AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

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再び春の章
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競技が行われるメインアリーナの周囲には年数の経った立派な桜が枝を伸ばしている。
蕾はまだ固く、ごつごつした黒い幹や裸の枝はいかにも寒々しいが、傍らの花壇には黄色や白の水仙や三色菫が春らしさを演出している。
正門から続く馬事公苑のメインストリートは早朝から多くの人々が行き交っている。
関東学生大会争覇戦の行なわれる日なのだ。
「馬匹運搬中」と車体に書かれたトラックが何台も厩舎へと向かう。
J医大は前日から順調に勝ち進み、今日はベストエイトの試合なのだった。
もちろんこの大会も学生馬術連盟の主催なので、部員達は選手だけでなく、使役の役目も果たさねばならない。
部員数の多い大学では、選手が使役などということはないのだが、これも弱小部の定めである。
それでも途中退部した名波が手伝いに来てくれたので、大野は使役を免れ、試合の記録を取るという情報活動に専念出来る事になった。
笠井のほうは経路に組まれた障害の脇に付く係だが、これはこれで、騎手と馬を近くで観察出来るので好都合である。
レンガや生垣など、変わった形の障害を怖れて、直前で横へ逃げる癖のある馬もいて、笠井はそう言った情報を頭に叩き込む。
一試合終わるごとに、大野の記録した試合経過表の脇に注意事項を書き込んだ。
午前中に四試合が終り、J医大は順調にベストフォーに残った。午後からはいよいよ準決勝と決勝が行なわれる。
昼休みにメインアリーナの観客席に集まると、皆でおにぎりをほおばりながら、午後からの作戦会議だ。
牧之瀬は大野の取った試合記録を「わかりやすいよ」と誉めた。
「女子と一緒に記録係をやった甲斐がありましたよ」
眼鏡を拭きながら大野は得意げに言う。
「脇の注意事項は、俺ですからね」
笠井は一応アピールし、牧之瀬に誉められ満足した。
「あんまり癖のない、いい馬が当たるといいな」
伊吹が感想を漏らす。
「うわっ、この慶駿(けいしゅん)なんて馬、いつも第二障害で失権してるじゃないか!」
「こんな飛ばない馬、貸与馬(たいよば)戦に出すなよー」
赤木と青木は口々に文句を言った。
貸与馬戦はくじで使う馬を決めるので、直前まではどの馬に騎乗するのかわからない。
「なんか、どれに乗るかわからないって、恐くありませんか?」
大野は不安そうに眼鏡をまた外した。
「まあね、馬が決まってから前段・後段が決まるしな」
何度も出場して慣れているので、赤木はのんびりとした口調で答える。
同じ馬に最初に乗るほうを前段といい、次に乗るのを後段というのだ。
「M大はうちと別のブロックだから、順調に決勝まで行けば、M大と当たるな」
試合表を見ながら牧之瀬が呟く。
「もちろん正岡選手には牧之瀬、お前が当たるんだろう?」
どちらも主将だから、それが順当だと伊吹が尋ねる。
しかし牧之瀬は腕を組んで考え込んだ。
「どうかな……作戦としては、僕は確実に一ポイント取れる相手と当たったほうがいいかも知れない。
 個人的には勝負したいけどね……正直なところ、M大に勝つのは難しいだろう。
 相手は秋の全日本も優勝しているし。
 だが完敗というのはいかにも癪じゃないか?」
貸与馬戦では同じ馬に騎乗した選手同士で勝負が争われる。
個人がどんないい成績を収めようと、また途中で失権しようと、相手選手が少しでも上回れば負けは負けだ。
どちらも同じくポイントはゼロとなり、勝ったほうの大学が一点取ることになる。
最終的に勝ち鞍の多い大学が勝ちなのだ。
個人競技と違って、かなり戦略が必要である。
「正岡は主将だし、きっと難しい馬で出場するだろう」
「そうだね、乗りやすい馬でタイム勝負となれば、牧之瀬は負けないからな」
伊吹はその作戦に同意し、頷く。
「じゃあ、素直に飛ばない馬はやっぱり青木に乗ってもらうか」
「そうそう、一つでも多く飛ばせられれば勝ちだから、意外といけるかもしれませんよ?」
赤木も賛同するので、
「またですかー」
青木が少しげんなりした声を出した。
「俺って、なんていうか、いつも鉄砲玉みたいな役割だもんなー。
 たまにはゴールを切りたいよ」
「その代わり、関東学生にはレフレルで出場させてやるから」
「ええっ、本当っすか?」
笠井は楽しそうに笑う牧之瀬をじっと見守っていた。
秋田から帰ってから、牧之瀬は一切、叔父のことには触れない。
忙しい医学生なのだから学業をこなすだけでも精一杯なのであるが、牧之瀬は憑かれたように毎日乗馬クラブに通い、馬に乗っていた。
もちろん笠井も心配なので、毎日付き合っている。
それでも馬の傍にいることは、精神的に安定するようで、牧之瀬が馬たちに楽しそうに話しかけ、世話をしているの見ていると、笠井は安心した。
叔父の話を受け止め、消化するまでに時間がかかることは仕方がない、と笠井は思っている。
「さあ、そろそろ準備だ」
牧之瀬がペットボトルから口を離し、腕時計を見る。
「良かった、これからね、間に合ったー!」
元気な女性の声がして、皆が振り返るとベージュの一枚仕立てのコートを翻し、原野が観客席を駆け上ってくる。
その後ろにはなんときちんとスーツを着た横井が続いていた。
横井は五分刈りの短い髪にいつもの黄色いサングラスだが、着ているのは白いダブルのスーツだ。
「うわっ、いつもよりヤクザっぽい!」
笠井は感想を漏らした。
それにしてもこのカップルに伊吹を始め皆が牧之瀬を振り向く。
牧之瀬は笑いながら、
「志保里と横井さんは婚約したんだよ」
と告げた。
げっと一同が驚く中、笠井と牧之瀬は目配せをしあった。
原野は皆の視線にお構いなく、
「準決勝進出と聞いて、応援に来たのよ!」
ごそごそと紙袋からお弁当の箱を取り出す。
「あら、もう済んだの、拓海」
がっかりとした声になったが、すぐ笠井を振り向き、「あなた食べて。どうせ足りないでしょう?」と手渡した。
もちろんまだ腹を空かせていた笠井は喜んで受け取り、蓋を開ける。
「うわっ、美味そうだ、もちろん志保里さんの愛の手作りですね?」
「当たり前よ、本当は拓海に食べて貰いたかったんだけど、あなたでもいいわ」
原野は片目を瞑る。
牧之瀬は驚いた表情で二人を見ていたが、そのうち「なんだか姉と弟みたいだね」と微笑んだ。
横井がカメラを手に合流し、「写真を撮ってやる」と言う。
「優勝しろよ、牧之瀬!
