AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

◆9◆
冬の章
          1
 
中央高速を勝沼インターで降りると、塩山はすぐだ。
大晦日と元旦は「初日の出暴走」を防止するために高速道路は厳戒態勢になるので、二日前の三十日に牧之瀬の運転するフェアレディZに乗って、二人は塩山へと向かった。
晴れてはいるものの、時折厚い雲が太陽を隠すとちらほらと白いものが舞う、寒い日だった。
沿道に続く果樹園には葡萄やすももや桃の木が植えられている。
今は葉が落ちて寂しいが、シーズンには花盛りになる。
塩山は隣町の勝沼と同様、果物の名産地なのだった。
笠井の祖父母は健在で、やはり葡萄園を経営している。
家は古い農家の造りで、平屋に土間、濡れ縁といった典型的日本家屋だ。
広い前庭には農機具の入れてある納屋があった。
祖父母は笠井が牧之瀬を連れて現れるとひどく喜んだ。
新婚の姉夫婦は夫の実家へ行っており、寂しがっていたのだ。
祖母は腰が少し曲がってはいたが、細身の元気の良い老女で、白髪の頭をパーマで膨らませ、お洒落な縁無しの眼鏡をかけている。
オレンジのブラウスに黒いスカートをはいていた。
母親は対照的にふっくらした大柄な女性で、髪は短く切り、いかにも今まで大掃除をしていたというジーンズにセーター、割烹着という身なりだ。
「お友達を連れてきてくれるなんて、賑やかでいいわ」
祖母は嬉しそうに二人を居間の堀炬燵に案内する。
「猫が入っているから、引っかかれないようにね」
母親の園子がお茶をすぐに運んできた。
「郁子は来ないから、客間にお布団を敷いてあげるわ、仲良く二人で寝なさい」
いきなり言われ、笠井はお茶を吹きそうになった。
「え、お前は自分の部屋で寝るの?
 だって、あそこで一人は寂しいでしょう?」
「それはそうだけど」
どぎまぎする笠井に、牧之瀬もほんのりと頬を赤らめる。
「随分綺麗な人だねえ、お前の同級生かい?」
「友人」とだけ聞いていた祖母が興味津々で牧之瀬を見る。
「いえ、僕は笠井君の先輩で、同じ馬術部員なんです」
丁寧に答える牧之瀬に、「ああ、馬つながり」と園子が話し掛ける。
「まあ、良にはぴったりだねえ」
祖母の感想に園子がすかさず「何が!」と突っ込む。
「いや、良は動物が好きだろう?
 馬術部なんていいじゃないか」
「ああ、そのことね」
園子が頷き、笠井はほっと胸を撫で下ろした。だが祖母がすぐ、
「あたしゃ、バイクに乗るより馬に乗るほうが賛成だね。
 バイク事故はこりごりだよ」
と続けたので、うっと詰まる。
「ちょっとこの辺りを散歩してくるから!」
牧之瀬の手を引いて立ち上がった。
これ以上いると、いらぬことを言われそうだ。
「夕ご飯にはちゃんと間に合うように帰ってくるのよ」
「マフラーと手袋、していきなさい」
元気な女達に見送られ、二人は母屋から前庭へと出た。
口数の少ない祖父と父は、濡れ縁でニコニコしながら蜜柑を食べている。
「行っておいで」と手を振った。
「笠井の家って面白いね」
牧之瀬はクスクス笑った。
「もうたまんないですよ、良かったー、姉ちゃんがいなくて……
 これで姉ちゃんがいたら、もっと大変ですから」
笠井は凝った肩を叩きならが嘆息したが、ふと気づいて牧之瀬の顔を窺う。
二親を早く亡くしたことを思い出したのではと心配になった。
だが牧之瀬は暖かな笑みを口元に浮かべている。
「いいな、こんな家に生まれたかったよ」
明るく言ったので、笠井はちくりと胸が痛んだ。
「ごめん……嫌なこと、思い出させちゃいましたか?」
「そんなことない」
牧之瀬は笑みを浮かべたまま、「本当にそう思うんだよ」と続ける。
「不思議だな……君といると、平気でそういうことが言えるんだ。
 今までは絶対に思っても言わないぞって決めてたんだけど」
笠井の家から歩いて二十分ほどのところに、武田信玄の菩提寺になっている恵林寺という名刹がある。
開創されたのは鎌倉時代だが、もちろん当時のままではなく、織田信長に焼かれてしまっている。
その後徳川家康に再興されたのだ。
道を登っていくと、黒ずんだ門が現れる。
さすがに十二月三十日では観光客の姿は少なく、パーキングには大型観光バスも停まっていない。
杉と桜が交互に植えられた短い参道を歩くと、小さな朱塗りの門に出た。
これだけが焼失を免れ、七百年という年月を過ごしている。
「これって、パンフの写真だと、すっごくでかいみたいに映ってるんですけどね」
