| ◆10◆ |
|
冬の章
2
白馬は広がった鼻の穴から息を規則的に吐き出す。
冷たい大気の中でそれは蒸気機関車から吹き上げる白煙のように後ろへと流れていく。
汗で濡れた馬体からは絶え間なく湯気が立ち昇っていた。
試験のために中断していた練習を年明けから牧之瀬は再開していた。
アバランシュ乗馬学校はまだ人影が少なく、厩舎からは馬たちが食事をしているのか、飼い葉桶が柵にぶつかる金属音が聞こえてくる。
一般会員が訪れない早朝、病院へ行く前の僅かな時間も惜しんで練習に当てているのだ。
正岡から「いつでも乗っていい」と許可を得ているので、今朝はシルバーアローに騎乗している。
蹄跡に沿って馬場を駆け足で二周すると、中央へと馬体の向きを変える。
ドラム缶を寝かせた練習用障害へと馬を進めた。
シルバーアローは牧之瀬の誘導に素直に従い、易々と飛び越えるとその先の横木障害も通過する。
「よしよし」
首を叩いてスピードを並足に落とした。
隣の馬場では赤木がレフレル号に騎乗した青木を指導している。
まだだいぶ間があるものの、馬術部員は三月の関東学生争覇戦の準備に入ったのであった。
「牧之瀬さん!」
明るい声が上がり、牧之瀬は聞き慣れた声だが少し胸をどきりとさせる。
馬上から見ると、笠井が厩舎から走ってくるところだった。
馬房掃除の手伝いが終わったのか、紺色のトレーナーには藁がついている。
片手でヘルメットを抱え、もう片方の手を上げて振った。
おとなしい馬を思わせる大きくつぶらな黒い目でじっと見られると、どういうわけか胸が騒ぐのを最近牧之瀬は自覚していた。
もちろんあんな親密なことをしたのだから、笠井のことがとても好きなのだと思ってはいる。
だがそれがいったい「恋」と呼べるものなのかどうかというと、牧之瀬には自信がなかった。
なにしろ今までそういう感情を持ったことがない、どころか誰かと恋に落ちたいと願ったことさえないのだから。
あどけなさの残るハンサムな顔で微笑まれると、色々な想いが胸を過ぎり、「困る」という感情に支配されてしまう。
『ドキドキするのは困ってアドレナリンが出るせいなんだ』
動揺を隠し、
「笠井、交替しよう、乗れ」
牧之瀬は鞍の上から呼んだ。
「争覇戦の選手は四人だけれど、君も補欠で登録しておいた。
これから障害の練習を一緒にしたほうがいい」
争覇戦は団体戦なのだ。
六年生は引退したので、五年の牧之瀬と伊吹、それに三年の赤木と二年の青木までが選手となるわけだ。
それでも出場ぎりぎりである。
「え、俺もいいんですか?」
笠井は拳を突き上げる。
「やったー」
ずっと正岡に週に一度、練習を見て貰っていたが、基礎訓練のみで、障害飛越はそれ程経験していないのだ。
代わって騎乗すると、まず準備運動から始める。
牧之瀬の号令に合わせ、ターンさせたり八の字を描かせたりと馬を動かす。
久しぶりに笠井の騎乗を見て、牧之瀬は眼を丸くした。
「笠井、すごく上手くなっているよ、騎座も安定してるし……
驚いたなあ、独りで練習していたわけじゃないだろう?」
笠井はちょっと得意になった。
「実は……」
正岡に個人的に見て貰っていたと告白する。
「へぇ、あいつが!」
しきりに首を捻っていたが、やがて感心して
「本当に君は誰とでも友達になってしまうんだなー」
と言った。
「牧之瀬、この馬に乗ってくれって」
伊吹が焦げ茶色の毛並みの馬を曳いて馬場に入ってくる。
栃栗毛という毛並みのタイプだ。
足の先が四本とも白く、白いソックスを履いたように見える。
額の真ん中には大きな白い星があり、愛嬌のある馬だ。
「カリンカじゃないか!」
牧之瀬は近寄って手綱を受け取る。
乗馬クラブ所属で、カリンカ号という名の馬だ。
「工藤校長が乗ってみなさいって、言ってくれたんだ。
貸与馬(たいよば)戦には色々な馬に乗ってみる経験が必要だからってね」
伊吹の言葉に牧之瀬は「そうだね」と頷く。
「争覇戦は貸与馬方式なんですか?」
鞍の上から笠井が尋ねたので、伊吹が代わりに「そうだ」と答えた。
「出場校から何頭か馬を登録して、その中からクジで決めるんだ。
自校の馬に当たれば楽だけれど、そういうことはまあ、ないからね」
貸与馬方式では、相手校の選手とペアを組み、クジで決められた同じ馬に乗って障害を飛ぶ。