 俺の仇を取れ!」


午後からの試合は強豪N大だ。
言わずと知れた、秋にあった横井の引退試合の相手校である。
部員は皆、髪を短く刈り上げ、いかにも猛者という雰囲気だ。
笠井はレンガ障害のすぐ横についた。
選手達は順調にあてがわれた馬を飛ばしていく。
問題のあるのは例の「慶駿」という馬だ。
N大の選手は後段で、青木が先に騎乗することになっている。
青木は緊張した様子でヘルメットのベルトを締めると、牧之瀬に「勝ちに行く」と言った。
「ちょっと反則すれすれの大業をやってみる」
慶駿に跨ると、馬場の中へと青木は馬を進めた。
第一障害の横木を軽々飛び、それから第二障害の生け垣を目指す。
その前にわざと丸く円を描くように馬を誘導する。
もちろん経路の途中で輪乗りをするのは反則ではない。
『どうせこの馬ではゴールは切れないんだ。
 タイムロスなんかどうってことない』
ここからが作戦で、近くのレンガ障害へと馬の首を向けた。
この障害の形を怖がっているのは知っている。
案の定、慶駿は嫌がって鼻を鳴らす。
その瞬間、鞭を青木は振るった。
そして首を横に向けたまま第二障害に向かう。
拍車を入れ、無理やり飛ばす。
慶駿は嫌がって、横へ逃げようとしたが、直前で正面を向き、なんとか飛越した。
それでもかなりバランスを崩した状態で、レンガ障害の傍で見ていた笠井は「あっ」と叫んだ。
慶駿はゆらりと傾き、騎手もろとも砂地に横転する。人馬転だ。
落馬と同じでその時点で失権なのだが、青木は顔を顰め「イテテ」と唸りながら馬の下から這い出す。
「慶駿、大丈夫か?」
笠井は急いで慶駿の銜を掴み、立上がらせる。
慶駿は横転したことも忘れたかのように元気に飛び跳ねる。
「ううっ、なんて馬だ、でも良かった……」
落馬失権となった青木は再び慶駿に騎乗すると、審判席に敬礼し、馬場をあとにする。
「大丈夫か、青木」
心配して駆け寄る牧之瀬に片手を上げ、大丈夫と知らせた。
「これでこいつは第二障害を飛ばないはずです。
 あの前でたっぷり嫌な目に遭わせましたからね。
 俺の勝ちだ」
青木の作戦通り、後段に乗ったN大の選手は第二障害で三回反抗され、失権となった。
最終走行は牧之瀬で、もちろん減点ゼロで終了する。
伊吹もN大の選手に勝ち、勝ち鞍数三でJ医大が決勝進出することになった。
「やりましたね!」
興奮して笠井が待機馬場へ走ると、牧之瀬達が丸く輪になって何か話している。
「どうしたんですか?」
「笠井、いいところへ来た。すぐ馬装してこい。
 青木がどうも試合に出られないようだ」
伊吹に言われ、笠井は驚いて青木を見る。
青木は顔を顰め、しゃがみ込んで右足から長靴を取り去ったところだった。
「うわ、ひどく腫れてる」
牧之瀬が青木の傍に跪いて、右足首を指で触れる。
「さっき、馬体の下になった時、捻ったんだ」
「すぐアイスノンで冷やしたほうがいい」
赤木の肩を借りて青木が救護室へと向かうと、牧之瀬は笠井を青ざめた顔で振り向いた。
「初めての試合だが、君の実力ならいつも通りに乗ればいい。
 リラックスしていけ」
悲壮感の漂う表情に、笠井は思わず笑いながら、
「牧之瀬さんのほうが緊張してますね」
と答えてしまった。
牧之瀬は眼を大きく見開く。
「笠井……君って大物だな」
 
 
決勝の対戦相手はやはりM大と決まった。
大所帯のM大は、待機馬場の前で選手の周りを部員達が取り囲み、気勢を上げている。
遠くから牧之瀬達が見ていると、人垣がさっと割れ、正岡がこちらへと歩いてくる。
「牧之瀬、またお前とだな。
 どうだ、手加減してやるから、お前が優勝したら医者なんて止めて一緒に馬をやろうぜ?」
馴れ馴れしく牧之瀬の肩を抱き、話しかける。
牧之瀬は笑いながら、「雄祐は相変わらずだな」と応じた。
「お前はどの馬に乗るんだ?」
「作戦会議はこれからだよ。
 例え決まっていたとしてもお前には内緒だ、当たり前だろう」
牧之瀬は正岡の手を肩から外し、素っ気なく言う。
「ちぇーッ」
正岡ががっかりして部員達のほうへ戻っていくので、笠井はちょっと胸がすっとした。
決勝に登録された馬をどの部員に割り振るか、牧之瀬は選手の意見を聞くことにした。
「この桜陰という馬はG大学の持ち馬だね」
伊吹がノートを調べながら言う。
大野が細かくデータを集め、整理したノートだ。
「この子はおとなしくてどんな障害も飛ぶし、高さも幅もいけるようだ。
 これは僕が乗ってタイム勝負を掛ける」
