AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

◆8◆
秋の章
   
          3

着メロが鳴って、笠井は机に置いてあった携帯を取り上げた。
明るく澄んだ女性の声が流れ出す。
「笠井君、私よ。いつものところにいるから」
「わかりました」
ラテン語の辞書を閉じると、笠井は椅子の背のスタジャンを羽織る。
部屋を出てマンションの駐車場へと急いだ。
まだ4時を少し回ったところだが、辺りは空から降りてきた夕闇の青い色に染まり、まるで海に沈んだ都のようだ。
11月ともなると、日没はどんどん早くなる。
笠井はバイクにまたがると、渋滞の隙間を縫って待ち合わせ場所を目指した。
電話の相手は原野志保里だ。
差し入れをいつも腐らせてしまう牧之瀬に業を煮やし、笠井に直接手渡すと決めたのだった。
「笠井君ならちゃんと食べてくれるし、拓海の口にも入るわけでしょう?」
それはその通りで、このところ牧之瀬は毎晩笠井の部屋に食事にくる。
試験中、缶詰になって勉強している時、笠井は献身的に食事を作って届けたのだ。
そのせいか、牧之瀬は以前のように笠井の部屋でリラックスした表情を見せるようになった。
夏のあの夜の記憶が薄れたのかも知れない。
忘れると言った笠井のほうは、
『あんなこと言ったけど、忘れられるわけ、ないよ……』
ビールを飲んでほんのりと頬を上気させた牧之瀬の隣で、超人的な努力で自分を抑えてているのだが。
 
 
大学近くの喫茶店がいつもの場所だ。
笠井が到着すると、原野は窓際の席を取っていて、にっこりして笠井に手を振る。
「ごめんなさいね、いつも呼び出して」
紙バッグを隣の椅子からテーブルに移す。
「一応、横井の手前、あなたの部屋に行くわけにいかないし」
「それはそうですよ」
それに原野は牧之瀬の近況を聞きたい、という目的もあるのだった。
牧之瀬がいるときに笠井の部屋に上がりこんで、話をするわけにはいかない。
それでマンションの外で会うことになったというわけだった。
「拓海はどう、このごろは? 試験はどうだったのかしら?」
原野は牧之瀬によく似た眼を一杯に開き、細い眉を寄せて笠井を熱心に見つめながら尋ねる。
その表情は牧之瀬のことをいかに気に掛けているか語っていて、
『そんなに好きなら、どうして恋人にならなかったんだろう』
いつもの疑問が頭を過ぎりながらも、笠井は「元気です」と答える。
「牧之瀬さんは優秀ですから、試験は全然オッケーだと思いますよ」
言ってから笠井は横井のことを思いだし、「しまった」と手で口を塞いだ。
原野はコロコロと笑い出す。
「横井のこと? ぎりぎりでなんとかなりそうですって」
運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、原野は少し上目遣いになって笠井を見上げた。
少しの間、逡巡していたが、小さな声で切り出す。
「あの、実は……私、横井に聞いたんだけど……あなたと拓海のこと……あの……一緒に寝たって」
「ええっ」
カップに口を付けていた笠井は、思わずむせてしまった。
「ごめんなさい!」
原野はバッグからピンク色のハンカチーフを取り出し、笠井に手渡す。
そして椅子の上でもじもじした。
「あのね……怒ってるわけじゃないの……でもちょっと、ショックかな……拓海が……その……ホモなんて」
「うっ」
そう言われれば確かにそうだと笠井は思った。
『普通の人だったら、汚らわしいって思うよな……』
笠井は素直に「すみません」と頭を下げる。
「でも俺、あの人のこと、ほんとに好きなんです」
「あなたって素直なのよね……」
原野は大きく息を吐くと、笠井を正面からじっと見る。
「私、複雑なの。
 笠井君のことはハンサムでカッコ良くって、イケてるって思ってるから、嫌えないわ。
 それに、私、本当のこと言うと、拓海を私以外の女の子に盗られるのもイヤなの」
一気に言うと、椅子の背に寄りかかった。
「勝手よね、私……拓海のことがすごく好きなの。
 でもそれは多分、母親の心境に近いかな……拓海は一度も、私を恋の相手と思ったことはないし」
いきなりそんなことを告白されてもなんと応じていいかわからない。
笠井は黙って次の言葉を待つ。
