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春の章
1
東京の桜は山梨より二週間は早い。
笠井良(かさいりょう)は階段教室の窓辺の席から外を眺めて思った。
窓の外にはグラウンドが広がり、その向こうには十二階と七階建てのビルが並んでいる。
この辺りは新宿から私鉄で二十分ほどの距離にあり、一戸建ての住宅街の中に並ぶ高いビルはかなり目立つ。
ただのマンションではなく、私立J医大に付属する病院と研究棟なのでやや殺風景な白い外観だ。
笠井の今いるJ医大の校舎はコの字形の三階建てで、こちらは古めかしい石造りである。
階段教室はその一番端にあった。
そして目の前に広がる大きなグラウンドの縁には何本もの桜が植わり、まさに満開なのだった。
笠井の家は山梨は塩山にある。
甲府市の手前、ブドウで有名な勝沼の傍だ。
中央線の特急を使えば新宿からは一時間ちょっとの距離に過ぎない。
それなのにひどく遠くへ来ているような気がする。
でもそれは桜のせいだけでなく、多分心理的なものだろう。
つい一ヶ月前は地元の県立高校で、悪友と連んでわいわいやっていたのが、今は私立医大の中でも老舗で名門といわれるJ医大の新入生なのだから。
これはまだ短くはあるが十九年間の人生における一大事件といってもいい。
昨日の入学式は石造りの校舎の講堂で行われた。
そして今日は新学期のオリエンテーションだ。
笠井達百二十人の新入生は階段教室に集められ、先程から何人もの教授達にこの一年で修得しなければならない講座の説明を受けているのだった。
だが今の笠井にとって、耳から入ってくる言葉はそのまま右から左だ。
ぼんやりと窓の外へ顔を向けていたのには理由(わけ)があった。
しばらく桜を眺めてからまた手元の資料に視線を戻す。
『聞いていなかったよな……たいして高校の授業と変わらないんだ』
失望が湧き上がる。
医大生になればすぐにでも医学係の講義があると思っていたのだ。
もちろん次の日から病院で患者を診たり、手術を見学したりということはないだろうが、少なくとも解剖実習やら病院見学やらぐらいはあるのだろうと期待していた。
ところがどっこい、最初の二年間は基礎課程といって、国文学や数学・物理学・化学に生物学などの一般教養を修得するようなカリキュラムになっている。
確かにこれでは高校の延長だ。
『ちぇっ、つまらないな……』
誰もこんなことは教えてくれなかったのだ。
もともと笠井の家は医者とはあまり関係がない。
父親は高校の教師で、七つ上の姉はやはり教師になっている。
笠井が医学部を目指す決意をしたのは、母親が栄養士として勤めている個人病院の院長が笠井を可愛がっていて、医者になるよう勧めてくれたのがきっかけだった。
もっとも決意に至った最大の理由にはもう少し複雑な経緯があり、それについては誰にも言わず、心の中にしまっていたが。
せっかく大奮起して猛勉強のあげく合格したのに、高校の延長なんて、と笠井は落胆していた。
『医学部に入ればもっと面白いことがあると思ってたんだけどな……』
長い退屈な説明もそろそろ終わりに近づいている。
最後に細長い馬面の男が教壇に立つ。
「えー、佐久間といってラテン語を担当する。
基礎課程の学生指導も受け持っている」
男は太い縁の眼鏡を持ち上げる。
「このJ医大では全ての講座は必修科目だ。
一つでも単位を落とすと即、留年だから気を付けるように」
小さな驚きの声がそこここで上がるが、佐久間は楽しそうに続ける。
「そして私のラテン語は大変厳しいことで有名だ。
心して授業を受けて下さい」
佐久間は一端口を噤むと、ぐるりと階段教室を見渡した。
「これでオリエンテーションは終わりだが、君達にもう一つ注意することがある」
また厳しい単位の話かとびくつく学生達に、今度は人の良さそうな暖かい笑顔を投げかけた。
「学生指導係としての忠告だ。
このJ医大は単科大学ゆえ、どの部も新入部員獲得に必死だ。