牧之瀬が言うと、伊吹も「そうだな」と同意する。
「問題は『名秀(めいしゅう)』だな」
M大の持ち馬だ。
「相手は自馬だから馴れているだろうが、こいつは結構臆病で、いざとなると飛ばないようだ」
関東学生大会の時、埒係をやっている自分の目の前で選手を振り落とし、トラブルの元になった馬なのだと笠井は思い当った。
「俺が乗ってもいいでしょうか?」
と申し出る。
「俺はどうせ、勝ち鞍数には貢献出来ないと思いますし」
「そうだな……」
牧之瀬も納得したが、名秀に正岡が騎乗すると知らされ、躊躇する。
「笠井、正岡が騎乗するんだから、こいつはかなり難しい馬のようだ。
 君の手に負えないかも知れない。
 やっぱり僕が乗ろう」
心配する牧之瀬を笑って笠井はいなした。
「牧之瀬さん、完敗したくないって、俺も思ってます。
 牧之瀬さんは絶対確実に勝てる馬に騎乗してください。
 俺、正岡さんには勝てないでしょうけど、やれるだけやってみますよ」
 
 
決勝の開始は午後三時となった。
次第に風が強くなっていて、スタンドに揚がった旗が大きな音を立ててはためく。
決勝走行の一番手は牧之瀬だ。
宮様達が通うことでも知られるG大学の桜陰は、明るい栗毛の馬で、可愛らしくたてがみを編んでいる。
決勝に出ると聞いて女子部員が手を掛けて編んだとのことだった。
「いいところを見せてやらなくちゃね」
牧之瀬はG大学の女子部員達が手を振っているのに、笑って応える。
桜陰の首を撫でた。
「せっかく応援してくれているんだから」
どうも牧之瀬は女子部員達が馬の応援をしているのだと思っているらしい。
笠井はちょっと呆れた。
どう見たって、女性達はハートを眼に浮かべて牧之瀬の姿を追っているというのに……。
『馬しか目に入らないんだな、この人は……』
桜陰は素直で能力の高い馬で、牧之瀬は減点ゼロで走行を終えた。
障害間の経路はいつものように全力疾走で、走行タイムもかなり早い。
続いてM大の前段の選手が風華という芦毛の馬に騎乗する。
前半の四人の選手の最後に正岡が名秀で馬場に入った。
「笠井、よくあいつの乗り方を見ておけ」
柵に取りすがって、牧之瀬が注意する。
笠井も隣で正岡の騎乗を見守った。
正岡は積極的に鞭を使い、名秀を障害へと向ける。
一度だけ名秀はダブル障害の前で停まる。
正岡は大声で叱咤し、激しく鞭を振るった。
名秀はぶるっと馬体を震わせ、ダブル障害へ向かう。
バーが後肢に引っかかったが、なんとか落下させずに通過した。
規定タイム内でゴールを切ると、正岡はにやりと牧之瀬に笑ってみせる。
待機馬場に引き上げ、馬から降りると「こいつに乗るのは誰だ?」と牧之瀬に尋ねた。
「笠井だよ」
「お前か!」
牧之瀬は正岡から名秀の手綱を受け取ると、笠井に「乗りなさい、少し馴れていたほうがいいだろう」と指示した。
だが笠井は牧之瀬から手綱を取る。
「俺、少しこいつと歩いてます。
 こいつも今、走り終わったばかりですごく疲れてると思うし」
牧之瀬は馬の首を優しく撫でる笠井に、口元を綻ばせる。
名秀は荒い息を付いていたが、笠井に「よしよし、いい子だ」と囁かれ、鼻面を撫でられるうちに次第に落ち着いていった。
「本当に君は馬の気持ちがわかるんだね……」
馬を可愛がる笠井を牧之瀬はしばらくの間見ていたが、そばへと足を運ぶ。
そして細かい注意を与え始めた。
「いいね、試合は最後の障害を飛んで終わるんじゃない。
 ゴールを切った瞬間に終わるんだ。
 最後まで気を緩めてはいけない」
「はい、わかりました」
笠井はにっこりすると、馬体に隠れてよそから見えないのをいいことに、牧之瀬の手を握った。
「俺、頑張ってゴールを切ります、見ていてください」
 
 
競技は折り返し地点を迎え、後半の走行が開始された。
牧之瀬が乗った桜陰に騎乗したM大の選手は、やはり減点ゼロだったがタイムで八秒オーバーし、この時点でJ医大に勝ち鞍一が与えられる。
続いて二番目は赤木の騎乗だ。
前段で乗った選手は減点ゼロで終了している。
「落下が無ければ勝てるかも知れないぞ、頑張れ」
牧之瀬は声を掛け、スタート地点に送り出す。
赤木は注意深く障害を通過していき、落下は無かったが、残念ながらタイムが相手選手を上回ってしまった。
「失敗だった!」
悔しそうに帰ってくる赤木を牧之瀬は「良くやった」と労った。
「落下が一つもなかったのは、お前の腕が相手と同等ってことなんだから。