笠井は笑いながら門をくぐる。
入るとすぐ、瓢箪型の池のある庭園になっている。
その向こうに大きな本堂、そして信玄公の墓所や有名な庭園と観光名所が続く。
それらの観光名所を無視し、笠井は左手に折れてどんどん進む。
牧之瀬は訝しく思いながらもあとを追った。
左の奧には杉木立を通り過ぎると広い墓所があった。
チイチイと甲高い鳥の声が木のてっぺんから降ってくる。
幾つもの墓を過ぎ、「御霊前」と刻まれた石灯籠を左右に配置した立派な墓の前で笠井は足を停めた。
「これ、秋人さんの家のお墓です」
「秋人……って」
たびたび笠井が「好きだった人」として名をあげていたことを牧之瀬は思い出す。
もう亡くなっているというのに、なんだか胸が騒いで俯いた。
その様子を見て笠井は「好きといっても、恋ってのとは全然違うんですけど」と付け足し、手を合わせた。
「なんていうか、俺があの人にこだわるのは、『こうすれば良かった』って悔やみみたいなものかな」
「悔やみ……」
牧之瀬は口の中で繰り返す。
「なんであの時、手を離したんだろう……
 俺があの人を離さなければ、あの人は死ななかったんじゃないかって」
秋人の父は県議会議員だった。
政権政党に所属し、県議連の議長も務めたことがある、いわば地元の有力者だ。
秋人には姉と兄がいて、どちらも優秀と言われており、姉は政治家の元へ嫁ぎ、兄は父の仕事を手伝っていた。
保守的で厳しい家の中で、秋人だけが浮いていた。
あとから聞いた話では、秋人は家の中で随分荒れていたとのことである。
「それでも俺にとっては、近所の優しいお兄さんでした」
共働きの両親だったので、笠井は学校から帰ると一人で家にいることが多かった。
祖父母は葡萄園の世話で忙しく、大人が誰もいない家によく秋人はやって来た。
年は離れていたが、秋人は遊んでくれたものである。
政治家である秋人の父親は体格がよく、威圧的な大声の男だったが、秋人はまるで違っていた。
優しい眼と低い声の持ち主で、背丈もあまり高くない。
バイクが好きだったが、連んで走ることもなく、いつも一人だった。
笠井の家に来ても、大人達とはほとんど会話を交わさなかった。
「俺が小学校の頃はバイクに乗っているかっこいい兄って感じで、俺は憧れてたんです」
革ジャンを羽織ってサングラスをかけバイクを跳ばす姿は、男の子にとってはスターのように思えた。
笠井はねだってバイクの後ろに乗せて貰うようになった。
教師の父は渋い顔をしていたが、母のほうは秋人が兄姉と比べられて悩んでいたことを知っていたので、息子が秋人を慕うことを叱りはしなかった。
笠井が中学校に進んだ年、秋人は塩山を離れた。
「近所では噂してました。
 三流大学しか入れなかったので、父親は恥じて、その大学に入学するのを許さずに東京の予備校へ通わせることにしたって」
「酷いことを言うんだな……」
牧之瀬は溜め息をつく。
「ちゃんとお父さんとお母さんが揃っていても、秋人って人は愛されなくて不幸だったんだな……」
笠井が中学三年の秋、急に秋人は帰ってきた。
以前とうってかわって、乱暴な口を利き、自販機を蹴飛ばすような行動も取るようになっていた。
それでも秋人は笠井だけには優しく接してくれた。
帰ってきたとの噂を聞き、秋人がバイトをしているガソリンスタンドに会いに行くと、
「随分伸びたな、もう俺を追い越しそうじゃないか」
秋人は言って優しく笠井の頭を撫でた。
そして指で笠井の頬をそっと触れた。
バイトは長くは続かず、仕事もせずにブラブラしている秋人を、周りの人間は「名家の落ちこぼれ」と評していた。
「東京で何か、もめ事があったらしい」「悪い人間と付き合っていたのだろう」といった声も上がったが、笠井には信じられなかった。
そしてあの夜。
高校受験のために通っていた塾からの帰り道、笠井は秋人に呼び止められた。
もう夜もだいぶ遅くなっていて、一本道の田舎道のこと、車通りも人通りもなく、辺りは暗かった。
「秋人さん?
 こんな時間にどこかへ行くんですか?」
秋人はバイクに乗ったまま、ヘルメットを脱ぐ。
現れた顔に笠井は驚いた。
秋人は眼の周りを腫らしていて、唇からは血が流れていた。
「どうしたんです、喧嘩でもしたんですか!」
笠井が駆け寄ると、秋人はふわりと笑った。
「違う、親父に殴られたのさ」
笠井はあの時の胸の痛みを思い出し、声を詰まらせた。
そして牧之瀬の顔を窺う。
「牧之瀬さん……ちょっとドライブ、しませんか?