毎年、新入生がこの教室を出た途端、先輩達がいささか強引に勧誘しようと手ぐすねを引いて待っている」
先程から扉の向こうで何やらがやがやと人声が聞こえているのはそれなのかと、笠井は思い当った。
「いいね、イヤならイヤとはっきり言うこと。
キャッチセールスはお断り。
NOと言える日本。
自己責任で行動するように。
クーリングオフ制度は効かないからね」
用意してきたギャグがまるで受けなかったので、佐久間は悲しそうに目を伏せ、教壇を降りる。
その姿はオヤジにしては可愛げがあると、笠井は吹き出した。
終了宣言と共に、前の席に座っていた生徒から教室の外へ出ていく。
笠井もバッグパックに手元の資料を詰め込み、肩に引っかけると後を追った。
昨日はさすがに入学式だったので、高校の卒業式にも着た紺のブレザーだったが、今日はいつものジーンズにフリースだ。
身長が183pで肩幅もかなり広く、周りの生徒達の中でも体格の良さが一際目立つ。
しかし短く切った髪に太い眉、ぱっちりと大きな黒目がちの眼や少し両端の下がった唇はやんちゃな子供を思わせる。
ガタイの大きさに似合わない幼さを残す表情だ。
大学の新入生はついこの間まで高校生だったわけなので当たり前とも言えるが、医学部の場合は四浪や五浪どころか、他学部の卒業生や社会人からの転入組もいる。
それでもやはり笠井のような初々しい雰囲気の学生は多く、一団となって階段教室を出た新人達はすぐ前のホールにぎっしりと詰まった群衆を前にぎょっとして立ち止まった。
あとからついて出た笠井はすぐ前の背中にぶつかり、『なんだよー』と辺りを見回す。
と、いっせいに掛け声が上がった。
「陸上部で共に箱根を目指そう、若人よ!」
「テニス部、テニス部、うちは女に不自由させません!」
「スキー部はシーズン以外は有名女子大との合コンだけだよー」
要するにこれがさっき注意を受けた入部勧誘なのだ。
現実に行ったことはないが、TVで見る歌舞伎町の呼び込みもこうなのかと笠井は思いつつ、押し寄せる人波をなんとか押し分け、校舎の出口を目指す。
「いいカラダしてるねえ、背も高いし、バスケなんかどう?」
上背はあるがひょろりとしたスーツ姿の青年が笠井に話し掛ける。
「いや、手足が長いから水泳部むきだよ、な?
うちは看護学校の女子部員と一緒に練習するんだぞ?」
中背の丸顔の青年が割って入る。
「いや、テニス部に」
さすがに体格が良いのが目に付くため、運動部系の誘いが伸びる。
何本かの腕に捕らえられ、仕方なく笠井は身体を捻って振り切った。
「俺、運動部には入りませんから」
きっぱりと宣言する。
「そんなー、もったいない」
周り中から上がる声にけりを付けるため、「膝を怪我しているんです」と言い放った。
「おいおい、そりゃ中学の時だろ?
甲府七高相撲部県大会準優勝の立て役者!」
拍手と共に浴びせられたその声に笠井はぎょっとした。
「どうしてそれを!」
声の上がった方へ目をやると、紺色のジャージー姿の男が立っている。
笠井よりは僅かに低いががっしりとした体格だ。五分刈りと広い額に鰓の張った四角い顎、加えて太い眉と薄い黄色のサングラスから透けて見える三白眼は、それこそ歌舞伎町のヤクザを連想させる。
男は腕組みをしたまま眉をぴくりと動かし、唇の両端を吊り上げた。
「俺は横井太(よこいふとし)、七高の大先輩だ」
「え……先輩?」
そう言えばJ医大を受けると進路指導の時担任に告げたら、
「だいぶ前だが俺の受け持ちから一人、合格した奴がいた」
と言われたっけ、と笠井は思い出す。
「でも十年以上前とか言っていたような……」
呟く笠井に横井は「俺は裏表、やってるからな」と豪快に笑った。
「そんなことより……もちろん相撲部に入るんだよな?」
横井は一歩前に出る。
笠井が足元に目を落とすと、裸足に雪駄を履いているのでまた度肝を抜かれた。
『うわ、堅気にはとっても見えない!』
笠井の焦りに気づいているのかいないのか、横井はさらに一歩前に出る。
「郷土の大先輩のいうことが聞けないってんじゃないだろうな?