 M大に並んだんだからたいしたものだぞ」
「そう思うと、少し嬉しいかな?」
赤木はやっと笑顔を見せる。そして笠井に「お前の番だ」と言った。
「正岡の野郎に一泡、吹かせてやれよ!」
「え、赤木さん、正岡さんが嫌いなんですか?」
笠井が尋ねると、赤木はまた悔しそうに「当たり前だろう」と答える。
「あいつ、やたらうちのキャプテンに馴れ馴れしいしさ。
 感じ悪いったらありゃしない!」
「うーん……」
ひょっとして赤木さんは牧之瀬さんが好きなのかもと笠井は顔を窺ってしまった。
『そう言えば、ほんとは牧之瀬さんは女じゃないか、なんて言ってたんだっけ……』
じろじろと見る笠井に赤木は気づかず、「笠井、そろそろ用意しろ」と注意する。
「あっ、そうか、俺の番だっけ」
急いで支度する笠井に、牧之瀬は「君ってホントに大物だな」と笑った。
 
 
笠井は名秀に乗って馬場の中へと入った。
ゆっくりとスタート地点へ向かう。
白い旗が振り下ろされ、笠井は名秀を第一障害へと向けた。
臆病な名秀だが、横木障害はそれ程嫌がらない。
正岡のように最初から鞭を使うつもりはなかった。
「チッ、チッ」
と舌を鳴らし、馬の注意を引く。
名秀の耳が後ろに寝るのを確認すると、「いくぞ、名秀」と声を掛けた。
先程から待機馬場で話し掛けながら歩いていたので、馬は笠井の声を覚えているようで、ブルッと鼻を鳴らす。
「そらっ」
笠井は障害の前で気合いを入れた大声を出した。
1m10pの簡単な横木障害を、名秀は鼻を鳴らしながら飛んだ。
楽々と通過したことに気を良くしたようで、自ら次の障害を目指す。
銜への張力を緩めると、笠井は腰で馬を進める。
次は名秀のあまり好きでない生け垣障害だが、
「よしっ、行けッ」
大声を出すと、名秀は鼻を大きく鳴らしながら生け垣を通過した。
「ハアッ」
次から次へとかけ声を出して馬を励ます。
名秀はどんどん障害を通過していく。
「いい子だ、名秀、あとひとつだ!」
 
 
牧之瀬は馬場の柵に張り付き、笠井が次々に障害を通過していくのを、固唾を飲んで見守っていた。
手はじっとりと汗で湿り、心臓が耳の奥に移動したかのように大きな音を立てている。
一つ通過するごとに、食いしばった歯の隙間から息を漏らす。
『笠井!』
自分が飛んでいるときよりもずっと苦しい。
もしも笠井に何かあったら……。
『そんなこと!』
かぶりを振り、眼を見開く。
『あと一つだ、頑張れ!』
最後のトリプル障害へと馬は向かう。
ふわりと馬体が宙を飛び、なんなく通過したかと思われた瞬間、バーが揺らぐ。
静まり返った馬場にカラリと音が響き、砂地にバーが転がった。
牧之瀬ははっと息を呑んだが、笠井は動揺を見せずに前傾姿勢のまま、名秀をゴールへ誘導する。
『笠井……』
自分の与えた助言を忠実に守っているのだと、牧之瀬は胸が熱くなる。
無事にゴールを切った瞬間、弾かれたように埒へと走った。
 
 
「やった!」
笠井は名秀の首を鞍の上から優しく叩く。
ゴールを切った時は、落下一という立派な結果だった。
審判席に敬礼をして埒から外へ出ると、牧之瀬が駆け寄てくる。
「笠井、笠井、良かった!」
牧之瀬は鞍から降りた笠井に勢いよく飛びつく。
笠井は驚いたが、暖かな身体を受け止め、背中に腕を回した。
「良かった、君が無事に帰ってきてくれて……」
笠井の胸に顔を押し付け、呟くので、笠井は明るく「やだなあ」と答える。
「それって、俺の実力、信じてないってことですか?」
そして嬉しくはあるが、周りの視線に気づき、「なんか、目立ってますよ」と囁く。
「あッ」
牧之瀬は真っ赤になって飛びのいた。
「なんか、俺と扱い、違うすねー」
不満げな声に二人が振り返ると、松葉杖をついた青木が頬を膨らませている。
「怪しいなあ、贔屓してません?」
「それは……笠井は、初めての試合だったから……」
牧之瀬が慌てて言い訳にかかると、伊吹がやってきて、「それにしては良くやったよ」と言った。
「あのかけ声はワイルドだったぞ」
そして少し呆れた声で付け足す。
「俺達上品なJ医大のイメージにそぐわないけどな」
青木はぷっと吹き出し、とりあえず牧之瀬は矛先がそれてほっとする。
「そうそう、笠井は良くやったよ」
主将の威厳を取り戻し、笠井を誉めた。
「でも負けちゃいましたね」
ちょっと笠井は顔を顰める。
正岡は「反抗」が一で、マイナス三点、落下はマイナス四点なので、僅差で笠井の負けなのだ。