 俺、運転します」
牧之瀬は黙って笠井のあとに従った。
フェアレディに戻ると、笠井は運転席に座る。
「秋人さんとよく、走ったところを見せたいんです。
 いい景色なんですよ」
JR塩山駅を目指し、途中から国道411号に入る。
「青梅街道ですよ、旧青梅街道のほうには、ほら、小説で有名な『大菩薩峠』があるんです」
笠井の説明に牧之瀬は「ああ」と首を振った。
「あの、『未完の大作』って奴だね?」
笠井は笑いながら「俺、読んでいないですけど」と言う。
「あそこら辺が大菩薩峠です。
 峠からは富士山がすごく良く見えるんですよ」
笠井は右手に連なる山々を指し示した。
くっきりとした稜線は雪で白く輝いている。
「車でもすぐ傍まで行けるんですけど。
 今は雪でゲートが閉まってて、登れないんですよ」
大菩薩ラインと呼ばれるドライブルートを笠井は昇っていく。
ヘアピンカーブの続く急勾配だ。
先頃の雪が路肩や山の斜面にはまだ融けずに残っている。
幾つかトンネルを抜けたところで、笠井は車を停めた。
少し停車余地のある道路脇に寄せ、外へと出る。
「ちょっと景色を見ましょう」
谷側まで行くと、笠井は空のかなたを指さす。
「天気が良ければ、アルプスまで見えるんですけど……もやってますね」
笠井の指先を牧之瀬は黙って見た。
目の前に広がる幾重にも重なる山並みは次第に淡い青色になっていく。
僅かに背景の空と区別が付く水色の稜線が南アルプスだと笠井は言った。
「この先の峠まで行ければいいんですけど……
 雪が積もっているから、スタッドレスを履いてないと無理ですね」
そして笠井は再び秋人のことを語り出した。
あの夜、秋人は笠井の頬を指で触れ、そして顔を寄せた。
冷たい唇を感じ、笠井は立ち尽くした。
「君には会っておきたかったんだ」
固まったままの笠井から秋人は離れる。
ヘルメットを被り、バイクをターンさせた。
「さようなら」
このまま別れてはいけないと、笠井は本能的に悟った。
「どこへ行くんです!」
秋人の背中に叫んだ。
「さあ、どこだろうな……俺のことを知っている人が誰もいないところがいいかな」
「俺も一緒に行きます、連れてってください!」
笠井は答えを待たず、バイクの後ろに乗った。
すると秋人は自分のヘルメットを取り、「被れ」と笠井に渡した。
猛烈なスピードで秋人は飛ばし出した。
ヘアピンカーブの続くこのラインを。
「怖かったけれど、あの人の腰に必死でしがみついてました……」
そのあと起こったことは、断片的にしか覚えていない。
「でも、秋人さんが僕の手を引きはがしたことは、はっきりとこの手に感じが残ってます……」
笠井は自分の手を顔の前に上げ、呟いた。
直後、秋人のバイクはガードレールに激突した。
バイクは谷底へ落ちたのだ。
消防と警察の話では、現場から少し離れたところに笠井は倒れており、
「多分、秋人さんは俺のことを落としたんだ、と思います」
それは誰にも言わなかったけれど……。
ベッドの上で意識が戻った時、既に秋人は亡くなっていた。
どころか、周りの人が教えてくれなかったために、葬式にも出られなかった。
「もっとも、俺、下腿骨折でうんうん唸ってたから、教えてもらっても行けなかっただろうけど」
それでも一言さようならが言いたかったと、笠井は呟く。
「いきなり存在が亡くなって、夢でも見ているみたいでした」
秋人がいなくなっても、世界は変わらずに動いていくのだ。
冬晴れの日、松葉杖をついて退院した時、笠井は思った。
高校受験の日は過ぎていて一浪することになったのだが、
「時間がいっぱいあって、俺、色々考えました。
 だから浪人して良かったと思います」
骨折のリハビリに通っている間、医師になりたいという気持ちも芽生えた。
事故のあと、秋人のことを誰も多くは語ろうとしなかった。
「なんでだろうって、不思議に思ってたけれど……」
事故現場にブレーキの跡はなく、秋人は自殺を図ったという見方が強かった。
事故の直前に秋人は父親と兄に激く責められていたのだ。
そして笠井は巻き添えを食った、というのが大方の意見だった。
「本当のことは秋人さんしか知らない。
 でも俺は、あの人のことが知りたくて、バイクの免許を取りました」
周囲、特に女性陣が反対する中、今度は祖父が味方してくれた。
「男の決心したことは止めさせられないもんだ」
「だったらいっそ、教習所でちゃんと習うほうがいい」
それでも厳しく、「買うのなら自分の力で買え」と申し渡した。
二輪の免許を手にすると、笠井はバイトをしてローンを組み、バイクを買った。