しかも相撲の経験者だろう?」
「あ、あれはッ、無理やりやらされてたんですよッ」
じりっと詰め寄られ、笠井は一歩、後ろへ退いた。
「親父に頼まれて仕方なくやってたんですよ!
もうやりませんから!」
言い捨てるとぱっと背を向け、笠井は脱兎のごとく走り出した。
『冗談じゃない、大学に入ってまで相撲なんて出来るか!』
「こらーッ、待てーッ」
野太い声を背後に残し、笠井は人垣をかき分けて校舎からグラウンドに飛び出した。
笠井が相撲部に入っていたのには理由がある。
きょうび、相撲部に情熱を賭ける高校生などそうはいない。
笠井の父親は七高の古文の教師で、相撲部の顧問だった。
笠井は小遣いをたてに父親に頼まれ、相撲部に籍を置いていたのだった。
確かに運動神経と体格の良さで、試合でもそこそこの活躍をしたのは事実だが、決して望んで相撲を取っていたわけではないのだ。
『もう相撲部なんて願い下げだ!』
幾ら大先輩に頭を下げられても。
グラウンドの端まで行って声が追ってこないことを確認すると、笠井はスピードを緩めた。
『なんとか逃げられたなー』
ひやりと冷たい風が頬を撫で、小さなハート形の花びらが無数に辺りを舞う。
真ん前に立っている桜の黒い幹の陰に何か茶色いものが動くのが見え、笠井は目を凝らした。
「え?」
夢を見ているのかと思わず手で目尻を強く擦る。
馬だ。
しかも背中に鞍を乗せている。
「なんでこんなところに馬が?」
吸い寄せられるように笠井は近づいた。
馬のほうも笠井に気づき、ぐいと首を伸ばす。
焦茶の馬体に鼻面と足先が白い。
黒いたてがみは狭い額のところでおかっぱのように真っ直ぐに切り揃えられている。
そのすぐ下の眼がぱちぱちと瞬く様が妙に可愛らしいと笠井は思った。
馬は長い睫に縁取られた黒いつぶらな瞳で、笠井をじっと見ている。
「お前、どっから来たんだよ?」
笠井は掌を上に向け、馬の鼻面に差し出した。
馬は何かくれるのかと期待し、首を降ろす。
笠井の掌に鼻を押しつけた。
何も入っていなかったので、がっかりしたようにふーっと大きく息を吐いた。
「うわっ、あったかいなー」
たてがみの垂れる太い首をもう片方の手で触ってみる。
「柔らかいなあ」
馬の毛は犬や猫のように長くないのだが、みっしりとしてビロウドのような手触りだ。
鼻の押しつけられている方の手を今度は伸ばし、長い鼻面を掻いてやる。
すると気持ち良さそうに眼を細めた。
「これ、気持ちいいのかい?」
答えるはずもないが、笠井は馬に問いかける。
その問いに答えるかのように、背後から涼やかな声が上がった。
「君、馬が好きなのかい?」
「え……?」
ふわりとまた風が頬を撫でる。
肩越しに目をやると、まるで休んでいた蝶が一斉に飛び立ったかのように、淡い桜色の花びらが地面から舞い上がっていた。
花の渦巻きの中に乗馬服に身を包んだ青年が一人、立っている。
笠井より頭一つほども低い、細身の青年だ。
瞬間、
『秋人(あきと)さん!』
懐かしい名が唇に昇りそうになり、笠井は戸惑う。
『いや、違う、秋人さんじゃない』
秋人のわけがない。
もう秋人はいないのだから。
全身を強張らせ、笠井は青年の顔に見入る。
『……似ていない』
そう、幼馴染みで憧れの人だった秋人にはまるで似ていない。
顔どころか姿格好も。
記憶に蘇る秋人はいつもライダー服だ。
カワサキ450にまたがり、少し寂しげな眼で、額に落ちた茶髪の間からこちらを見ている。
『なんで似ているなんて思ったんだろう』
目の前の青年は淡い色の髪をふわりと横に流し、きりっとした細い眉に切れ長の眼だ。
顎は尖り、細面で鼻梁も高い。
色の薄い虹彩は光の加減で琥珀のように輝いて見える。
唇は薄く紅色で、白い肌に映えている。
「綺麗だ」という言葉が自然に笠井の頭に浮かんだ。
視線を下へ移すと、首元には真っ白なスカーフを巻き、黒いジャケットにやはり白いキュロットをはいている。
ぴかぴかに磨き上げられた膝までの黒いロングブーツに、小脇には黒い乗馬用ヘルメットを抱え、もう片方の手には長い革の鞭を持っていた。
「え……」