原野は黙ったままの笠井にちらりと視線を投げかけ、続ける。
「あのね……私、小学校の頃からうちの両親が拓海のことを心配して、よく話題にしているの、聞いているの。
 拓海が小学校二年の時、両親を亡くしてるの、知ってるでしょう?」
原野の母と牧之瀬の母は従姉妹同士で、しかも年が近かった。
そのせいで東京と秋田と離れてはいたが、仲が良かった。
事故で牧之瀬の両親が亡くなった時、原野の母はひどく悲しんだ……。
残された幼い子供を我が子と重ね合わせて、行く末を心配した。
「一時は拓海をうちに引き取るという話もあったんだけど……
拓海の叔父さんが親権者になったから、それは立ち消えになったの。
 それでもあまり可愛がられていないという話は伝わってきて……」
となると、あの傷は叔父に付けられたものだと笠井は話を聞きながら考えた。
「拓海のことは、だから私、多分、『可哀想なはとこ』ってずっと思っていて、それで高校の時、うちに下宿することになった時……」
聞きながら横井が言った「男のプライド」のことを笠井は思いだしていた。
「同情されたくない、男ってのはそういうもんだ」
横井先輩は言っていたっけ。
時折ひどく頑なな表情を牧之瀬は見せる。
幾ら顔が女の人みたいに綺麗で華奢だって、牧之瀬は男なのだ。
しかも馬に乗れば堂々としていて、びっくりするほど勇敢だ。
牧之瀬は男らしい、と笠井は思う。
『そういうことがあるかも知れないな……』
原野は一端口を噤んだが、また続ける。
「私、面倒を見てあげよう、二親がいない分、うんと愛してあげようって思ったの。
 でもそれは……なんというか、きっと拓海の心を傷つけたって、今は反省してる」
「原野さん……」
笠井は思いきって尋ねてみる。
「あの……身体の傷のこと……」
原野は暗い表情になって頷いた。
「だって、三年も一緒の家で暮らしていたのよ、一度も見ない、なんてことあり得ないでしょう?
 知ってたわ……でも……」
もう一度笠井の顔を見て、一気に言った。
「だから余計、可哀想に思って、一所懸命、『気にしないで』って言い続けた……でもそれが悪かったのよね……」
言い終わると原野は溜め息をついた。
「そんなつもりじゃなくっても、ね?
 なにか、優越感があったのかも知れないわ……」
原野の顔がひどく悲しそうだったので、笠井は急いで、「そんなことないです」と否定した。
「原野さんはそんなんじゃないって、俺、思うし、だいたい牧之瀬さんがそんなこと、思うはずないです」
「ありがとう、優しいのね、笠井君は」
原野は柔らかな笑みを浮かべ、テーブル越しに手を伸ばし、笠井の手に重ねた。
「私じゃ駄目なことも、あなたなら出来るかも知れない。
 拓海を幸せにしてね」
切れ長の牧之瀬に似た眼はとても優しく、
『牧之瀬さんのお母さんも、こんな眼だったのかな……』
ふと笠井は思った。
 
 
前期の試験が終わると、五年生は一時病院実習を中断し、実際の症例を教材にした臨床講義という特別講義の受講が始まる。
牧之瀬は内科学書とバインダーを抱え、病院内の臨床講義室へと向かった。
スライドが見やすい席を取り、前回取ったノートを読み返していると、すぐ傍に同じ馬術部の伊吹が腰掛けていて、「よう」と挨拶する。
「追試、どうだった?」
「なんとか受けずに済んだようだ」
伊吹は笑って答えると、隣の席に移動する。
「あのなあ……変なこと、言ったって、怒らないでくれよ?」
「ええ?」
伊吹は居住まいを正すと、コホンとわざとらしく咳払いをする。
「いや……言ったほうがいいかなって思って。
 赤木と青木から聞いたんだ。
 笠井の奴がお前の美人のはとこと付き合ってるって、知ってるか?」
原野はよく試合の応援にくるので、部員達には知られている。
一時は牧之瀬と原野が婚約していると噂された。
「単なる親戚だ」
と牧之瀬が否定しても、美男美女カップルとみなされている。
それが新入部員の笠井が横取りしたのかと、牧之瀬の全く知らないところで大騒ぎになっていたのだ。
当然のことながら牧之瀬には何のことかわからない。
伊吹の言葉を鸚鵡返しにする。
「付き合ってるって?」
「だから笠井と原野さんが、だよ」
「ええっ」
まさか、と牧之瀬は首を振る。
「そんなことはないだろう」
反射的に否定する。
「志保里と笠井が? 