そして独りで秋人が走った道を飛ばした。
「それでわかったんです。
 バイクに乗っていると、本当に独りになれて、そして風に乗ってこのまま違う世界に簡単に行けるんじゃないかって思うことがあるんですよ」
笠井の言葉に牧之瀬は黙って頷く。
自分も馬に乗っている時は、たった独りの世界に浸れると感じているのだ。
笠井は牧之瀬の顔を見つめ、続ける。
「だから……秋人さんは死のうとしたんじゃなく、どこか違う場所に行きたかっただけなんだって……」
それに、と笠井は付け加える。
「あの時、秋人さんは俺にヘルメットを貸してくれました。
 そして手を振り解いた……
 俺を巻き添えにするつもりなんか、絶対なかったって思います」
そして秋人のもう一つの真実を知ったのは、つい最近のことだった。
秋人は東京で男性と暮らしていた、というのである。
しかも愛情のもつれから刃傷沙汰になったらしいのだ。
それは田舎の人間にはあまりにもスキャンダラスで、父親は必死でもみ消した。
「それでお父さんはものすごく怒って、秋人さんを連れ戻したんだそうです」
「そんなことが……」
笠井は腰を屈めてガードレール脇にかき寄せられている雪山から雪を掻き取る。
雪玉にすると、何度か掌の上で弄んだ。
「俺、あの人のことを何も知らなかった。
 それでもあの人のことが好きでした」
言い終わると手の中の雪玉を空へと放り投げる。
白い雪玉は青い空に弧を描き、崖の下へと消えていった。
「秋人さんが俺に何も言ってくれなかったのは仕方ないです。
 秋人さんが求めてたのは俺の手じゃなかったし、俺じゃあまだ子供で、秋人さんの力にはなれなかったろうし……」
それでも、と静かに付け足した。
「俺は決心したんです。
 俺に向かって伸ばされる手は、絶対に離さない、って」
そして牧之瀬を振り返る。
「あなたに会った時、秋人さんだと思いました」
初めて聞く話に、牧之瀬は眼を見開いた。
「そんなに僕が似ていたのかい?」
牧之瀬の問いに、笠井は首を横に振る。
「いいえ、全然」
怪訝な顔をする牧之瀬に笑って答えた。
「それでも最初の頃、あなたを見ていると、秋人さんの顔が浮かんできて困りました。
 今は、秋人さんの顔を思い出そうとすると、あなたの顔が浮かんできます」
牧之瀬は困った顔になって横を向いた。
「それは……どう取ったらいいんだろう?」
「あなたが一番好きって意味じゃないかな」
屈託なく笠井は言い、牧之瀬は笑い出した。
「いつも直球を投げるんだね、この前もいきなり言われたし」
ほっと溜息をつくと、空を見上げる。
「なんで僕の事を何も知らないのに好きなんて言えるんだい?」
笠井は首を振って、「だから関係ないんです、そんなこと」と答える。
「僕のことを知ったら嫌いになるかも知れないよ?」
「絶対、ないです」
きっぱりと否定する笠井に再び牧之瀬は笑みを浮かべた。
「君が言うと、なんでも本当だと思えるんだ……
 なんでかな?」
そして、目の前の雪の残る谷を見下ろす。
「君なら……僕のことを知っても、きっと……」
牧之瀬は一呼吸おいて語り始めた。
両親が雪の日に高速道路の多重事故の巻き添えで命を落としたのは、牧之瀬が小学校二年の時だった。
祖父母はとうに亡くなっていたので遠い親戚に預けられるという話も出たが、父の弟である叔父・哲也が東京から呼び戻された。
病院を受け継ぐ代わりに牧之瀬の親権者となったのである。
当時哲也は東京の大学病院に勤務していて、兄とは十二歳違うので、三十四歳になっていた。
その年に博士号も取得していたので大学を離れ、郷里に帰ることを承知した。
それまでも哲也は年に一度ほどは、実家に姿を見せていた。
背は兄よりも高く、口数の少ない男だった。
牧之瀬の目には特別に優しい叔父とは映っていなかったものの、兄・拓也との仲がさほど悪い様子もなかった。
それが半年ほども一緒に暮らすうちに暴力を奮うようになったのである。
小さいころはひたすら自分が悪さをしたのかと、牧之瀬は怯えるだけだった。
やがて理由がわかると、牧之瀬は驚愕した。
哲也は牧之瀬の父・拓也と母・明美に裏切られたと感じていたのだった。
「裏切りって?」
聞いていた笠井は思わず口を挟む。
牧之瀬はぎゅっと眼を閉じ、答える。
「僕の母は、初めは叔父の恋人だったんだそうだ……」
哲也は牧之瀬の父母をなじりながら折檻をした。
タバコの火を押しつけることもあったし、ベルトで叩くこともしょっちゅうだった。