まるでお伽噺に出てくる王子様のようだと笠井は思い、ぶんぶんと首を振る。
『うわ、何、考えてるんだよ、俺!』
夢見る女の子じゃあるまいしと自分を諫める。
その様をみて、青年はがっかりした顔になった。
「なんだ、嫌いなのかい?」
「いいえっ」
間髪を入れず笠井は答えていた。
「好きです!」
何が、と問われたらあなたを、と口にしていたかも知れないと笠井は後で考えたものだ。
「俺、動物はなんでも好きなんです!」
「そうか、良かった」
青年は柔らかく微笑み、少し冷たい印象だった虹彩に温かな光を宿す。
その表情の変化に笠井は引き込まれ、続いた青年の言葉を危うく聞き逃すところだった。
「じゃあ、うちの部に入らないかい? 君、新入生だろう?」
「え、何ですって?」
「馬術部だよ、うちに入部しないか?」
笠井は振り返ってまた馬を見る。
「馬術部って、どこの?」
青年は呆れ声になった。
「大学のに決まってるじゃないか。J医大の馬術部だよ」
「ええっ、じゃああなたはJ医大の学生なんですか?」
笠井の問いに青年は軽く頷き、白い手袋を嵌めた手を差し出す。
「そうだよ、僕は牧之瀬(まきのせ)拓海(たくみ)。J医大五年在学。
馬術部の副キャプテンを務めてる。宜しく」
急いで笠井は牧之瀬の手を握った。
「俺は笠井良です」
「じゃあ、笠井君、入部はオッケーだね?」
「ええっ」
いいえと首を振りかけた途端、「見つけたッ、笠井!」という太い声がすぐ傍で上がる。
横井が息を切らしてこちらへと走ってくるのだった。
手にした紙切れを高くかかげている。
「笠井!
入部届けだ、お前の名前はもう書いてある、あとはここに拇印を押すだけだ!」
「うわ、スピード一斉取り締まり(ネズミ捕り)に引っかかったみたいだ」
笠井が大げさにのけ反ったので、傍にいた牧之瀬はくすくす笑い出した。
大きく腕を広げ、横井の前に立ち塞がる。
「横井さん、笠井君は今、うちに入部を決めたところです。
相撲部には入れませんよ。
なあ、笠井君?」
こちらへそっと目配せするので、笠井は急いで首を縦に振った。
「なにっ、本当か、笠井!」
「え、ええ」
くっそーっと横井は拳を握る。
「先を越されたか!」
「そういうこと。どうぞお引き取りを」
笑いながら牧之瀬は笠井の腕を取る。横井に聞こえないよう囁いた。
「横井さんはうちの大学の名物学生だよ、なんで君、目をつけられたんだい?」
「実は、俺、高校の後輩なんですよ」
そうだったのかと牧之瀬は肩越しに目をやる。
横井はまだ不服そうにこちらを見ていた。
「ここから離れよう、笠井君、そうだ、うちのキャプテンを紹介するよ」
「え? はあ」
悔しがる横井を残し、二人は馬の近くへと寄る。
馬は鼻を鳴らし、首を上げ下げして喜びを表した。
「うわ、本当に可愛いなあ!
犬や猫が喜ぶのはしょっちゅう見るけれど、馬も喜ぶんだー」
牧之瀬に誘われて半分以上心は決まっていたが、その瞬間笠井は入部を決意する。
「この馬はね、新入生へのデモンストレーション用に、預託(よたく)してある乗馬クラブから連れてきたんだ」
「え?」
首を傾げる笠井に牧之瀬は「つまりね」と説明を続ける。
「ここの大学で馬を飼っているわけではないんだ。
少し離れたところに乗馬クラブがあって、そこで預かって貰っている。
いつも練習はそこへ出かけてやるんだよ」
「なーんだ、そうだったのか」
笠井は納得する。
『だよね……病院の近くで馬を飼っているなんてないよね、普通』
「こいつ、名前、なんていうんですか?」
尋ねながら笠井は幹に縛り付けられている手綱を外す。
「レフレルっていうんだ。
有名な細菌学者の名前から取ったんだよ」
「ふうーん……こういう毛並みってなんていうんです?」
焦げ茶色の馬体を撫でながら尋ねる。
「これはね、鹿毛(かげ)っていうんだ」
笠井が自然に手綱を手に馬と歩き出すので、牧之瀬は眼を丸くした。
「馬、初めてなんだろう? 恐くないかい?」
「別に。俺、動物、好きですから」
はきはきと答える笠井に牧之瀬は口元を綻ばせた。
「君に会えてラッキーだったな。
動物好きなんてうちの部にぴったりだよ。
入部してくれるんだろ?
