冬の章
3
夜から雪になるという予報通り、夕方から雨は霙に変わっている。
二月に入ってから寒波の影響で、このところ東京は真冬日が続いていた。
土曜の午後、「寒い、寒い」と文句を言うほかの部員を尻目に、二人は元気良く乗馬クラブで練習に励んでいた。
東京生まれ東京育ちの大野は、鼻を真っ赤にしている。
「笠井、よく、寒くないねー」
「だって、塩山なんて、もうここの比じゃないんだよ」
練習が終わって、馬の手入れをしながら会話する。
「僕も秋田だからな、平気だよこれぐらい」
馬にブラシをかけながら牧之瀬も笑う。
軽く食事をして二人がマンションに帰ったときは、すでにちらちらと白いものが舞い始めていた。
笠井は自分の部屋に入る寸前で、牧之瀬を呼び止める。
「すみません、洗濯、いいですか?」
途中から雨模様だったので、すっかりキュロットは泥だらけになってしまったのだ。
「いいよ、じゃあ僕のもついでに洗ってくれるかな?」
牧之瀬は笑い、自分の部屋の扉を開ける。
一緒に部屋に入ると、真っ暗な中に電話の赤いランプが見えた。
「病院からかな?」
牧之瀬は電気をつけると、駆け寄る。
再生ボタンを押した。
「録音は五件です」
アナウンスが流れる。
続いてテープが再生された。
洗面所でランドリーバックを探っていた笠井は後ろから聞こえてきた内容に固まった。
声は低い男のものだった。
「頼む、帰ってきてくれ、今すぐ」
男は何度も懇願する。
「今、言わなければ一生言えないことがある」
声の深刻さに笠井はリビングの入り口まで行ってみた。
「牧之瀬さん!」
笠井が呼ぶと、牧之瀬は真っ青な顔で振り向いた。
「ひょっとして、これ……」
牧之瀬は頷く。
「ああ……あいつだ……叔父だよ……」
最後に入っていたのは別の男性のもので、「病院の事務長の鈴木」と名乗った。
「牧之瀬院長は、明日、冠動脈の血管移植術を受けます。
何度も連絡を取ろうとしたのですが」
「胸腔鏡による手術ですが、全身麻酔をかけ、もしかしたら人工心肺を使う開胸術になるかもしれません。
万が一のことを考え、どうしてもあなたに詫びたいことがあるとおっしゃっております。
意識がある間に是非、戻ってきてください」
牧之瀬はフロアソファにふらふらと腰を落とした。
「牧之瀬さん、急いで連絡しないと!」
だが牧之瀬は動こうとしない。
「何度か心筋梗塞の発作を起こした、とは聞いていたけれど」
小声で呟く。
「手術するのか……」
「なに、ひとごとみたいに言ってるんですか、すぐに秋田へ帰らないと!」
牧之瀬は青ざめた頬をひくりと震わせる。ゆっくりとかぶりを振った。
そして消去ボタンを押し、「僕は行かない」と答えた。
「なに、言ってるんですか! もしかしたら、死んじゃうかも知れないんですよ?」
「だが失敗するとは限らない。
胸腔鏡によるバイパス手術は侵襲が少ないんだから」
「うーん……」
さすが医学生と笠井は思ったが、それどころではない。
「だけど、万一ってこともあるじゃないですか!」
言い募る笠井を牧之瀬はきっと見上げる。
「今になって謝りたいなんて……そんなこと、ずるいじゃないか!
しかも死ぬかもしれない、なんて!