すると正岡の声がした。
「いや、こりゃ俺の負けだよ」
正岡は少し離れたところから、渋い顔で笠井を見ている。
「いつも乗っている馬に俺は反抗されたんだからな。
 キャプテンとして恥ずかしい」
そして悔しそうに付け加える。
「まったくもう……お前を教えるんじゃなかったよ」
それは多分、正岡の最大の讃辞なのだろうと笠井は思った。
 
 
J医大は勝ち鞍数一で準優勝に甘んじたが、部員は皆満足していた。
「もちろん、来年は優勝を狙うぞ!」
赤木が準優勝の賞状を掲げて大声を出す。
「じゃあ、記念写真だ、みんな並べ!」
横井が号令を掛け、選手達はメダルと盾、それに賞状を手に並んだ。
撮影が終わると、傍で様子を見ていた正岡が近づいてくる。
「おい、笠井」
と呼ぶ。
そして持っていた金色のメダルを差し出した。
「俺は負けたんだ、お前のと交換しよう」
少し考えて、笠井は丁重に断った。
「なんでだよ?」
怪訝な顔の正岡に「俺は銀がいいんです」と答える。
「牧之瀬さんと同じメダルを持っていたいんです」
そう、一番欲しかったものだ。
一緒の試合に出るという最大の目標が達成され、しかも同じメダルを手に出来た……。
なによりもそのことが嬉しい。
その瞬間思った。
『あの人のことを欲しいけれど……』
それよりも隣に立つことのほうが男としては先なのだ。
受け入れて貰うのはあとからでいい。
『俺があの人に相応しくならなくちゃ……まだまだだ、俺なんて』
正岡を始め、他の大学の主将たちに握手を求められている牧之瀬を遠くから見守りながら思った。
やがて牧之瀬は微笑みながら笠井の元へ戻ってくる。
「正岡がまた君と勝負したいってさ」
「え、でも……」
すると聞きなれた正岡の声と共に、ポンと肩が叩かれた。
「シルバーアローとカリンカをただで貸してやるから、J医大の馬に登録しろよ。
 そうすれば、関東学生だけでなく、秋の全日本にも団体として出場できるぞ」
驚く牧之瀬と笠井に、正岡は「逃げるなよ!」と宣言する。
そしていつものように、馴れ馴れしく牧之瀬の肩を抱いた。
「なあ、だからさ、仲良くしようぜ?」
「まったくもう……全日本に出るなら、僕達は敵同士だろうが?」
笑って牧之瀬は肩にかけられた腕を外す。
代わりに笠井の傍に寄り、腕を取ったので、正岡は太い眉を吊り上げた。
「笠井、お前には絶対負けないからな!」
 
 
部員達は帰り道に近くの中華料理店で簡単な祝勝会をすることになった。
もちろん車で来ているので、ジュースでの乾杯だ。
「正式な祝勝会は、夏の東医体の時と同じに、OBがご褒美に開いてくれることになったから」
牧之瀬が報告すると、どっと歓声が上がった。
会はお開きになり、笠井は牧之瀬の運転するZでマンションに戻ることになった。
六時を過ぎていたが、まだ空にはだいぶ明るさが残っている。
それでも世田谷通りを走る車両はヘッドライトを点けているので、暖かな光が車の流れと共に次第に降りてくる夕闇の中で渦巻く。
ほの暗い車の中で、牧之瀬は黙ったままだ。
今日の試合のことや、色々な話を続ける笠井に曖昧に返事をし、頷くが、心は別のところにあるようで、そのうち笠井も話を止めた。
『どうしたのかな……疲れたんだろうか』
確かに、選手としてだけでなく、このところずっと主将としてもみんなを引っ張ってきたのだから……試合が無事に終わったら、疲労でもう話す余裕はないかも知れない。
「牧之瀬さん? 疲れたんなら運転、代わりましょうか?」
小さく声を掛けると、牧之瀬は首を横に振った。
「違うんだ……色々考えていて」
ふっと溜め息をつくと、ハンドルを操りながら話し出す。
「楽しかったね、今日は……
 横井先輩や志保里も来てくれて……
 名波も手伝ってくれたし、みんな、頑張って、本当に良かった……」
しばらく口を噤むとまたゆっくり話し始めた。
「笠井、君に言われたことをずっと考えていた……
 叔父のことは許せないし、まだ恨んでいる」
ちらりと笠井を横目で窺った。
「考えるとおぞましいよ……僕は……
 実の父に……あんなことを……」
声が震えたので、笠井は牧之瀬の苦しみを感じて胸が痛くなった。
牧之瀬は言いかけたが、再び口を噤む。
何度か躊躇ったのち、掠れ声で笠井に問う。
「僕は実の父に犯されたんだよ。
 僕のことが嫌いになったりしないのかい、笠井は?」
苦しげな様子に笠井は大声で「いいえ!」と否定した。
「牧之瀬さん、あなたのせいじゃないんですから!