絶対後悔させないから」
間近で見る牧之瀬の笑顔を見ながら、笠井は心の中で『ラッキーは俺のほうかも』と思った。
「あ、向こうの古いグラウンドなんだ、あっちでデモンストレーションすることになってる」
手綱を握り笠井は牧之瀬の誘導するほうへと馬を引いていった。
新築の体育館の裏手に、小さなプレハブの小屋が並び、その前に少し狭いグラウンドがあった。
詰め襟の乗馬服を着た学生数人と、新入生とおぼしき人影が立っている。
乗馬服の一人が被っていた角棒を脱いで振り回す。
天然パーマの縮れた髪が額に落ちた。
「おう、牧之瀬、こっちだ!」
「あれは部長の坪内さん。六年生だよ」
最上級生の六年ともなれば、新入生にとってはひどく年上に感じる。
言うなれば「おじさん」の部類に近い。
笠井は緊張して坪内の顔を見た。
坪内は笠井に視線を移し、「その隣のは?」と牧之瀬に尋ねる。
「入部第一号ですよ、部長」
「おーっ、良くやったぞ、牧之瀬!」
坪内は小さな眼を細め、にっと笑った。
四角い顔の真ん中に寄っている目と口が少しばらけ、ひどく人が良さそうに見え、笠井は安心して肩の力を抜いた。
坪内は嬉しそうな顔のまま、自分の横にいる新入生四人を指し示す。
そのうち二人は女性だ。
「この四人も入部希望者だ。さあ、これからデモをしよう」
笠井の手から手綱を取ると、坪内は牧之瀬に告げる。
「お前、乗れ。模範演技を見せてやれ」
牧之瀬は困った顔になった。
「部長、乗ってくださいよ」
「いいって、お前の方が見栄えがいいからさ」
声をひそめ、付け足す。
「お前に釣られて女子が入部するかも知れないじゃないか」
「なに、言ってるんですか!」
牧之瀬は頬を赤らめたが、聞いていた笠井は心の中で頷いた。
『それはあり得る……俺だってついて来ちゃったんだものな……』
牧之瀬はレフレル号の鞍の前部に手をかけると、ひょいと飛び乗った。
手綱をたぐり寄せ、馬の首を立て直す。
すると馬はぴたりと四本の足を揃えて「気をつけ」の姿勢で静止した。
「よし、前へ進め」
号令と同時にレフレル号は運動場の中央へ向けてゆっくりと歩き出す。
真ん中まで来ると、また歩を留めた。
そして後肢を軸にくるりと向きを変える。いわゆる「回れ、右」だ。
笠井は思わず「すごい」と口に出した。
「馬にあんなことが出来るなんて!」
他の一年生も口を開けてみている。
坪内は笑いながら「あれは初歩だよ」と言った。
「馬術には障害飛越競技(ジャンピング)と馬場馬術(ドレッサージュ)と二種類あってね、馬場馬術のほうは色々な技を競うんだよ。
馬にスキップをさせたり、横歩きをさせたり」
レフレル号は軽やかな足取りで前進を始める。部員達を中心に大きく円を描いて回る。
「あれはね、早足(トロット)といって、よく見てごらん、前足と後足を左右交互に出しているだろう?」
坪内の隣に立っているひょろりと背の高い部員が説明する。
見ているうちに馬のリズムが変わった。
両方の後肢がほぼ同時に地面を蹴るので、三拍子に近い。
レフレル号はおかっぱのたてがみをなびかせ、前足と一緒に大きく首を前へと伸ばす。
騎乗している牧之瀬は背筋をぴしっと伸ばしたままで、手綱を握った拳を僅かに動かして馬の首の動きに合わせている。
人馬一体となって優雅な動きだ。
「これがギャロップ、いわゆる駆け足だよ。
もっと早くなると二拍子になるんだけれど」
故郷の山梨には乗馬クラブは多いものの、笠井の興味は今までバイクである。
TVで競馬観戦をしたことはあるが、馬の走りを間近で見るのは初めてだ。
「迫力ありますねー」
力強く地面を蹴る蹄の音は腹の底に低く響いて、なんだかモーターのアイドリングを思わせ、笠井は浮き浮きしてきた。