そう言えば、僕が許すとでも思っているんだ!」
「牧之瀬さん……」
牧之瀬は激しく首を振り続ける。
「もういい、済んだことだ、僕は謝ってなんか欲しくない。
そうすれば、一生、許さないでいられるから」
今さらながら、心の傷の深さに気づき、笠井はそれ以上、言うのを止める。
それでも心の中ではある決心をしていた。
そのことは隠し、牧之瀬の隣に腰を下ろすと肩を抱く。
牧之瀬は小さく息を漏らすと笠井の胸に顔を埋めた。
「笠井、笠井」
名を繰り返し、背中に腕を回してしがみつく。
「牧之瀬さん……」
ぎゅっと瞼を閉じ、苦しげに眉を寄せる表情が哀しくて、笠井は顔中に口づける。
薄い戦慄く唇を捕らえると、牧之瀬は自分から舌を絡めてきた。
「いいですか、触っても?」
こくりと頷く首の動きに、笠井はそっと牧之瀬をソファに横たえた。
ソファの上で笠井は牧之瀬を愛撫した。
服を取り去り全裸にすると、胸の突起を舐めてやる。
モノを扱きながらうなじに口付け、耳元で「好きだ」と囁く。
セックスが暴力ではなく、愛の行為なのだと教えたかった。
「あ、か、さいッ」
白い液を放出したあとも、笠井は手を離さない。
「もっと、出してください」
「笠井ッ」
抗う牧之瀬を抱きしめ、両足で押さえ込む。
力で征服するようで、怯えさせるかもと心配になったが、牧之瀬はそのうち笠井に身を委ねた。
小さな子供のように笠井に揺すられて瞼を閉じた。
「ああ……またッ、出、るッ」
ぐったりと弛緩した牧之瀬を抱えなおすと、笠井は下へ移動する。
今度は口に含んだ。
「あ、ああ……んッ、ああッ、か……さいッ、駄目、もうッ」
泣き声にかまわず笠井は激しく舌を使い、全てを吸い尽くすかのように吸綴(きゅうてつ)した。
二度三度と笠井に追い上げられると、牧之瀬は胸の中でうとうとと微睡み始める。
もう力は吸い出されて残っておらず、瞼を開けるのもやっとだ。
「笠井……眠い」
「ベッドへ運んであげますから」
笠井は横抱きにして全裸のまま、牧之瀬を寝室へ運んだ。
毛布を掛けてしばらく眺めていたが、そっとその場をあとにする。
既に段取りは決まっていた。
身体がふわりと浮くのを感じ、牧之瀬は重い瞼を開ける。
暖かいものに全身がくるまれ、身動きが取れない。
笠井の胸に抱きしめられているのかと、
「重いよ、笠井……どいて?」
と呟く。
すると身体がまたふわふわと左右に揺れ、どこかへ運ばれていくのだとわかった。
「笠井?」
暗闇の中、目を凝らす。
「え? これは……」
牧之瀬は首だけを出した格好でシュラーフザックに押し込められ、笠井に抱かれて部屋の外へまさに連れ出されようとしているのだった。
「か、笠井、どういうことだ!」
大声を出しかけると熱い唇が口を塞ぐ。
「ああん……んんっ」
情熱的な深い口づけで、笠井の舌に口腔を激しく犯され、言葉を奪われてしまう。
「か……さい……」
なんとか舌の愛撫の隙間から掠れ声を出すと、笠井はくすりと笑って唇を離した。
「牧之瀬さん、黙っててください。
俺、あなたを秋田へ連れて行きますから」
「そんなの、嫌だ!」
牧之瀬はもがいたが、何しろ顎までジッパーが上げられ、手足の自由が利かない。
それでもシュラーフの中から足を使って笠井を蹴ろうと試みる。
「駄目ですよ、暴れないでください。
それに今、どんな格好をしていると思います?
シュラフの中は素っ裸なんですよ?
ここで騒いでおおごとになったら、恥ずかしいですよ?」
笠井に言われるまでもなく、それはわかっていた。
「頼む、笠井、止めてくれ」
哀願作戦に出てみる。
だが笠井はかまわず、牧之瀬を抱いてどんどん階段を降りていく。
駐車場まで行くと、牧之瀬は得意そうに、
「Zの鍵、持っていないだろう」
と言った。
「どうやって秋田まで行くつもりだい?
僕を抱いて新幹線に乗るのか?」
笠井はくすくす笑い出した。
「可愛いな、牧之瀬さんって」
牧之瀬のおでこにキスを落とす。
「残念でした!