それも外からはわからないように、裸にし、服の下になる場所を選んだ。
「今から思えば、叔父は精神的に追いつめられていたんだと思う」
叔父は結婚をしていたものの、妻とはうまくいっていなかった。
東京を離れる時、妻は秋田へ一緒に帰ることを承知せず、それを契機に離婚したのだった。
そのことも牧之瀬に当たる原因の一つになったらしい。
一度だけ見た、白い肌に散らばる傷痕を思い出し、笠井は胸が詰まる。
一歩近づいて牧之瀬のすぐ後ろに立った。
「叔父も苦しんでいたんだと思う……
 だって、自分を裏切った人の子供を育てなくちゃならなかったんだから」
牧之瀬は母によく似ていた。
大きくなるに連れ、それはますます顕著になっていった。
「お前の顔は見たくない」
殴られながらよくそう言われた……。
「でもそれだけじゃなかったんだ」
牧之瀬は振り返り、笠井をじっと見る。
何を言おうとしているか漠然と見当がつき、笠井は近寄って牧之瀬の腰を抱いた。
言い終わったあと、まさかとは思うが、飛び降りはしまいかと不安になったためだ。
回された手に牧之瀬は自分の手を重ねる。
静かに「そうなんだ、僕は性的虐待を受けていたんだよ」と呟いた。
小学校五年の時にそれは起こった。
高校時代の同窓会から帰った叔父はひどく悪酔いしていて、いつものように牧之瀬を裸にしてつねったりタバコの火を押しつけたりと折檻を始めた。
牧之瀬はひたすら丸くなって叔父の気が済むのを待つしかなかった。
ふいに叔父が粗い息をつき始め、牧之瀬をうつぶせにした……。
硬くて太いものを後ろからねじ込まれた時、単に叔父がお仕置きのために定規か何かを突っ込んだのかと牧之瀬は思った。
我慢していればそのうち許してもらえる……そう信じて、酷い痛みに唇を噛んで耐えただが奥まで捻じ込まれ、さすがに恐くなって逃げようとした。すると大きな身体に抑えられ、荒々しく揺さぶられて初めて牧之瀬は悲鳴を上げた。
「ただ、途中で気を失ってしまって、その時は何が起こったかわからなかった」
気が付くと内股を血が伝い、身体中がバラバラになったように痛んだ。
行われたのが性行為だったのだと知ったのは、何度目か、気絶せずに終わった時だった。
「お前が悪い」
叔父は憑かれたように繰り返しながら、肩越しにぼんやりと見ている牧之瀬の目の前で白い滴のしたたるモノを後ろから引き抜いた……。
牧之瀬は両手で顔を覆い、肩を震わせる。
「苦しかったけれど……叔父も苦しんでいた」
自分を犯したあとはいつも、「お前のせいだ、お前が明美に似ているから」と泣いた。
そのあと、何日か叔父は欲しい物を買ってくれたり優しくしてくれたりするので、判断力の幼かった牧之瀬は、傷つきながらも「我慢しよう」と思っていた。
「絶対誰にも言わなかったしね」
性的虐待はわからないところで続いたのだ。
その後も叔父はひどく酔った時などに、性的虐待を繰り返した。
だがそれだけが牧之瀬の心を傷つけたのではない。
周りの人々の話にも傷つけられていた。
「父、母、叔父、それぞれに味方する人がいて、一方を悪くいうんだよ」
父方の親戚からは、母・明美に父は騙されたのだと聞かされた。
「兄から弟に乗り換える、金目当ての女」に、妊娠を立てに結婚を迫られたのだと。
母方のほうは、叔父・哲也は遊びで明美と付き合っていたと非難した。
明美は哲也に捨てられ、拓也に拾われたのだと。
哲也を諦め、仕方なく拓也と一緒になったのだと。
そしてもちろん叔父は「父が明美を盗った」と言った。
「明美は俺を愛していたんだ、子供が出来たために仕方なく兄と結婚したんだ」
そして兄と明美は愛し合っていなかったと。
誰の言葉も信じたくなかった。
「僕の覚えている父母は、いつも笑っていて、とても楽しそうにしていた……
 それなのに愛し合っていなかったなんて……
 子供が出来たから仕方なく……一緒に」
低い声で呟く牧之瀬を笠井はぎゅっと抱きしめる。
「そんな……」
強く首を横に振った。
「言ってたじゃないですか、ほら、マルのこと」
「マル?」
牧之瀬は振り返り、笠井を見上げる。
「子供に一番飼いやすい犬をわざわざ選ぶお父さんが、あなたを仕方なく愛してた、なんてはず、ないですよ、絶対!」
「そうか……きっとそうだね」
牧之瀬は笠井の胸に身体を預けた。
「君がそう言うと、本当だと思えるよ」
そしてまた話を続ける。
中学三年の冬、牧之瀬は叔父から転校を告げられた。
東京の私立中学で、そのまま高校も進学する手はずが知らないあいだに調えられていた。
「私の傍にこれ以上いるな」