「そうだな、だいたい自動車だって『なん馬力』とか言うもんな」
独り言を耳にして、坪内も頷く。
しばらく駆け足(ギャロップ)を続けると牧之瀬は半円を描いて馬の進行方向を変える。
そして見ている人々の前に戻ってきて歩を停めた。
牧之瀬がひらりと鞍から飛び降りると、坪内は新入生に「試乗してみるかい」と尋ねる。
すると二人の女子学生は数歩下がった。
「あの私、失礼します。
落ちて怪我するのは嫌ですので」
「ごめんなさい、私、テニス部に誘われてますので、そちらへ行きます」
すっぱり断られ、坪内は頭を掻いた。
「うーむ……牧之瀬の魅力も通じないとはな」
先程笠井に話しかけた背の高い学生が肩を竦めた。
「医学部に入る女の子は男子よりしっかりしてますからね。
たいがい男のほうは断り切れなくてずるずる入っちゃうパターンだけど」
坪内が焦って唇に人指し指をあてたので、笠井はぷっと吹き出してしまった。
自分は動物好きだし、「入りたい」という気持ちで牧之瀬についてきたのだが、隣にいるあとの二人は馬を前に不安そうな表情を浮かべている。
それでもずらりと詰め襟の乗馬服を着込んだ学生が前に並んでいると「結構です、さようなら」とは言えない雰囲気なのは事実だった。
笠井以外のあとの二人が及び腰なのを見て取って、坪内は愛想良く笠井に、
「な、笠井君、君から乗ってみるかい?」
と話しかけた。
「え? いいんですか、乗っても?」
牧之瀬が自在に馬を操っているのを見ていると、すぐに自分にも出来るとは思えないものの、さっきからやってみたいという気持ちになっていた。
「こっちの手で、鞍の一番前に掴まって。
もう片方の手で鐙革(あぶみがわ)を持つんだ」
指示通りに鐙をぶら下げている吊り革のような革紐を右手で握り、左手は蔵の前の盛り上がった部分を掴む。
笠井は「よっ」とかけ声をかけ、両手に力を入れて身体を引っ張りあげる。
すると簡単に鞍の上に乗ることが出来た。
馬の口に噛ませてある銜(はみ)輪に長い紐を通すと、坪内は一方の端を持ち、自分の周りを馬が回るようにする。
これはロンジングという訓練方法で、騎乗している人が馬の方向を操る必要がなく、初心者でも安心して乗っていられるのだ。
レフレル号はゆっくりと歩き出す。
想像していたよりも地面から高いと笠井は驚いた。
馬の歩みは最初はゆっくりだったが、そのうち早足になる。
牧之瀬が操っていた時とは比べものにならないほど遅いが、それでも高い位置から見ていると周りの景色が後ろへとどんどん流れていく。
頬を撫でる風も心地よく、
『なんだかバイクに乗ってる時みたいだな……』
もちろんあのスピードには及ばないけれど。
何周か回ると、坪内は綱を手繰って馬を停める。
「どうだった? 初体験の感想は?」
笑いながら尋ねる坪内に、笠井は「面白かったです」と元気良く答えた。
「思ったよりスピード感がありますね!」
「駆け足になるともっとそう感じるよ」
牧之瀬が口を挟む。
続けて大野という細面に分厚い眼鏡を掛けた真面目そうな新入生が乗ることになった。
緊張した面持ちで真ん中分けの長めの髪を掻き上げる。
そして眼鏡を落ちないようにかけ直すと、部員の一人にお尻を押し上げて貰い、なんとか鞍によじ登る。
馬が歩き出すと最初はおっかなびっくりだったが、口々に「君、すじがいいよ」「初心者にしちゃ巧いぞ」などとおだてられると、ひどく得意げな顔になった。
「ま、全員にそう言うんだけどな」
背の高い学生が言うと、隣の低いのがあとを引き取った。
「そうそう、俺もあれで騙された口だよ」
「こらっ」
また坪内が唇に指をあてる。
そのあともう一人の名波という茶髪の学生も乗り、試乗会はお開きとなった。