俺、山岳部(ワンゲル)の奴にシュラフと一緒にパジェロも借りたんですよ」
牧之瀬は驚愕に眼を丸くする。
「本気なのか!」
「それより安心してください、服、パジェロに積んでありますから。
しばらく行ったら着せてあげます。
それまではすっぽんぽんのまんまで我慢しててください」
確かにスタッドレスを履いたパジェロが駐車場に停まっていて、牧之瀬は「なんて奴だ」と呻いた。
笠井はリヤシートに牧之瀬を横たえると、すぐにエンジンをかける。
「すみません」
と謝りながらパジェロを発進させた。
それでもハンドルを握りながら、きっぱりと言う。
「俺、怒られるの、覚悟です。
でもどうしてもこれだけは譲れません。
あなたを連れて行きます」
意志の強い男らしい声に、牧之瀬はリヤシートの暗がりの中で息を呑んだ。
「もう二度と会えないかも知れない。
そう思った時、俺、秋人さんを追いかけました。
俺は怪我をしたけど、後悔はしなかった。
あなたにも後悔して欲しくありません」
疾走するパジェロの窓から、街灯やビルの灯が流れ込んでくる。
牧之瀬は眼を閉じていたが、瞼の裏側を走り抜ける光の矢を感じていた。
知らぬ間に涙が頬を流れていることに気づく。
牧之瀬は唇を噛み、嗚咽を堪えた。
「……笠井」
やがて震える声で運転席の大柄な人影に呼びかけた。
「わかった……もうわかったから……頼む、ザックから出してくれ」
交替でぶっ続けに運転し、二人は休みなく東北自動車道を北へ目指した。
秋田市にある牧之瀬の家に着いたのは、翌日の昼近くだった。
外科・内科・産婦人科を標榜するベッド数が二百以上もあるかなりの規模の私立病院だ。
五階建ての白いコンクリート造りで、一部、増築工事の途中なのが笠井の目を引く。
「ああ、去年、増築すると叔父から連絡があったんだよ」
駐車場に停めたパジェロから降りると、笠井の視線を辿り、牧之瀬は硬い表情で答える。
「僕が医師になったら帰ってくるように言われていてね……
そのためにベッドも増やすと言っていた。
もちろん僕はその気はないと断ったけれど……」
口を噤むと目の前の大きな建物を睨む。
「いまさら謝るなんて、心筋梗塞を起こしたから急に弱気になっただけなのさ」
吐き捨てるように言う牧之瀬の顔を笠井は心配そうに窺う。
口ではそう言っていても、そもそも父や叔父と同じ医学の道を目指したのだ。
愛されなかったが故に肉親の情は人一倍強いのだと笠井は思っている。
建物の壁際には雪が積み上げられている。
昼近くなのに大気は冷たく、雪が融ける気配もない。
笠井のほうはダッフルコートだがそれでも身を切るような寒さだ。
バーバリのトレンチで牧之瀬はぶるぶると震える。
寒さの為なのかそれともこれからの会見のためなのかと、笠井は訝った。
「牧之瀬さん、大丈夫ですか」
声を掛け、肩を抱き寄せる。
牧之瀬は答えず、笠井を押しのけると先に立って歩き出した。
携帯で連絡を入れていたので、病院の玄関を入ると、鈴木事務長が走って出迎える。
白いものの混じった髪を七三に分け、小柄で眼鏡を掛けた品のいい紳士だ。
叔父の哲也は自分の病院の外科病棟に入院していて、午後からの執刀になっていた。
「麻酔の前投薬を受けておりますが、意識はしっかりしていらっしゃいます」
説明しながら鈴木は二人を三階の特別室へと案内する。
「俺、外で待ってます」
扉の前で笠井が言うと、牧之瀬は真っ青になって笠井の腕を握った。
「頼む、一緒にいてくれ。僕一人では耐えられない」
事務長は躊躇したが、牧之瀬の意志の硬さに「宜しいでしょう」と扉を開けた。
広い二十畳ほどの個室の真ん中に、ベッドが一台ある。
その上に牧之瀬によく似た中年の男性が横たわっていた。
『牧之瀬さんはお母さんそっくりだって話だけど……』
笠井は驚いて男を見つめる。
神経質そうな細い顎に切れ長の茶色の目は牧之瀬と同じものだ。
病みやつれているものの、なかなかの色男である。
哲也は自分で電動ベッドのコントローラーを作動させると、ベッドを半分起こす。
ぼんやりとした眼に光が戻った。
笠井を睨み、「君は誰だ」と誰何する。
「ここから出ていけ」
重い病に倒れても、威圧的だ。
笠井は睨み返し、牧之瀬の肩を抱いた。
「俺は牧之瀬さんを支えている友人です。
ここを離れません」
拓也は眼を見開いた。
「拓海……お前はあのことを」
牧之瀬は震えながら頷く。
「ああ、彼は知っているよ、あなたが僕にしたことを。
あなたの言い分は聞くけれど、彼にも聞いて貰う。
それが嫌なら、僕はこのまま帰ります」
拓也はしばらく睨んでいたが、眼を閉じた。
「……わかった、もう時間がないのだ、いいだろう」
独り言のような小さな声で続ける。
「いまさら、他人に聞かれて困るという事態ではないからな……犯した罪は一緒だ」
眼を見開くと牧之瀬を見据える。
そして「拓海、お前は私の息子だ」と呟いた。
「え? なんだって?」
牧之瀬は聞き取ろうと一歩前に出た。
「聞こえなかった、叔父さん、なんて言ったの?」
哲也は淡々と答える。
「拓海、お前は拓也と明美の息子ではない。
私と明美の子だ」
「なに言ってるかわからないよ、叔父さん!」
牧之瀬は悲鳴のような声を上げると、二度三度と頭を振る。
「なんでこんな時に馬鹿なことを言うんだよ!