 何かの間違いだ、それに仮に本当だったら、原野も笠井も僕に言うはずだ」
「ほらさ、そこが怪しくないか?」
伊吹は心配そうに言う。
「そりゃあ別に、どっちも独身なんだからさ、誰と付き合おうと勝手だけど、先輩の親戚なんだから遊びってわけにはいかないって、笠井に釘を刺しておいたほうがいいぞ?」
伊吹は続けて、二人がよく大学の近くの喫茶店で会っていると告げる。
「赤木も青木も見たって言ってたし、俺らの学年の奴も見たのがいる。
 笠井はでかくて男前だしな、あの原野さんも美人だからな。
 そりゃあなんてったって、目立つよ」
手を握り合っていたとも伊吹は付け加えた。
『そんな馬鹿な……』
最初は冗談と聞き流していた牧之瀬だが、次第に胸が苦しくなってくる。
『内緒にしているところが……本当かも知れない……』
確かに冗談で原野を口説けとけしかけたこともあった。
『笠井はいい奴で、こいつだったら志保里を任せてもいいと思ったからだ』
講義が始まって、照明が落とされる。
スクリーンには次々とスライドが映し出されるが、牧之瀬の目には最早何も入らなかった。
『それなら……あれはなんだったんだ?』
あの夏の夜を思い出し、身体がカッと熱くなる。
ひたすら隠し続けていた身体を知られてしまったことはショックだった。
それだけではない。
続いた行為も予想しなかったものだった。
「俺は忘れます。牧之瀬さんも忘れてください」
そう耳元で囁かれた……それでも忘れられるはずもない。
自分の肉体が、あんなに素直に反応するとは思っても見なかった……。今まであの行為は嫌悪と恐怖しか喚起しなかったのに。
『あの指は暖かく、優しくて……』
忘れたい、思い出したくない過去をあの指は、魔法をかけたように封じてくれた。
そのあとは、無数の傷痕の理由を聞くこともなく、今までと同じに振る舞ってくれている。
自分を気遣ってのことだということはわかる。
知られてしまったからには、クラブを辞めてしまおうと一時は思ったが……。
変わらずに馬といられるのは嬉しい。
ただ、まるで抵抗らしい抵抗もせずに、笠井の行為を受け入れてしまったことについては自分でも理由がわからなかった。
時々どんな意図があって笠井があんなことをしたのか考えると、ひどく混乱し、不安になる。
けれど前と変わらず接してくれる笠井の笑みを眼にすると、その不安はあっと言う間に消えてしまう。
いつの間にか、笠井は優しく十分を包んでくれる存在になっていた。
年下の、それも同性にこんな感情を抱く自分がふがいないが……。
今までにない安堵感を感じると、そのほかのことはどうでもよくなってしまうのだ。
『これでいい、今は』と、深く考えることを止めていたのは事実だ。
だが、原野のことを知らされ、牧之瀬はひどく動揺していた。
『志保里と笠井が……』
『いいじゃないか、笠井はいい奴なんだ、志保里だって幸せになる』
『おめでとうと言わなくちゃ……』
それでも自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、心の中には真っ黒い墨のようなものが渦巻いている。
『もう笠井の傍にいてはいけないんだ』
そう、誰かが自分を愛するなんてあり得ない。
自分に注がれた愛情なんてみんな偽りだったんだから。
自分によく似た原野と笠井の顔が同時に浮かび、牧之瀬は背筋が冷たくなった。