坪内部長が「それじゃあ、君達の入学を祝って、これから何か食いに行かないか?」と提案する。
「もちろん先輩のおごりだ!」
これが入部勧誘の手口なのだが、無論新入生は知るよしもない。
「やったーっ」と喜ぶ三人の後ろで、先輩達はにやりと笑みを交わした。
案内されたのは車で十五分ほどの世田谷通り沿いの焼肉店だった。
ボーリング場も隣接していて広いパーキングがついている。
大衆向きの店で値段も安いのか、学生で一杯だ。
馬術部の学生達はまとめて畳の個室に押し込まれた。
合板の壁には「チューハイ」「キムチ」「サワー」などが書かれた短冊が張られている。
コンロのついた長いテーブルが狭い部屋に並び、小さな座布団が周りを取り囲んでいる。
「えっと、そこ、いいですか?」
笠井はタイミングよく牧之瀬の隣を確保した。
「二十歳未満だけど、まあ大学に入ったんだからビール一杯ぐらいはいいだろう、乾杯だけしよう」
坪内は新入生のグラスにビールを注ぐ。
「乾杯、これからの六年間の学生生活に!」
そう言われると笠井も何やら浮き浮きしてくる。
唱和し、宴が始まった。
「基礎過程って、出席とかテストとか厳しいんですか?」
大野が真面目に尋ねる。
「ああ、特に語学はな。
英語・ドイツ語は無論だけど、フランス語やラテン語もあるからね。
化学なんかは実験レポートも多いし」
「ええっ、俺、入ったらうんと遊ぶつもりだったのに」
名波が不満げな顔で言う。
「留年って多いんですか?」
大野が不安そうに尋ね、坪内は「大丈夫」と励ました。
「俺達のノートを貸してやるよ。試験のヤマとかばっちりだぞ」
隣から合いの手が入る。
「数学・物理は俺達に任せろ」
先ほどからちょこちょこと坪内に突っ込んでいた背の高い学生と低い学生は、赤木と青木といい、有名な全寮制進学校の出身だった。
赤木は手足が長く、ひょろりとして眼のくりっと大きな愛嬌のある顔だ。
一年下の青木は、背は低いががっちりとした体格で、金太郎のようなきりっとした顔をしている。
一年違いで、高校時代も生徒会長・副会長を務めたといういいコンビなのだった。
「頼みます、先輩達!」
頼りになる先輩を演じてきた坪内だが、皆が十分飲み食いしたところで、悪魔的な微笑を浮かべる。
「それじゃあそろそろ……」
懐から紙を取り出した。
「入部届けを書いて貰おうか。
あ、ハンコが無ければ拇印でいいぞ?」
「ええーッ」
「これだけゴチになったんだからな、嫌とは言わせないぞ!」
赤木・青木コンビがすぐに部屋の出入り口に並んで立ち、脱出口を塞いだ。
「俺達、高校ん時は厳しくて、『赤鬼・青鬼』って呼ばれてたんだぞ」
笠井はプッと吹き出してしまった。
「横井先輩とかわんないなー」
牧之瀬もジョッキを片手に苦笑する。
「まあね、僕もこの手で無理やり入部させられちゃったんだよ」
「え、牧之瀬さんは大学から乗馬を始めたんですか?」
色白でノーブルな外見からは、貴族のように小さい頃から乗馬をやっていたとしか思えなかったので、笠井は驚いて牧之瀬の顔を窺う。
「高校の時はやっていなかったんですか?」
「僕の高校は馬術部なんかなかったよ。
あっても受験でそんな余裕、なかったと思うけどね」
確かに医学部を目指すならクラブをやる暇は普通ない。
「どこの高校ですか?」
牧之瀬が口にしたのは、都内の中高一貫教育で有名な進学校だった。
「さすが、俺みたいな田舎の高校とは違いますね」
乗馬服から着替えていた牧之瀬は、グレイフラノのジャケットに白いタートルのセーターという服装だ。
いかにも都会風のあか抜けた様子に笠井は感心する。
ところが帰って来たのは意外な言葉だった。
「僕だって中学までは秋田のど田舎だったよ、高校からなんだよ、東京に来たのは」