悪い冗談は止めてくれよ!」
聞いていた笠井も頭の中が真っ白になったように感じた。
『そんなことって……それじゃあ、この人は……実の息子を……』
しかし今、それどころではないと支えている腕に力を込める。
「嘘だ、そんなこと!」
牧之瀬の必死の叫びに、哲也はゆっくりと言葉を発する。
「本当だ。冗談でも何でもない。
お前は私の息子だ。
証拠はここにある」
ゆっくりと片腕を上げ、サイドテーブルの上の古びたカルテを指し示した。
「去年、見つけたものだ」
暮れから増床工事の計画が進み、カルテ倉庫の整理が行われた。
法律的には五年経てば古いカルテは破棄してよいことになっている。
今までも何度かカルテの破棄は行なっていたが、今回は兄の私物が納められている戸棚も整理することにした。
そして鍵のかかった引き出しから二十年以上も前のカルテを見つけた。
「なぜ取ってあったのだろう」
哲也は不思議に思い、中を開いた。
それは産婦人科のカルテで主訴は「不妊」。
検査結果では患者の精液には運動性のある精子はまったく存在しない、となっていた。
カルテの名を見て、哲也は驚愕した。
兄の拓也の名前があったからだった。
「だからお前は拓也の子供であるはずがない。
拓也は戸籍上の父でしかないんだ」
哲也はぐったりと腕を布団の上に落とす。
「思い当る節があった。
あれは私が小学校の時だ」
哲也は流行性耳下腺炎に罹患した。
俗に言う、おたふく風邪である。
その頃拓也は東京の医大で医学を学んでいたが、ちょうど休みで帰省していた。
弟からウィルスを伝染(うつ)された兄は東京へ戻ってから発症したので、そのことを哲也は知らなかったのだ。
大人になってから小児期に罹る病気に感染すると、重篤な合併症を伴うことがある。
結果的に拓也は副睾丸炎を併発し、無精子症になったのだと哲也は推測する。
「それから、色々なことを思い出してきた」
哲也は呟く。
「兄は一度、見合いで婚約したことがある。
そう、医大を卒業して研修を終え、秋田に帰ってきた頃……」
相手は地元医師会の会長の娘だった。
四大を出たばかりの和服の似合う秋田美人で、双方とも乗り気だった。
「それが向こうから破棄を申し渡してきたのだ。
それは兄が『自分は子供が作れない身体だ』と正直に打ち明けたためだったらしい。
私は当時仲人に立ってくれた人に問い合わせ、確かめた」
「そんなこと、嘘だ!」
牧之瀬は叔父を遮る。
「僕だって、医学生だ。
一回の検査で精子が無くたって、理論的にはまったくゼロってこと、ない。
子供の出来る可能性はあるじゃないか!」
「そう言うのも無理はない」
哲也は苦い笑いを唇に浮かべる。
「DNA鑑定をしてもいいが……兄夫婦の検体(サンプル)はもうないからな。
確かにゼロではない。
それでもお前は私の息子だという状況証拠があるんだ」
大きく溜め息をつくと、哲也は笠井に目を移した。
「私を最低の人間と思っているだろう。
それでも君が想像するよりもっと、私は悪い男なのさ……
惨めだよ、こんなことを息子に告白しなければならないなんて……」
それでも、と哲也は続ける。
「打ち明けずに死にたくないんだ」
自分の犯した罪の深さに、一生黙っていようと思っていた。
だが心筋梗塞で倒れた時、たった独りで自分は死ぬのだと背筋が寒くなった。
自分の周りには誰もいない。
そう思った時、身勝手とは知りつつ、牧之瀬の顔が浮かんだ。
「血を分けた実の息子」にどうしても会いたい。
許してもらいたいと思った……。
「それでもやはり、お前は私を許さないだろうと、一度は連絡を取るのを諦めた」
そして二度目の発作を起こし、バイパス手術の適応と告げられた。
「もし失敗したら、本当にたった独りで死ぬことになる」
それで思い切って、手術の前日、牧之瀬に電話したというわけだった。
哲也は自分と牧之瀬の母のことを語り出す。
……………明美と哲也は高校まで同窓の幼馴染みだった。
明美はよく病院にも遊びに来ていて、拓也も妹のように明美を可愛がっていた。