叔父は宣言した。
自分でもひどく良心の呵責に苦しんだ末の決定だったらしい。
それでも牧之瀬は自分を酷い目に合わせた叔父の傍を離れたくなかった……。
「だって、もし父母が僕を愛していなかったのなら、叔父だけには愛して貰いたかったからなんだ」
自分が我慢していれば、いつか叔父は両親への恨みを忘れ、自分を可愛がってくれるかも知れない。
ずっとそう思って耐えてきたのだ。
加えられた虐待がひどい心の傷になっていたと知ったのは、叔父の元を離れてからだった。
争いや暴力の場面に遭遇すると、具合が悪くなった。
酷い場合は過呼吸症候群を起こし、倒れた。
「でも最近は随分、起こさなくなったからね」
牧之瀬が大丈夫というように微笑んだので、笠井は苦しくなって牧之瀬の髪に顔を埋めた。
「……初めてだよ、人にここまで話すのは……
 原野の両親はいじめのことは知っていると思うけど……
 性的虐待をされていたとまでは知らないだろうから」
身体の向きを変えると、牧之瀬は笠井の分厚いダッフルコートに顔を埋めた。
「僕はだから、誰とも愛し合うことは一生ないと思っていたよ……君に遇うまでは」
低い太陽はそろそろ山の稜線にさしかかり、長い影が伸びて辺りは急に温度が下がっている。
「寒くなりましたから、もう帰りましょう」
笠井は牧之瀬を抱えるようにしてフェアレディに戻った。
 
 
その夜の宴は賑やかだった。
祖母と母の用意した御節料理に、もちろん郷土名物のほうとうだ。
「ちょっと早いけれど、お雑煮よ」
朱塗りの椀を盆に載せ、母の園子が運ぶ。
「牧之瀬さんのお家のあたりは、どんなお雑煮なの?」
「ほとんど、変わらないですよ」
醤油出汁に焼いた角餅、それにごぼうや大根などのたっぷりの野菜は共通していると牧之瀬は答える。
「まあ、それは良かったわ」
祖母が言い、園子はまた「なんで!」と突っ込む。
「この辺りの人と結婚しても大丈夫ってことよ」
確かに、と園子は納得した。
「私たちが関西へ行って全然違うお雑煮を食べると、カルチャーショックですもんね」
祖父は背の高い老人でかくしゃくとしており、七十代後半には見えない。
父の良信も背は高いが痩せていて、「相撲部の顧問」と聞いていた牧之瀬は「相撲を取られるんですか?」と尋ねてみる。
「まさか!」
良信(よしのぶ)は酒を飲みながら手を横に振った。
古文を教えていて、相撲部の顧問になったのも同僚から「国技なんだし、関係あるだろう」と無理やり押し付けられたようなものだったのだ。
それでもいまどき古風なほどの躾の厳しさと生真面目さで、部員達からは慕われていた。
息子はまだ未成年なので、ちょうどいい酒の相手が出来たと、良信はさかんに牧之瀬に酒を注ぐ。
もちろん自分も手酌でぐいぐい飲んだ。
「いい口実になるわね」
園子は呆れた。
「だって、正雄さんは下戸だから」
姉の夫は酒が飲めず、息子と酒を酌み交わすという希望が叶えられなかったのだ。
祖父と父はそのうち酔いつぶれてしまい、女性陣はブツブツ文句を言いながらその場に布団を敷き始める。
「客間に行きなさい、ここはもう暗くするから」
母に言われ、笠井は牧之瀬を伴って奥の座敷へと案内した。
古く大きな農家の造りで、幾つもの襖を明け、和室を通り過ぎると、欄干に立派な額が飾られた大きな日本間に布団が並べて敷いてある。
「ここです」
「なんだか迷ってしまいそうだね」
牧之瀬は笑いながら入った。
床の間の掛け軸は言わずと知れた武田家の「風林火山」の旗だ。
欄干の額はもちろん恵林寺の快川国師が残した「滅却心頭火自涼(しんとうめっきゃくすればひもまたすずし)」である。
「秋田にも古い家は多いけれど、僕の家は病院で洋風だったから、こういう純和風は珍しいなあ」
だいぶ前から火鉢が入れられていたと見え、部屋はほんのりと暖かい。
それでも笠井は、
「温泉、入ってきたほうがいいですよ」
と牧之瀬に勧めた。
「そうだ、一緒に入りましょうか?」
牧之瀬は「駄目だ」とかぶりを振る。
「わかりました」
笠井はあっさりと引いた。
「俺も牧之瀬さんと一緒に入ったりしたら、まずいことになりそうですから」
「まずいことって?」
聞き返し、笠井が答える前に牧之瀬は「あっ」と顔を赤らめた。
風呂を終え、浴衣に着替えると、二人は並べられた布団に入った。
「そっちへ行っていいですか?」
笠井は尋ねる。
「うん」
小さな返事を確認し、笠井は牧之瀬の布団を撥ね退けた。
細い身体に覆い被さり、尖った顎を片手で支える。
「いいんですか、本当に?