『あのことだって……たいした意味はなかったんだ、笠井にとって』
原野の代わりにしたのか、それとも恋人の親戚として親切にしただけなのか。
今も温かい食事を作り、自分に気を掛けてくれるのは、そのためなのだと思い当る。
『そうだったのか』
『バカだな、僕は。変な期待を持って』
暗がりの中で牧之瀬は自虐的な笑みを浮かべた。
 
 
スーパーの買い出しから戻ると、笠井はバイクの後ろに積んだダンボール箱を抱えあげた。
中には白菜やらニンジンやらの野菜がたっぷり入っている。
「やっぱ、寒くなったら鍋だよな」
独り言を言いながら、マンションの玄関で見上げる。
牧之瀬の部屋に灯が点いていることを確認し、いそいで中へ走り込んだ。
「帰ってるんだ、牧之瀬さん! 急がなくちゃ!」
スタジャンをベッドの上に放り投げ、ジーンズとTシャツを着替える間も惜しんで、キッチンに入る。
下ごしらえを始めた。
土鍋に粕汁と豆乳を注ぎ込み、切った野菜と牡蛎を入れる。
「えー、今回は味噌でなくて石狩鍋風にしてみました」
悦に入って独り言を言い、カセットコンロをセットすると、いつものように隣との境の壁をガンガン叩いた。
これが合図なのだ。
数分後、牧之瀬が現れた。
俯き加減で笠井と眼を合わせようとしないのだが、笠井のほうは準備に忙しく、気が付かない。
「座ってください」
と明るい声で言うと、箸と丼の用意をした。
「牡蛎鍋ですよ、今夜は味噌じゃなくて粕仕立てにしてみました」
牧之瀬は答えず、笠井が渡した丼を受け取る。
笠井は牧之瀬の暗い表情に気が付かないまま、白和えの小鉢も勧める。
先日、原野から託されたおかずだ。
「これ、原野さんからいただいたんですよ、すごく美味いです」
びくりと牧之瀬は身体を震わせた。黙って小鉢を見つめ続ける。
「どうしたんです、牧之瀬さん?」
そのうち丼の中身が減らないことに笠井は気づいた。
「不味いですか? 口に合いません?」
牧之瀬は丼を宙に浮かせたまま、ぼんやりと笠井を見る。
「笠井……僕は今日、聞いた」
暗い声に笠井は「え?」と問い直した。
「何を?」
「志保里と付き合ってるのか」
牧之瀬はきゅっと眉を寄せ、鋭い光を眼にたたえる。
「いいんだ、僕は何も咎めてるわけじゃない。
 それが本当なら、志保里を幸せにしてくれと頼まなきゃいけない立場なんだから」
一気に牧之瀬にまくし立てられ、笠井は眼を白黒させた。
「ちょっと待ってください、だいたい誰にそんなことを言われたんです」
牧之瀬はその言葉に逆上した。
「誰だっていいだろう!
 僕はただ、本当かどうか聞いているだけだ、隠すようなことなのか!」
「牧之瀬さん……」
初めて見る激昂した態度に笠井は唖然とする。
口を開けて牧之瀬を見守った。
その様を見てさらに牧之瀬は笠井をなじる。
「いいんだ、僕は文句を言うつもりはない、ただそれじゃなんだってあんなことを!」
「あんなことって?」
笠井は聞き返し、牧之瀬は真っ赤になった。
「あのことだ!
 忘れろって言われたって、忘れられるわけ、ないだろう!」
答えて牧之瀬ははっと箸を取り落とす。丼を卓に置いて、横を向いた。
「僕は聞いたんだ……君達がしょっちゅう会っているって」
「牧之瀬さん……」
「僕のことを練習台にでもしたのか?
 それとも志保里のはとこだから、ちょっと慰めただけか? それともッ」
絶句して牧之瀬は後ろを向いた。
「それとも……からかっただけか?
