
独りで突っ込みながら、持ってきた角砂糖を食べさせる。
金髪のたてがみを振りながら、ブロンコは一呑みして鼻を鳴らした。
「お前さぁ、味わえよなー」
笠井は大笑いしてブロンコの首を軽く叩いた。
カポカポとコンクリートに蹄の音が響き、そこへ正岡がシルバーアロー号を曳いて通りかかる。
「笠井君じゃないか」
正岡はぎょろりとした眼を剥いて辺りを探す。
「牧之瀬も一緒か?」
笠井が首を横に振ると、正岡はがっかりして天井を仰いだ。
「なんだよ、つるんで来てるのかと思ったのに」
「そんな、いつも一緒にいるわけじゃないですよ」
笠井の答えに正岡は「本当か?」と疑りの口調になる。
「同じ大学で、同じ部で、しかも隣の部屋に住んでるくせに、いつも一緒じゃないなんてこと、あるのかよ」
「牧之瀬さんは五年生で、病院実習もあるし、今は試験中です。
このところ、会ってませんよ」
正岡にこんな言い訳をするとは思わなかった……。
笠井はなんだか可笑しくなった。
さらに正岡が、
「君はいいよな、牧之瀬の奴と共通点がいっぱいあって、羨ましいよ」
などと言うので、思わず苦笑してしまう。
こちらから見れば、正岡は牧之瀬の好敵手として一目置かれているのだから、
『羨ましいのはこっちなのにな』
周りからは金にあかせて乗馬をやっているボンボンと思われているし、身なりもよくハンサムな外見から派手でチャラチャラしているとレッテルを貼られている正岡だが、笠井にとってはなんだか微笑ましくなってきている。
スポーツマンらしい素直で純情なところが垣間見え、笠井は恋敵にもかかわらず、好感を持った。
『外見や他人のレッテルなんて、当てになんないんだ』
正岡は重ねて「じゃあ、君、独りか?」と尋ねる。
そうだと答えると、
「一年生だけじゃ、練習できないんだろう?
俺が見てやるから、シルバーアローに乗るか?」
と言った。
「ええっ、いいんですか?」
正岡は小脇に抱えていたヘルメットを被る。
「君には関東学生のときの借りがあるからな」
「ああ、あの時の!」
喧嘩騒ぎを思い出し、笠井は大きく頷く。
正岡はこほんと咳ばらいすると、
「さっさと騎乗の用意をしてこい」
と命じ、シルバーアローを曳いて厩舎を出て行った。
笠井がヘルメットと長靴で馬場に駆けつけると、正岡はすでに準備運動を終え、障害の練習に入ったところだった。
馬場の中央にあつらえられた幾つかの横木障害を飛ぶと、並足に落とし、蹄跡を回る。
そして笠井に「乗れ」と命じた。
「障害、飛んでみるか?」
「はいっ」
シルバーアロー号は素直でおとなしい馬なので、まだ障害飛越に慣れていない笠井でも一mほどの高さならなんなくクリアすることが出来た。
しかしバーを一m二十に上げると、やはり慣れない騎手のせいか、シルバーアローは不安そうに耳を後ろに寝かせる。
正岡はじっと様子を見ていたが、「来い」と笠井を呼んだ。
笠井が馬を正岡に寄せると、正岡は手綱を取り、笠井の拳の位置を直す。
「もう少し、手首から力を抜いたほうがいい」
「えっ、力を抜くんですか?」
笠井は訊き返す。騎手と馬は手綱で繋がっている。
手綱を握っている拳からダイレクトに馬の口へと指示が伝わるのだ。
「力を抜いたら手綱が緩んでしまうのでは?」
「そんなことはない、手首から力を抜くと、余計な力が馬の口に伝わらないんだ。
牧之瀬の乗り方を思い出してみろ」
正岡は牧之瀬を例に出して説明する。
「牧之瀬は細くて軽く、バランスで乗っている。
それに加えてあいつは手首に余分な力が入っていないので拳がとても柔らかい。
あいつの乗り方は理想的だ」
正岡の説明はわかりやすく、理論的で、笠井はなるほどと頷いた。
「君の乗り方はあいつより俺に似ている。
俺はでかくて力が強いから、坐骨と脚でも馬を推す事が出来る。足も長いしな」
次に正岡は笠井の太ももを叩く。
「もっと積極的に脚を使え。
ふくらはぎだけでなく、この太もももな。
君も体格がいいから出来るだろう。
拳はもっと軽く、馬の口を自由にしろ。
シルバーアローは特に口が敏感だから」
言われた通り、銜へ過度の力がかからないよう気を配りながら、障害を目指す。
直前まで腰を鞍につけ、下腿全体で馬の腹を圧迫しながら進めた。
シルバーアローは逆らわずまっすぐ障害へ向かう。
馬の踏み切りと同時に腰を浮かせ、前傾姿勢を取った。
白い馬体はふわりと浮いて、楽々と横木障害を通過する。