年頃になって自然に明美と哲也は恋人同士になった。
哲也がJ医大に入学すると、明美も一緒に上京し、就職した。
ほとんど同棲するような形で、周囲はもちろん哲也の卒業を待って結婚させるつもりでいた。
「だが私は、もっと遊びたかった。
おごり高ぶっていたんだ」
医者になれば女とは遊び放題だとうそぶき、次第に明美を疎ましく感じるようになった。
それでも散々遊んだあげく、明美の元に帰った。
明美もそんな哲也を非難しながらも許していた。
医学部を卒業すると、結婚したいと希望する明美を言いくるめ、哲也はその後もなあなあの関係を続けた。
周りには、結婚は研修が終わって一人前になってからと言い訳を続けた。
「明美は私に惚れているという自信があった。
どんな酷いことをしてもいいとまで誤解するようになってしまった」
苦い思いを哲也は噛みしめる。
「そうやって一番大事なものを失った。
自業自得なのに、さらに人のせいにして恨んだ。
どうしてもっと早く死ななかったのだろう……
早く死ねば拓海、お前も不幸にしなくて済んだのに」
喧嘩して秋田に一時帰っていた明美が、いきなり哲也の部屋を訪れた時、哲也は別の女性とベッドの中にいた。
「赤ちゃんが出来たの」
青ざめた顔で告げる明美に、哲也は暴言を吐いた。
「俺の子という証拠はあるのか」
さらに「お前の代わりはいくらでもいるんだ」とも。
明美はその場を飛び出し、二度と帰ってこなかった。
どうせすぐまた戻るだろうと高をくくっていた哲也は、次第に不安になった。
けれども大学病院で忙しく勤務していたし、それなりにガールフレンドたちと楽しい日々を過ごしていたので、秋田に連れ戻しに行くことは考えていなかった。
そして半年ほど経った頃、明美が兄と入籍したと連絡を受け、驚愕した。
「お前が生まれたのはその一ヶ月後だ。
私は明美がてっきり兄と私の二股を掛けていたのだと誤解した」
明美は兄の子を宿し、自分を騙そうとしたのだ、とも考えた。
「それとも、明美が私を裏切るはずはない、兄が無理やり関係を迫った違いない、とも……
妄想が妄想を呼んで、気が狂いそうだった」
逆上したが、嫉妬を認めたくなくて、裏切られたために怒っているのだと自分を誤魔化した。
「明美の代わりなんて幾らでもいる」
そう周りにはうそぶいた……。
青ざめた顔で告白を続ける哲也を笠井は複雑な思いで見守る。
どんな理由があろうとも、抵抗の出来ない小さな身体に暴力を奮うことなど許されるはずもないのだ。
『それは血の繋がりのある無しと、全く別のことなんだから……』
哲也は強張った表情の笠井にまた目をやり、
「そうだ、言い訳にはならない」
と呟く。
「ただ、これだけは確実だ。
兄は私の子供と知って明美を受け入れたのだ。
それに明美は心が優しくて、我慢強くて、兄と結婚してずっと幸せだった。
私では彼女を幸せに出来なかったろうから……」
牧之瀬が戦慄く唇を開いた。
「じゃあ……お父さんとお母さんは……
しょうがないから結婚したんじゃなくて……」
哲也はきっぱりと頷く。
「お前の父と母は本当に愛し合っていた。
秋田に帰るとそれを見せつけられ、私は嫉妬で気が狂いそうだったよ。
自分で泥の中に投げ捨て、踏みにじったくせに。
それを他人が手に入れて大切にし、輝いているのを見て妬ましかったんだ」
牧之瀬は俯いた。
「あなたの言ったことは全て嘘だったのか」
「すまなかった……」
哲也は話を終えるとぐったりと頭を枕に埋めた。
やがて再び哲也は話し始める。
「お前に対して行なった酷い仕打ちに対して、許してもらえるとは思わない。
それでも生きているうちに一回は謝っておきたかった。
悪かったな、拓海」
投げやりな言い方に、牧之瀬はきっと顔を上げた。
「謝ればそれで済むと思っているのか、あなたは」
答えない哲也に牧之瀬はさらにたたみかける。
「謝らなくたって、いい。
でもこれだけは聞きたい。
どんなつもりであなたは僕に酷いことをしたんだ!