 俺、今夜は止まらないかも知れませんよ?」

牧之瀬は答えずに瞼を閉じた。

笠井が浴衣の前を開くと、ぴくりと身体を震わせたが、拒絶しない。
桜色に上気した肌に笠井は唇を這わせた。
肩から下へと傷痕の一つ一つに口付けていく。
よく見ると、立ち上がった胸の突起は両方とも瘢痕で少し変形していた。
この前、夏に見た時は沢山の傷痕に驚いて、じっくり見ていなかったのだ。
突起は充血して膨らんだことで、変形が顕著になり、先端がザクロのように割れているのがわかった。
『こんなことって……』
これでは誰にも見られたくないと思うのは当然だと、笠井は胸がきりきりと痛んだ。
そっと口付け、舌で柔らかく刺激する。
甘噛みしたかったが、怯えるかも知れないと気づく。
代わりに吸い付いた。
「あっ……ふ」
牧之瀬の口から喘ぎが漏れる。
「これ、いいですか? 
 俺、本当に初めてなんです、へたくそだから、痛かったら言ってください」
笠井は吸いながら問い掛ける。
「笠井……わからないよ、僕も……」
牧之瀬はシーツの上で身を捩る。
「そこ……ま、前は……痛いだけだった……終わると、いつも、血、だらけで……」
愛撫を拒もうと牧之瀬は笠井の頭を押しやる。
「駄目……だ、やっぱり……そんなとこ、見ないでくれ……」
『牧之瀬さん!』
笠井は口を離した。そして牧之瀬の両手を取って胸へと導く。
「な、なに……」
牧之瀬は戸惑いながら笠井のなすがままに自分の突起を指で触れた。
「ね、硬くなってるでしょう? 感じてる証拠ですよ?」
「ば、馬鹿……」
離そうとする手を笠井は自分の手でくるみ、なおも押し付ける。
「ここ、すごく可愛いですよ、ピンク色で。尖るとうんと色っぽいですよ」
「笠井……そんな……の、嘘だ……気を遣わないでくれ」
牧之瀬は首を振った。
自分の傷痕を見るのは嫌だったが、特にここは正視に堪えなかった。
入浴すると充血してひどく変形が目立つように感じ、いつも目を瞑って洗うようにしているのに。
『こんなに変形して、醜く膨れ上がった乳首が可愛いわけ、ないじゃないか……』
笠井はかたくなに首を振る牧之瀬ににっこりと笑いかけた。
「本当にすごく、可愛いよ、牧之瀬さん」
優しく指で突起を弄る。
「俺の言うこと、信じられません?」
間近の温かな笑顔に牧之瀬は胸が熱くなった。
「いいや……信じられるよ」
身体の力を抜き、動く指先を見詰める。
「もっと……やってくれ」
顔を真っ赤にして小声でねだる。
「もっと……」
「牧之瀬さん!」
積極的な言葉に笠井は有頂天になる。
再び突起を舐め始めた。
たっぷり愛撫を施し、次に下腹へと進む。
盛り上がった下着の形から、すでにそこが熱を帯びて勃ち上がっていることを知った。
ブリーフを引き降ろし、現れたものを笠井は自然に口に含んだ。
「ああっ、なにを……」
悲鳴が頭の上から降ってきたが、先程胸を愛撫したのと同じ要領で口を使う。
「か、さい……駄目だ、口なんてッ」
牧之瀬の泣き声に一旦笠井は口を離す。
「え、なんでですか?
 良くないですか?」
「そうじゃないけど……そんなこと……駄目だ、そんなところを」
笠井は笑いながら、牧之瀬を見上げる。
「どうしてですか?