 嫌いになるはずないでしょう!」 
「ありがとう……」
それよりも、と牧之瀬は続ける。
「叔父のしたことは許せないけど……
 父と母が本当に好き合って結婚したのだと打ち明けてくれたことだけはありがたいと思っているんだ」
叔父から言われ、ずっと父と母の間には愛がなかったのだと思い込んでいたから。
「僕の覚えている父と母はやっぱり本当だったんだって……
 そして僕の父はあの人だけだって」
それならば、と考えた……。
「もし、母が最初に父に出会って恋に落ち、結婚していたなら……
 きっと僕は生まれてなかったんだって。
 君とも巡り会わなかっただろうし」
記憶の中では牧之瀬のことを父も母も愛してくれていた。
「笠井、君の言う通りだ……
 僕は父と母に愛を貰ったし、叔父には命を貰っていたんだね……
 そうでなければ、僕はこんな楽しい日も過ごせなかった筈なんだ。
 何も知らなくても今のあなたが好きだ、と君は言ってくれた……
 今の僕は、色々あったから、こうやって君の傍にいるんだと思う」
「牧之瀬さん……」
やがてZはマンションの駐車場に滑り込む。
笠井が助手席の扉を開けようとすると、「待ってくれ」と牧之瀬が遮る。
「笠井……多分……もう大丈夫だ」
「大丈夫って、なにが?」
尋ねると、牧之瀬は頬を染めた。
「あの……あれだよ……君ともう出来ると思う」
「牧之瀬さん……」
俯く牧之瀬に、笠井は助手席から身体を覆い被せて抱いた。
「俺は急いでいませんから」
と言ってやる。
「それに俺、今日は最大の目標を達成出来たから、満足してるんですよ?」
「目標?」
「あなたと一緒に試合に出ることです。
 取りあえず、それは今日適いましたからね。
 次の目標は早くあなたに相応しい男になること。
 まだちょっと力不足ですけど」
牧之瀬は胸の中で「笠井……」と呟いた。
「今日の君の試合を見て思ったよ。
 僕が怯えたり、躊躇ったりして立ち竦むと、君はいつも傍にいて、声をかけ、励まし、そして手を引いて障害を越えさせてくれたんだ、って」
他人と肌を触れ合わせることなど、絶対越えられない高い壁だと思っていた。
一生、それでいいと頑なまでに思い込んでいた。
それが……笠井の暖かい指が触れたことで、まるで太陽に照らされた雪のように心の中にあった壁は融けていった……。
肩に顎を乗せると笠井の髪に顔を押し当てる。
日に干して乾いた藁のような、甘い懐かしい香りがした。
「君が好きだよ……本当に」
そして顔を上げると、正面から笠井の大きな眼を見つめる。
「僕が……したいんだ、君と」
「ええっ、マジですか!」
笠井は目一杯叫んでしまった。
「僕の部屋にくるかい?
 それとも君のところへ行く?」
牧之瀬は頬を染め、俯いたまま尋ねる。
笠井はちょっと考えてから答えた。
「じゃあ、俺の部屋で」
 
 
笠井は風呂を使うと裸の腰にタオルを巻き、べッドの置いてある部屋へ向かう。
牧之瀬はすでに毛布の中にくるまっていた。
「えーと……」
何を言ったらわからないまま、ベッド脇に立って毛布をはね除けると、牧之瀬も全裸だった。
「うわっ」
緊張して笠井は立ちすくむ。
「どうしたの?」
牧之瀬のほうが怪訝な顔になった。
「えっと、俺、マジ初めてなんで、宜しくお願いします!」
身体を二つに折り曲げる笠井に、牧之瀬は吹き出した。
「笠井ったら……」
笠井を自分の脇に招き入れると、牧之瀬は「入れていい」と言う。
「君が入れたいなら……」
「ちょっと待ってください」
笠井は背中に隠し持っていたクリームのチューブを目の前に出す。
「俺、本読んで勉強したんですよ。
 初めてだとこういうの使ったほうがいいって」
「え? 本?」
「潤滑剤がないと無理だって」
牧之瀬の白い肌がさっとピンク色になった。
「え、つまり、君は男同士の……本を?」
「違いますよ!」
笠井は慌てて否定し、得意げに説明する。
買ったのは女と男のための本だったけれど、初心者向けのもので、「初めてで痛がる場合は」と注意事項が書いてあった、というのである。
「うーん……いったいどんな本だよ、それは」
牧之瀬は呆れ顔になった。
恋人同士で初めて行為に及ぶ場合、男の子が手慣れた様子でクリームなど持ち出したら、普通女の子は引くんじゃないかと思ったが、取りあえず笠井の説明を聞く。
「ですからね、ちょっと待ってくださいね」
笠井はごそごそと動き、枕を牧之瀬の腰の下に当てた。
「こうやって、腰を高くすると入れやすいんだそうですよ?」
「しかし、どうなのかなー」
牧之瀬は懐疑的だ。
「だいたい、男の骨盤と女の骨盤は形がまるで違うんだから。
 股関節の角度も違うし」
さすが医学生である。
それでもまだ解剖学を習っていない笠井にはわからない。
「だって、女の人より牧之瀬さんのは後ろのほうにあるでしょう?