「よし、いいぞ」
正岡は満足げに唸った。
「俺は毎週、水曜日に乗りにくるから、教えて欲しければその日に来いよ」
本来なら正岡と笠井は牧之瀬を挟んだ恋敵同士みたいなものなのだが、なぜか正岡は笠井に親近感を持ったようだった。
笠井のほうも同様で、ありがたく教えを請うことにした。
ある日正岡がサンダーブレイズ号を曳きだし、「これに乗るか?」と言ったので、笠井は仰天した。
「こんな特別の馬、いいんですか?」
正岡はにやりと笑う。
「ま、お前が乗れればの話だが」
サンダーブレイズは地面からき甲と呼ばれる首の付け根までの高さが笠井の背丈ほどもある巨大な馬だ。
馬房から出されると、サンダーブレイズはつぶらな黒い眼で、傍に近寄った笠井をじっと見る。
「なんて綺麗な眼なんだろう」
笠井は呟いて頬を寄せた。
「牧之瀬さんの眼は琥珀みたいだけど、君の眼は……ブラックダイヤモンドだね」
誉められたのがわかるのか、サンダーブレイズは低く鼻を鳴らし、差し出した笠井の手に押し付ける。
笠井はその手を伸ばして、鼻筋の白い流星(ブレイズ)を掻いた。
サンダーブレイズがおとなしく首を垂れたので、正岡は「たいしたもんだ」と呟いた。
「牧之瀬の奴がお前に懐くわけだな」
「え、懐くなんて」
正岡は笠井をじっと見る。
「俺があいつとタメ口で喋れるようになるまで、何年かかったと思うんだよ。
高校三年の秋になって、やっとなんだぜ?」
サンダーブレイズはやはり力の強い馬で、笠井は十五分ほど乗るとくたくたになってしまった。
何しろ、常に気を張っていなければ、駆け足になってしまうのだ。
ふらふらになって笠井が下馬すると、正岡は笑いながら「実は」と打ち明ける。
「こいつはまだ調教中で、完全じゃないんだ。
俺と厩務長しか乗ったことがない。それなのによく、突っかけられずに乗ったな」
「ええーっ」
サンダーブレイズを手入れのために洗い場へと引きながら、正岡は「ここんとこ、どう、牧之瀬」と尋ねる。
「どうって……」
「ほら、夏の関東学生のとき、あいつ、ちょっとおかしくなったろう?
そのあとは平気か?」
笠井は「平気です」と答える。
正岡はふっと息を吐くと、誰に言うともなく話し始める。
「久しぶりだったな、あいつがあんなになったのを見るのは……」
笠井は内心、やっぱりと思いつつ、馬の脚をブラシで擦った。
『正岡さんは、以前にもあんなになったところを見ていたんだ』
「初めて見たのはいつなんです?」
尋ねてみる。
「高校一年のときだよ」
馬体にホースで水をかけながら正岡は続ける。
入学してすぐの頃から、近くで誰かが喧嘩をしたり大声で怒鳴りあったりすると、決まって牧之瀬は倒れた。
「過換気症候群って言ってたな」
ストレスと不安から呼吸が速くなり、そのせいで手足の自由が効かなくなるのだ。
時が経つにつれ、だんだんと起こす回数は減ってきたが、それでも暴力的な場面に遭遇すると、倒れないまでもいつも顔色が真っ青になった。
「俺は心配して、なる理由をあいつに散々尋ねたけど、あいつは答えてくれなかった」
笠井は黙って頷いた。
それはそうだろう。
あの身体の傷痕と関係があるに違いない。
『小さい頃、虐待を受けていたせいなんだ』
傷痕から連想が広がって、
「正岡さん、牧之瀬さんって、体育とか水泳とか、どうしてました?」
と尋ねる。
正岡はちょっとびっくりした顔で「休んでた」と答えた。
「だから俺は、あいつがどこか病気なのかと思っていたんだよ。
それが医学部に入って、馬術をやりだしたって聞いた時は……」
大きく溜息をつく。
「もっと最初から知っていたら、一緒にM大へ行こうと誘ったのに……あいつは俺のことを、単なる友人の一人としてしか見ていなかったんだって、ショックだったな。
せめて親友ぐらいには思って欲しかったのに」
正岡のショックはわかると笠井は同情した。
『好きな相手が、なんとも思っていないなんて、辛いよな』
だが続いた正岡の言葉に笠井はむっとした。
「でも俺は諦めないぞ。
あいつを馬の道に引き込んでやる。
あいつは医者なんか似合わないよ」
正岡は得意そうに宣言する。
「見ていろ、笠井君、俺達のことを。
一緒にオリンピックに出てやるからな」
そうなのだ、正岡は一緒に試合に出て、親しく話すことが出来る。
油断がならないと笠井は正岡を睨む。
『俺の目標は、まずこれだ』
そのためにも、もっと巧くなりたい!