僕を傷つけて父と母に復讐するつもりだったんですか!」
すると哲也はうっすらと笑った。
「違う……確かに、最初は鬱憤をぶつけていたことは事実だ……
お前が明美に似ていたこともあったし……だが……」
哲也は首を持ち上げ、牧之瀬をじっと見た。
「今から思えば……お前になにか特別な繋がりを感じていたのかもしれないな……
明美に執着するように、お前にも執着し始めたと知って、私は……お前を東京へやったんだ」
「そんなっ」
牧之瀬は真っ青になる。
「じゃあ、あなたはもし僕が息子だと知っていても……やっぱり僕を抱いたのか!」
悲鳴のような声を上げ、がくがくと大きく震え始めた。
「まさか、そんなことはない。
だがもしもということは人生にないからな」
皮肉のこもった哲也の言葉に、牧之瀬は「ひどい!」と首を振り続ける。
「あんな酷く傷つけられても……僕はあなたに好かれたくて我慢していたんだ!
それが父親だったなんて! 絶対認めない!」
牧之瀬ははあはあと荒々しく息をつき、「認めない!」と繰り返し叫ぶ。
呼吸がどんどん早くなっていく。
慌てて笠井は牧之瀬を抱く腕に力を込め、興奮した馬を鎮めるときのように、首筋に顔を埋めた。
「牧之瀬さん」と低く呼びかける。
「しっ、静かに……落ち着いて」
牧之瀬ははっと笠井を振り返る。
笠井が「静かに、大丈夫です、俺がついているから」と話し掛けると、何度も深呼吸をして息を静めた。
やがて力を抜き、笠井に微笑みかける。
「ありがとう……また過呼吸を起こすところだった」
そしてベッドに視線を戻すと口を開いた。
「それで結局、あなたは僕に何が言いたいんですか?
僕を呼び寄せ、何を期待してるんですか?
僕が『お父さん、会いたかった』と泣いてすがるとも?
それとも笑ってあなたを許すとでも思っているんですか?」
「いいや」
哲也はゆっくり首を振る。
「私を恨んで、憎んでくれてかまわない。
それだけのことを私はしたんだ。ただ……」
牧之瀬はぶるりと身体を震わせた。
「もういい、言わないでくれ!
もうたくさんだ!
あなたの話なんか、これ以上聞きたくない!」
だが哲也は止めない。
「お前は私の息子だ。
それだけが言いたかったんだ。
そして私が死んだら、すべてをお前に……」
「あなたからは何も貰わない!」
牧之瀬はまた叫び、笠井は慌てて胸に抱きしめる。
それでも牧之瀬は笠井の腕の中で身体を捩り、叫び続ける。
「何も貰いたくないし、あなたのことは許さない!