 ぼ、僕のことを……いいとしして、あ、あんなにすぐ、出してしまった僕を……馬鹿だと思っているだろうな……」
「そんな!」
傷ついた声に笠井は本当のことを言うしかないと思った。
『言わないでって頼まれたけど……』
心を決め、牧之瀬に話しかける。
「原野さんは……」
牧之瀬はさっと笠井を振り返り、口をきゅっと結ぶ。
その表情が何とも真剣で可愛らしく笠井には思え、抱き寄せたくなる気持ちを必死で抑える。
自分も丼を置き、
「横井さんと付き合ってるんです」
と打ち明けた。
「えっ」
まったく予想していなかった名前に、牧之瀬は眼を見開く。
「そんな……信じられない!」
「俺だって、最初は信じられませんでしたよ」
笠井は笑いながら経緯を説明し始める。
「信じられます、あの横井先輩がナンパするなんて」
横井の言った『顔が牧之瀬でしかも女だったら、普通、男は口説くだろう』のくだりは省いたが。
「原野さんは美人で性格が良くて、すごくいい人だけど、恋人にしたいって思ったこともありません」
きっぱりと笠井は否定する。
聞くうちに、牧之瀬はなにやら心が落ち着くのを感じ、戸惑っていた。
それでも、
「横井さんか……あの人、外見は怖いけれど、いい人だものな」
と感想を漏らす。
「志保里が好きって言うなら……そうだな、あいつ、男を見る目があるかも知れない」
言いながら、笠井が可笑しそうな眼で自分を見ていることに気づく。
笠井は膝で牧之瀬ににじり寄り、優しく話しかけた。
「牧之瀬さん、安心しました?
 俺が原野さんのこと好きじゃないって知って」
「なっ、なに……」
見透かされて牧之瀬はまた真っ赤になる。
それでも笠井がまた一歩、近づくのを止めようとはしなかった。
射程距離に入り、笠井は腕を伸ばして牧之瀬の肩に触れる。
「さっきの答えですけど」
「え?」
牧之瀬は赤い顔のまま笠井の顔を見上げた。
「なんであんなことしたかって理由」
力を込め、ゆっくりと笠井は牧之瀬を抱き寄せる。
「からかったわけでも、慰めたわけでもありません。
 あなたが好きだからに決まってるじゃないですか」
牧之瀬は目を伏せ、かぶりを振った。
「こんなこと言われて、いやですか?」
「そうじゃない」
急いで牧之瀬はもっと強く首を横に振る。
笠井はそのまま体重をかけ、牧之瀬を床に横たえた。
牧之瀬は困った眼で笠井を見上げる。
「困ってます?」
牧之瀬が素直に頷いたので、笠井は苦笑いした。
「俺だって困ってます。
 いきなりここでコクるとは思わなかったから……準備ができてないって言うか」
溜息をつくと、牧之瀬の髪に指を入れた。そして顔を近づける。
「キスしていいですか?」
牧之瀬はいいともいやとも言わず瞼を閉じる。
多分OKなのだろうと笠井は唇を重ねた。
舌を絡め合いながら笠井がシャツのボタンを外そうとしたところで、初めて牧之瀬は抗った。
「駄目……だっ、み、ないでくれっ」
悲鳴を上げるので、笠井は胸が痛んだ。
急いで手を止め、肩を抱く。
「安心してください、いやがるようなことはしないから」
牧之瀬は抵抗をやめ、ふっと息を吐くとまた笠井の胸に納まる。
「ごめん……わかってるんだ、自分の気にし過ぎだってことは。
 僕だって医者の卵だし、この程度の傷が……」
ごくりと唾を飲む。
「ただ……見た人に色々、聞かれるのが嫌で……思い出してしまうから……それで」
「俺は聞きません」
笠井は牧之瀬の頭を撫で続け、安心させるようにきっぱりと言った。
「言いたくなければ、言わないで。
 俺は何も知らなくてもあなたが好きなんだから」
そして「見ないから」と言いながらシャツの裾をズボンから引き出し、手を中へ入れた。
「触らせてください」

牧之瀬はこくりと頷き、笠井の手が肌を探るのを許す。
愛撫に反応し、胸の突起が硬く尖ったのを確認すると、笠井は下へ手を伸ばした。
ズボンを半分下ろし、ブリーフに指を入れる。
牧之瀬は小さく悲鳴を上げたが、そのまま行為を受け入れた。
荒々しくなっていく息の下で、牧之瀬は「なんで……こんなことを」と呟く。