 だからこうやったほうがいいんじゃないかと……」
牧之瀬はまた吹き出した。
「とにかくやってみようよ」
牧之瀬は腕を伸ばし、笠井を引き寄せる。
笠井はそのまま牧之瀬の上に覆い被さった。
指にたっぷりクリームをつけると、笠井は後ろを探る。
『ここ……だよな』
蕾の上に塗ることは成功したが、今ひとつ手探り状態で、笠井は「ごめん、うつぶせになって下さい」と頼む。
「え……何をするんだい?」
牧之瀬は怯えた声を出す。
また小さい頃の恐怖が蘇りそうになっている。
背中からのしかかられると、痛くて重くて、息が止まった……。
呼吸が出来なくなって、頭が割れそうに痛み……。
「や、やだ、かさ、い……」
首にしがみつく牧之瀬を、笠井は必死で宥める。
「大丈夫です、見るだけだから」
シーツに四つ這いにさせると、笠井は腰を抱え上げる。
高く目の前に掲げられた丸い二つの丘をじっくり見た。
両手を丘にかけ、開くと、谷間の奧が現れる。
『ここだ……小さいんだな』
こんなところにちゃんと入るのかと、なんだか心配になってくる。
指で触れながら「痛くありませんか?」と尋ねた。
「痛くない……だってまだ、入れてないだろう?」
それはそうだと笠井は指で撫で続ける。
クリームがやがて融けて、ぬらぬらとしてきた。
滑りが良くなり、笠井は指をぐるぐると回してみる。
「あ……」
むず痒さを感じ、牧之瀬はあの部分に思わず力を込めた。
ぴくりと蕾が収縮し、笠井の指に吸い付く。
先端が吸い込まれ、笠井はそのまま力を入れた。
「あ……ふっ」
指はすんなりと入っていく。
付け根まで楽々と入り、笠井はホッと溜め息をついた。
取りあえず第一段階は上手くいった……。
『でも指一本だものな……』
牧之瀬が痛がらないので、中でぐるぐる回し、抜挿を繰り返す。
やがて牧之瀬は腰を自分から高く掲げ、「かさい……」と小さく呼んだ。
「どうしたんです、牧之瀬さん、痛いですか?」
牧之瀬は蚊の泣くような声で何か言う。
「え?」
覆い被さって、顔を近づけると、牧之瀬は頬を赤らめ、潤んだ目で肩越しに見つめる。
「痛いんじゃない、かさい……」
もう一度小さく呼んだ。
「なんです?」
「おかしいんだ……僕……あそこが……
 なんだか……変になりそうだ」
「あそこって、ここですか?」
笠井が指を深く入れると「ああっ」と牧之瀬は叫んだ。
「き、もち……いいんだ……おかしいよ、僕は」
牧之瀬は真っ赤な顔のまま、首を振る。
「あそこが……とろけそうなんだ……」
確かに最初よりもゆるゆると指が出し入れ出来る。
笠井は指を二本にしてみた。
入り口は広がって、笠井が指を抜き差しするたびに収縮と弛緩を繰り返す。
やがてクチュクチュという音を立て始め、なにやら笠井は欲情してきた。
「すごい……音が出てますよ」
「ば、馬鹿ッ」
だが牧之瀬のほうも、自分の立てる卑猥な音に煽られている。
「ああ……ううん……はッ」
喘ぎながら腰を揺らす。
「かさい……もっと深く……」
自分からねだると、真っ赤になる。
「もう大丈夫かな」
笠井は牧之瀬の身体を抱え起こした。
「ああ……笠井……」
牧之瀬はぐったりとして笠井の胸に寄りかかる。
シーツに上向きで寝かせようとすると、白い布の上に丸い小さな染みがある。
牧之瀬のモノから零れ落ちたしずくなのだと笠井は気づいた。
「ひょっとしてすごく感じてました?」
尋ねると、牧之瀬は恥じらって横を向いた。
「嬉しいですよ……俺、あなたを悦ばせる自信、なかったから」
腰を抱き寄せると体勢を作る。
「これなら痛くない」と自分から足を高く上げたことを思い出し、自分の肩に足をかけるよう指示した。
「こうすれば疲れないでしょう?」
そして首に掴まらせると、体重を一点に掛けていく。
「ああ……笠井……少しきつい……」
牧之瀬は首にしがみついて呻く。
「俺もちょっときついです……くっ」
牧之瀬の中はひどく閉まっていて、先端を入れることには成功したが、そのあとは進んでいかない。
「力を抜いてください」
「だって、あそこは不随意筋なんだ、そんなことは出来ないよ!」
解剖学をまだ習っていない笠井にも、その意味はわかったが、
「そうじゃなくて、開けろって言ってるんじゃありません、ただ、リラックスして」
無駄な力を抜けといっているのだが、牧之瀬は全身を強張らせたまま「出来ないよ」と泣き声を出して首を振る。
「あ、あいつもそう言ったよ……
 怪我をするのはお前が力を抜かないからだって……
 殴られたけど、力を抜くなんて出来なかった……」
『よっぽどひどいことをされてたんだ……』
いったん退き、笠井は牧之瀬の背中を撫でる。
ちょっと考えたあげく、牧之瀬の前に指を這わせた。
いっとき力を無くしていたモノは指の刺激で再び悦びの涙を流し始める。
「ああっ、笠井、そんなことをしちゃ駄目だ!」
扱かれて牧之瀬は悲鳴を上げる。
身体を捻って指から逃げようにも、大きな笠井に動きを封じ込められているので、逃げることが出来ない。
「ああ……」
やがて牧之瀬は笠井の愛撫に脱力し、ゆらゆらと腰を揺らす。
「あん……はぁっ、いい……ッ」