交互に腕を競い、成績がよいほうに勝ち点がつく。
四人の選手で競い、点数の多い大学が勝ちとなるわけだ。
それに比べ、自馬戦というのは自分の持ち馬に騎乗するもので、これでは馬の優劣がかなり試合結果を左右することになる。
「つまり貸与馬戦だと実力が出るってことですか?」
笠井の問いに「うーん、まあね」と曖昧に牧之瀬は答えた。
カリンカ号に乗ると、軽く脇腹に拍車を当て、前へと進める。
「作戦も大切なんだよ」
牧之瀬を見送って伊吹があとを引き取った。
「二人で同じ馬に騎乗するんだけれど、前に乗るかあとで乗るかで、作戦が違うからね。
例えば、臆病で見慣れない障害を怖がる馬だと、あとから乗ったほうが有利だし、体力的に劣る馬だと、一回走行すると疲れちゃったり、嫌になってさぼったりするからね、先に騎乗したほうが有利ってことなんだ」
「ええっ、どうやってそういうことを見分けるんですか?」
笠井は眼を丸くする。
「だから、他校の試合も偵察しなければいけないんだよ。
馬の癖を見抜くんだ」
伊吹はちょっと得意そうに胸を張った。
「まあ、つまり頭脳もいるってことで、俺達なんかは練習量不足を頭で補ってるってことかな?」
牧之瀬は軽い準備運動を済ませると、伊吹に頼む。
「じゃあ、ドラム缶を立ててくれないか?」
今まで横倒しになっていたドラム缶が砂地に立てられる。
幅は変わらないが、高さは二倍だ。
もう一箇所の横木障害も牧之瀬は「メーター二十にして」と指示した。
「連続障害を飛ぶ練習だ」
今まで障害を飛ぶことは何度もあったが、試合のように続けて飛んだことはない。
笠井は少し緊張した。
牧之瀬は馬上から細かい指示を笠井に与える。
「飛び終わったらすぐに馬の首を立て直し、次の障害へ向けるんだ。
飛び終わるまではまっすぐに。
飛越する前から馬がどの障害を飛んだらいいか混乱してしまうからね」
つい気持ちが焦り、乗っている騎手は次の障害へ目をやりがちだ。
その時、手に力が入って馬の首もそちらへと向けてしまうことがある。
そうなると馬の気も散ってしまい、目前の障害がおろそかになるというわけだった。
笠井はシルバーアローをドラム缶障害へまっすぐ向けた。
シルバーアローは一瞬耳を寝かせたが、笠井が長靴の踵で馬の腹を圧迫すると、すんなりと駆け足で発進する。
ドラム缶をふわりと飛び越え、着地した途端、笠井は次の横木障害へと馬の首を向ける。
この場合、乗り手よりも馬のほうが経験豊富だ。
シルバーアローは自分から勇んで横木障害へと向かい、やすやすと上を通過した。
「どうどう」
まだやる気を見せているシルバーアローの手綱を引くと、笠井は歩を緩めた。
見ていた伊吹が「馬の邪魔をしないで飛んでいたよ」と感心する。
「笠井、お前、センスあるよ」
「というより、馬の気持ちがわかるんじゃないか?」
馬上から牧之瀬が明るく言う。
「シルバーアローは飛びたがっていたからね」
そして目を細め、唇の端をあげて微笑む。
「連続障害をこれからメインにして練習しよう。
実践に備えて、ね?」
やった、と笠井は嬉しくなった。
『もしかしたら、牧之瀬さんと試合に出られるかもしれない……』
そんなことはずっと遠い夢だと思っていたけれど……。
まずあの人の傍へ行くこと。
それが第一目標だったっけ。
実を言えば、塩山から帰って以来、一度も牧之瀬に触れる機会は巡ってきていない。
牧之瀬は意識的にそういう状況になることを避けているようなのだ。
変わらず夕食は笠井の部屋に食べにくるが、終わると「明日が早い」「レポートがある」などと言い訳してそそくさと帰っていく。
一度、「泊まっていきませんか」と誘ってみたが、返ってきた答えは「また断って嫌われたくない」だった。
それも仕方がないと笠井は思う。
身体に残された傷痕を思えば……。
『待つって決めたんだから……』
それよりも今みたいに、馬に乗って微笑んでいる牧之瀬の傍にいることが嬉しかった。
『一緒にいれば、いつでもあの人の笑顔が見られるんだ……』
そう、自分の胸で過去の傷に苦しみ、顔を歪めているのを見るよりはずっといいのだ。
「よし、もう一度だ、笠井」
牧之瀬の掛け声に笠井ははっと我に帰り、手綱を握り締める。
「わかりました!」
と大声で答えた。
|
|
|
|
|