 ここ、可愛いですよ、ピンク色で、尖ってて」
「ば、馬鹿ッ、いいから、そこは、は、離せ」
牧之瀬の言葉に構わず再び笠井は口に含む。先端を強く吸い続けた。
「あっ……あ、か、さい……」
やがて牧之瀬は下腹を激しく波打たせる。
「くうっ」
小さな声と共に放ち、ぐったりと弛緩した。
笠井は口を離すと、牧之瀬を胸に抱き寄せる。
「ああ……信じられない……
 君の口に出してしまうなんて……なんでこんなことを……」
潤んだ眼で見上げる牧之瀬に笠井は「好きだからするんです」と何度も囁いてやった。
そのうち牧之瀬はぶるぶると震えながら、笠井の胸を押しやる。
そしてシーツに仰向けで横たわると、自分から太ももを抱え、両膝を胸につける。
背中を大きく丸め、腰は半分浮かせて、あの部分を真上に近いところまでに持ち上げる。
まるで上を向いた胎児のような姿勢で、「笠井」と小さく呼んだ。
「こ、この格好が……い、一番、痛くないんだ……
 だから、こ、これなら……」
「牧之瀬さん!」
どんな酷い目に遭っていたのかと思うと、笠井は大きな怒りを覚えた。
手を膝小僧にかけ、足を伸ばすように促すが、牧之瀬は首を振る。
「大丈夫だ、これなら我慢できるから……」
「俺が嫌なんです」
笠井はきっぱり言うと、牧之瀬の手を外してやる。
「我慢なんてしてもらいたくありません、俺、待ちますから、あなたが嫌でなくなるまで」
「でも……」
傷ついた声で牧之瀬は呟く。
「ずっと嫌なままだったら?
 そのうち、君のほうが僕を嫌になるんじゃないかな……」
叔父に気に入られようと必死で身体を丸め、受け入れている子供の姿が、笠井の目に浮かんだ。
『この人はずっとこうやって……』
強張った身体を大きな手で宥めるように摩る。
「俺は別に、中へ入れなくても満足できるんですよ?」
言いながら笠井は牧之瀬の身体を抱えなおし、背中から抱いた。
「え?」
「しっ、俺のやるままにしていてください」
笠井は浴衣を落とすと、自分の猛ったモノを取り出す。臀部の割れ目に押し込んだ。
「いや、だ、そこ……後ろからは痛くて嫌だ!」
「大丈夫です、入れませんから、そのままで」
耳元で囁くと、笠井は動き出した。両手で腰を捕らえ、自分のモノをぎゅっと挟み込むように双丘を寄せる。
「十分、いけますよ、ここ」
言いながら笠井は激しく自分の腰を揺らした。
「もっと、腰を突き出して」
言われて牧之瀬は頬を赤らめながら、少し腰を屈める。
太ももの奥まで熱く硬いものが潜り込んできた。
「笠井……」
代用させている自分が情けなくはあったが、牧之瀬はせめて協力しようと臀部に力を込める。硬いモノを挟むようにする。
「牧之瀬さん!」
名前を呼ぶと笠井は後ろに押し付けたまま、放った。

「ああ、良かったよ……牧之瀬さん……」
笠井はうっとりと眼を瞑り、牧之瀬の腰を抱いた。
「牧之瀬さん、愛し……」
ロマンティックな言葉を発しようとしたとき、牧之瀬が困った顔で振り返る。
「笠井……流れてきた……」
それは外で放ったのだから当然のことだったが、笠井は慌てふためいた。 
「うわっ、シーツが染みになっちゃう!
 母ちゃんにばれたら大変だ!」
牧之瀬はぷっと吹きだした。
「やれやれ、全然感じ、出ないよ……」
ぼやきながらあたふたと笠井は布団から飛び出す。
ティッシュボックスを抱え、走って戻った。
なんとか間に合うと、内股を綺麗に拭う。
「ごめん……」
謝る牧之瀬の唇を自分の口で塞ぐ。
「考えてみれば初体験を自分の家でってのも、ムードないし、いいんです、これで」
笠井は笑って答えた。
「俺、初体験は大事に取っておきたいです」
「そうか、君ってまだ全然、誰ともやったこと、ないんだったっけ」
牧之瀬は感動して言う。
なんだか馬鹿にされたようで、
「牧之瀬さんだって、俺が初めてでしょう?」
むっとして笠井が言い返すと、牧之瀬はふっと暗い眼になった。
「僕は……違う、叔父と……」
途中で遮り、笠井はきっぱりと否定する。
「いいえ、あんなのはセックスじゃなくて単なる暴力です。
 牧之瀬さんは夏に俺とやったのが初体験ですよ。
 その証拠にすぐ出ちゃったじゃないですか!」
「笠井ったら……」
牧之瀬はぴったりと笠井の胸に顔を寄せた。
「不思議だな……君が言うと本当だと思えるよ……」
「俺、気長に待ちますから……初めては絶対牧之瀬さんとがいいです」
笠井は牧之瀬を抱くと髪を撫でながら呟いた。
「ずっと待ってますから……安心しててください」