次第に先端が進むのを感じ、笠井はここぞとばかりに激しく扱いた。
濡れそぼった窪みを親指で探る。
「も、うっ、あああっ」
悲鳴と共に迸らせ、牧之瀬は背中を反らせた。
その瞬間、押し出されるかと思ったが、ふいに阻んでいたものの力が抜け、笠井は侵入に成功する。
奧までずぶずぶと入った。
「ああっ」
牧之瀬は小さく叫んだが、痛みは感じなかった。
「うそ……すごい……牧之瀬さん……全部入ってるよ」
中はとろりと熱く、笠井を包み込み、大きくうねっている。
「最高だよ……」
笠井は汗を滲ませた牧之瀬の額を手で拭った。閉じた瞼の上に口づける。
「牧之瀬さん、大丈夫ですか?」
牧之瀬は呼ばれて弱々しく眼を開ける。
「平気だ、笠井……」
微笑む顔に笠井は胸が熱くなった。
この笑顔が見られるなんて……暴力で身体を開かれていたこの人が、自分を受け入れながら笑ってくれるなんて。
「幸せにします、絶対!」
そう言うと、牧之瀬はまた頬を赤らめた。
「やだな、なんだかプロポーズされたみたいだ」
ちょっと先走りすぎかなと笠井は反省する。
「じゃあ、一緒に幸せになりましょう」
「それならいい」
笠井は牧之瀬の身体を揺らしながら、自分も動き始める。
内部のうねりは次第に細かくさざ波のようになって、自分のモノを根元から優しく扱き上げる。
笠井は自分のモノがどんどん膨れていくをの感じた。
「牧之瀬さん、俺、すごくいいです」
呻いて下を見ると、牧之瀬も「僕も」と喘ぐ。
指一本でも気持ちいいと思っていたのだが、今はそれよりも何倍もの太く硬いもので内部を擦られている。
快感度も何倍といったところだ。
『ここがこんなに気持ちいいなんて……』
痛いだけだったこの部分が……。
もっと気持ちよくなりたい……。
「もっと、笠井……」
ぼんやりと眼を彷徨わせ、恍惚の表情でねだる牧之瀬に、笠井はまた腰を動かす。
やがて牧之瀬は身体の奧から熱いものが昇ってくるのを感じた。
下腹が前触れの痙攣を始める。
「笠井、もう駄目だ……出る」
「俺ももう限界です」
笠井はがたがたと震える牧之瀬の身体をシーツから抱え上げると、激しく奧を突いた。
「かさい……ッ」
悲鳴が上がり、牧之瀬は再び迸らせる。
「牧之瀬さんッ」
同時に笠井も到達した。
「うわ……信じられない……」
心から満足して笠井は細い身体を抱きしめたまま、シーツの海に倒れ込む。
まだ陶酔の波に漂っているようで、笠井はうっとりと眼を瞑り、余韻を楽しんだ。
「初体験でこんなにいいなんて……」
本を読むと、たいがい初体験は上手くいかないものなのだとある。
双方が満足するなんてことは期待しないように、と注意書きもある位なのに、と笠井は思った。
「それが一緒に達けるなんて……最高だ……
 初めてがあなたとで良かった」
心から愛する人とこんなに上手くいくなんて……。
感動を噛みしめていると、やがて身体に力が戻ってくる。
半分意識を失っている牧之瀬をベッドに横たえ、優しく介抱した。
「ああ、笠井、大丈夫だ……」
牧之瀬は眼を開け、また微笑む。
「信じられないよ……今までは痛くて気絶していて……
 眼を開けると、血だらけになっていて、本当に怖かった……
 それが君はこんなに優しくしてくれて……」
そっと手を差し伸べ、笠井の頬を両手で挟む。
もう怖がらない。愛する者との触れ合いを。
そう牧之瀬は思う。
「笠井、ありがとう……」
「そんな、ありがとうなんて、俺だってすっごく良かったんですから。
 こっちこそありがとうです」
真面目に笠井が答えるので、牧之瀬はくすりと笑った。
「本当に君って……いい奴だよ」
 
 
少し狭いベッドの中で、二人は抱き合って横たわった。
笠井の分厚い胸に頬をつけ、牧之瀬は囁く。
「秋田駅のすぐ傍に、千秋(せんしゅう)公園ってのがあって……
 昔はお城だったところだよ。
 桜も綺麗だし、ツツジもいいんだ……
 夏はね、百日紅(さるすべり)が満開になって……」
栗色の髪を梳きながら笠井は牧之瀬の声に耳を傾ける。
「市内から見える太平(たいへい)山は鳥が翼を広げたようで、綺麗なんだ……
 でもやっぱり、一番は秋田冨士かな、鳥海山のことなんだけど、富士山そっくりで裾野がすごく長くて優雅なんだ」
そこまでいうとクスクスと笑うので、温かな息を吹きかけられ、笠井は胸がこそばゆくなった。
「なにが可笑しいんです、牧之瀬さん?」
「だって、富士山なら笠井のところのほうが本家本元だもんね。
 いまさら『なんとか冨士』とか言っても、本物には勝てないだろう?」
そんなことない、と笠井は首を振る。
「じゃあ、いつか見に行こう、秋田に」
「えっ?」
牧之瀬は穏やかな笑顔を笠井の胸から上げる。
「この前は日帰りだったからね。
 いつかゆっくり行こう」
その言葉で牧之瀬の中の何かが変わったのだと笠井は悟った。
「そうですね」とだけ答え、顎を指で支える。
自分も顔を上げ、唇を寄せた。
「牧之瀬さん、お願いがあるんですが」
深い口づけが終わると、牧之瀬はうっとりと瞼を開ける。
「なんだい?」
「あの……セックスするときは『拓海さん』って呼んでいいですか?
 達く時に名字を呼ぶと舌を噛みそうなんで」