「好きだから……するんです、あなたが」
笠井が囁くと、牧之瀬はいきなり笠井の首にしがみついた。
「か、さいっ、ああっ」
乱れる牧之瀬を目の当たりにし、笠井も息が上がっていく。
あの時のように、自分が熱を牧之瀬に与えているのだと思うと、悦びが込み上げてくる。
「もっと熱くなって、牧之瀬さん!」
大きく手を動かした。
その瞬間を迎え、牧之瀬は喉の奥で悲鳴を押し殺す。 だが放つと、首にしがみついたまま、がたがた震え出した。
『前と同じだ……』
訝しく思って笠井が様子を窺うと、牧之瀬は怯えた目を向けた。
「どうしたんです?」
「痛くしないでくれ……」
哀願する声に笠井は「あっ」と気づいた。牧之瀬は笠井の次に取る行動を予測し、怯えているのだった。
『ええっ』
その時になって初めて笠井は気が付いた。
『つまり、俺が……入れるって思ってるんだ!』
女性との経験はないものの、男性とでも同様の行為が出来ることぐらい知っている。
牧之瀬の中に入れたいと思っていることも事実だ。
それでもまるでお返しのようにその行為を強要するつもりはなかった。
「安心してください、嫌がるようなことはしないから」
自分のTシャツの裾で指を拭くと、牧之瀬のズボンを元通りにする。

笠井の言葉に牧之瀬はほっと身体の力を抜き、頭を預けた。
「俺のこと、好きじゃないですか?」
笠井の問いに牧之瀬は急いで首を振る。
「好きじゃなかったら、こんなこと、出来ない……ただ……」
「ただ?」
牧之瀬はちょっと眉を寄せ、困った顔になった。
「よくわからないんだ。
 今まで、誰ともこんなことをやりたいと思ったことはない。
 身体を見せたくなかったから」
 牧之瀬は呟く。
「それが君となら出来るのは……好きだからだとも思うし……一度見られてしまっているから、安心しているのかも知れないし」
「うーん、正直ですねー」
笠井もその答えに困った。
「好き」だけではやらない、ということなのだ。
『他に好きな人がいても、諦めていたってことなのかな』
初めて好きになった、と言われたのなら嬉しいのだけれど、これでは既得権を行使したようなものではないか。
笠井はちょっとがっかりした。
牧之瀬は取り成すように続ける。
「君といると安心できて、そうだな……なんだか、言葉を交わさなくても分かり合える馬と一緒にいるみたいな、そんな信頼感があるんだ」
「俺って、馬なみですかー」
笠井は呆れたが、「そう言えば」と思い出す。
「ほら、初めて会った日、牧之瀬さんに同じことを言われましたね」
「あっ、そうだ」
「要するに、馬の取り持つ縁ってことなのかなー」
二人は同時に吹きだす。
牧之瀬は目尻を下げ、薄い唇を僅かに開いて、心からの笑みを見せる。
リラックスしたその笑顔に笠井は胸が熱くなった。
『我慢しよう……この人が恐がらなくなるまで』
あれほど恐がるのは、虐待を受けたせいに違いないのだと笠井は判断していた。
それでももう一度唇を重ねようと顔を寄せた。
すると牧之瀬が「なんだか焦げ臭い」と鼻をひくつかせる。
「あっ、しまった!」
笠井は飛び起きてカセットコンロのスイッチを切った。
「わっ、焦げ付いてる!」
牧之瀬は笑いながら上体を起こし、シャツの裾を入れる。
もう続きをするといった雰囲気はなく、
『ちょっと残念……』
落胆しつつも土鍋をキッチンへと運んだ。
そして、
「牧之瀬さん、正月はどうするんです?」
と尋ねる。
原野から牧之瀬は東京に出てから一度も実家に帰ったことはなく、正月は一緒に過ごしていたと聞いていたのだ。
「原野さんの家に行くんですか?」
「そうだなあ……」
牧之瀬はボタンを留めながら考える。
「あまり志保里の家には行かないほうがいいだろうな……いくらはとこだといっても、なんとなく横井さんに悪いものね」
「それじゃあ、俺んちに来ませんか?」
笠井は微笑む。
「是非、来てください、みんなに紹介したいから」
そして自分の生まれ育ったところを見てもらおう。
秋人のバイクで走ったところに連れて行こう。
そう笠井は決心していた。