「正岡さん、来週もサンダーブレイズに乗せてください!」
勢い込んで笠井が言ったので、正岡は「いいとも」とにっこりした。休みが明けた九月の中旬からは、前期の試験が始まる。
夏休みいっぱい馬三昧で過ごした笠井はたっぷりつけが貯まり、青くなった。
毎日毎日、数学や物理のノートをさらい、ドイツ語やラテン語の格変化を暗唱する。
ついこの間、東医体が開かれたことが信じられない。
J医大は馬場と障害飛越で一位となり、総合優勝を成し遂げたのだった。
しかも個人と団体両方のタイトルを独占するという完全優勝だ。
坪内の引退試合を飾ることが出来、部員達は大喜びだった。
打ち上げで新宿に繰り出し、OBの奢りで大騒ぎをしたことも夢のようである。
それどころか、あの合宿の最後の夜のことも、夢だったのではと笠井は時々思うくらいだった。
あの時のことは今日に至るまで二人とも一切口に出していない。
笠井は今までと全く同じに、牧之瀬の部屋の洗濯機を使い、時々一緒に食事をしていた。
あのあと、初めて笠井が夕食に牧之瀬を招待したときのことだった。
笠井は「新作です」とホタテのカルパッチョを自慢げに振舞った。「今日はイタリアンで統一してみました」
メインは乾燥トマトとパルメザンチーズのペンネである。
「なんか、すごいね、本格的だ。これはなに?」
乾燥トマトのみじん切りをフォークで刺すと、牧之瀬は尋ねる。
「これはね、乾燥トマトです。この前、有名なスーパーで買ったんですよ」
しばらく食べていると急に牧之瀬は黙り込んだ。
食べながら牧之瀬はちらりと笠井を窺う。
眉を寄せ、眼は落ち着かなく辺りを彷徨っている。
「あのね……合宿の」
言いかけるのを笠井は「牧之瀬さん、お代わりはいかがです?」と遮った。
「もっと食べてくださいよ。沢山茹でちゃって、余らせるのもったいないから」
笠井はさっさと食べ終わった皿を持ってキッチンへと立った。
『今の関係を壊したくない』
あのことはもちろん忘れてはいない。
熱い迸りの感覚は今も手に残っている。
それだけではない、白い肌に刻まれた傷痕も、幻などではない。
それでも牧之瀬がそのことについて話したくないのなら、無理に話題にしたくはなかった。
たっぷりとお代わりをよそってまた戻ると、牧之瀬はすっかり落ち着いた表情に戻っている。
「笠井、試験のほうは大丈夫かい?」
牧之瀬は心配そうに尋ねた。
「馬に夢中になって、留年したりしたら、勧誘した僕は責任があるからね」
「大丈夫ですよ、馬も勉強も牧之瀬さんみたいに両立させて見せますから」
明るく答える笠井に牧之瀬はほっとした表情を見せる。
そして晴れやかな笑顔になった。
笠井も内心寂しさを感じつつ、『これでいい』とにっこりする。
『これで十分だ……』
|
|
|
|
|