絶対、絶対!」
哲也はぐったりと枕に頭を預け、眼を閉じた。
「もういい。これで思い残すことことはない。
さあ、出て行きなさい」
手術の執刀医は大学の循環器外科の助教授で、恰幅の良い紳士だった。
牧之瀬に「息子さんかね?」と尋ねる。
「いえ、甥です」
「医学生だそうだね、それでは今の状況がわかりますね?」
順調に行けば三時間ほどで終了すると言われ、二人は手術部の隣の家族待機室で待つことにした。
もたれ合いながらベンチに腰掛け、うつらうつらとゆっくりと進む時間を過ごす。
時折、笠井が重ねた手に力を込めると、牧之瀬も無言のまま、握り返す。
肌を合わせたときよりも親密な繋がりを感じ、こんな状況下ながら、笠井は満足していた。
何よりも、
『例えどんなに憎んでいても……やっぱり会ったのは良かった』
そう思っている。
やがて事務長が手術の成功を告げに現れた。
「麻酔からはまだ冷めていませんが、開胸しなくて済みましたから、二時間ほどで話が出来るようになるそうです」
「そうか、わかった」
短く答えると、牧之瀬はすっくと立ち上がる。
隣の笠井を見下ろした。
「じゃあ、もう用はない、帰ろう」
「えっ、ですが……」
言いかける鈴木に牧之瀬は「僕達は学生なんです」と言い渡す。
「明日も講義があるし、もう言いたいこともありません」
笠井は迷ったが、牧之瀬の判断に従うことにした。
今すぐ、お互いを認め合うなどということが出来るはずもない。
「牧之瀬さん、でも疲れてるんじゃないですか?」
身体だけは心配なので、尋ねると、牧之瀬は「一刻も早く帰りたいんだ」と呟いた。
「ごめん、君だって寝てないんだけど……」
「俺は丈夫だし、さっき、牧之瀬さんの膝枕で寝ましたから」
耳元で言うと、牧之瀬は初めて微笑んだ。
「何を言ってるんだ……」
病院の玄関を出ると日はとうに暮れ、辺りは暗かった。
来たときと同じに、東北自動車道を交代で運転する。
さすがに疲れが溜まっていて、片方がハンドルを握っているときは、もう一人はリヤシートで横になった。
交わす言葉もなく、ひたすら東京を目指す。
夜中過ぎ、一度だけサービスエリアで休息を取った。
「何か、腹に入れましょう」
昨夜からまるで食べていないことに気づき、笠井は牧之瀬を誘った。
「ああ……でも待たないかな?
何か買って、車内で食べたほうがいいんじゃないか?」
駐車場には長距離トラックやスキー板を屋根に積んだ車が停まっているが、さすがに台数は少ない。
これなら空いているだろうとレストランを目指した。
広いレストランは人影も少なく、一部は照明を落とされて暗い。
厨房で働くコックも数人しかおらず、食器のカタカタと触れあう音が侘びしげに響く。
疲れた表情をした長距離トラックの運転手が黙ってカツ丼を食べている。
それでも日曜の深夜なので、スキー帰りとおぼしきグループが一角で食事をしていて、そこだけは賑やかだ。
ダウンやブーツ、マフラーに毛糸の帽子という見た目にも温かそうな服装で、カレーやおでん、スパゲティといった思い思いの料理を前に、お喋りで盛り上がっていた。
誰かがおかしなことを言ったのか、どっと笑い声が上がる。
都会仕様の二人は浮いているようで、脇を通り過ぎるとき視線が集まり会話が途切れた。
ひっそりと離れて席につき、うどんを啜る。
「なんか、俺達、駆け落ちしたカップルみたいですね?」
頭を寄せ、笠井が囁くと牧之瀬はふわりと笑った。
湯気の向こうの儚い笑みに笠井は胸がずきりと痛む。
暗がりに消えようとした秋人の顔が浮かんだ。
その瞬間、牧之瀬の苦しみを代わってやることは出来ないのだと実感する。
『それでも……傍にいることは出来るんだ!』
食べ終わって外へ出ると、積もった雪が強い風に舞い上げられ、身体に吹き付ける。
笠井は牧之瀬を自分の身体の影に隠し、風を遮ってやった。
「ありがとう」
ふと、小さな声が上がる。
「俺、でかいですから」
笠井が答えると「違うよ」と牧之瀬は言う。
「君がいてくれて良かった……
僕一人では、来られなかったろうし……
あの人には会えなかったよ」
車についたとき、笠井は思い切って言ってみた。
「牧之瀬さん……あの、叔父さんのことは許せないと思いますけど……
それでも……」
牧之瀬は眉を寄せ、笠井を睨む。
「だから、なんだ、君もあいつが父親だったから許してやれ、なんて言うんじゃないだろうな」
「違います」
笠井は首を振るが、それでも終いまで言おうと決心した。
「あなたは何一つ貰いたくないといったけど……
もうあの人は大事なものをあなたにくれたと思います。
命という一番大事なものを」
牧之瀬は何も言わず、運転席の扉を開けた。
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