「え、秋田出身なんですか!」
そう言われれば透き通るような肌の由来も納得する。
「そっか、だから色が白いんですね、秋田美人なんだ」
10pほどの至近距離に迫った、アルコールでほんのりと色づいた頬に笠井の目は吸い寄せられる。
はっと気づいた時には指で触れていた。
「うわっ」
自分から触っておいて笠井は思いっきり大声を出してしまった。
牧之瀬はあっけに取られて細い眼を見開く。
「すみません!」
顔を真っ赤にして謝る笠井に牧之瀬は「いいよ」といなす。
「なんか、柔らかそうだったんでッ、つい……」
なおも頭を下げる笠井に牧之瀬は笑って返す。
「いいって。でも危ないな、君は」
笠井は頭を掻いた。
「さっきも馬が柔らかそうだったんで、つい触っちゃったんですけど、今後は気をつけますから」
「えっ、僕は馬並みか?」
馬と同じレベルだったのかと牧之瀬はまた笑い出した。
「君って面白いねー」
目の前で恐縮している純朴な青年を牧之瀬は好ましく思い始めていた。
ふと思いついて尋ねる。
「横井さんの後輩って事は、君、山梨なんだろ?
こっちではどこに住むの?」
「実はまだ決まってないんです。
今は東京の親戚の家に居候してるんですよ」
笠井の姉がこの三月に結婚したため、準備に手がかかり、下宿先を決める余裕がなかった。
当然浪人するものと、周囲が思っていたせいもあったが、そのことは省いて説明する。
「それじゃあ僕の隣の部屋がじきに空くから、そこへ越したらどうだい?」
何気ない牧之瀬の言葉に笠井は飛びついた。
「本当ですか?」
「ああ、馬術部の先輩が住んでいるんだけれど、地方の病院へ研修に出るんで、四月いっぱいで空くんだよ」
牧之瀬の説明によると、住んでいるマンションの大家はJ医大のOBの開業医であった。
自宅をマンションに建て直したところ、友人の息子がJ医大に入学したので部屋を貸した。
面倒見が良かったので、口コミで伝わり、今は付属の学生寮かとも思えるほどJ医大の学生が入居しているのだった。
話をしている間に宴もそろそろ終りに近づき、目の前の大皿はどれも空っぽだ。
坪内が会計に立ったのを認め、牧之瀬は「これから見にくるかい?」と誘う。
「ここから歩いてすぐだよ」
「喜んで!」
世田谷通りから一本入った閑静な住宅街にそのマンションは建っていた。
五階建てで、クリーム色の外観がお洒落だ。
駐車場も完備している。
外階段を三階まで上がると牧之瀬は角の部屋のインターホンを鳴らす。
「矢部先輩、牧之瀬です」
グリーンの扉が開かれ、現れたのは四角い顔の男だった。
「おう、牧之瀬か、勧誘は成功したか?」
言いながら後ろに立っている笠井をちらりと見る。
「こいつか?」
笠井が「はい」と答え、牧之瀬は得意そうな顔になった。
「全部で三人、入部しました」
「すごいじゃないか、やったな!」
矢部は牧之瀬の肩をバシバシと叩く。
牧之瀬はよろけながらも笠井の腕を取り、矢部の前へ押し出した。
「彼、まだ下宿先が決まってないんですよ。
先輩のあとに入れないでしょうか?
もうあとの人、決まっちゃいました?」
矢部は即座に「おう」と答える。
「まだ決まってないと思うよ。
俺から大家さんに話をつけといてやる」
「ありがとうございます!」
笠井は身体を二つ折りにして礼を言った。
『牧之瀬さんの隣に住めるなんて……』
妙にうきうきする心を抱え、笠井は自分でも戸惑いながらもう一度頭を下げる。
「いいって、うちの部に入る可愛い後輩だからな」
矢部は答えると笠井をしげしげと見る。
「なかなかいい身体、してるじゃないか」
いきなり笠井の腹に拳骨を突き入れたので、さほど力は入っていなかったものの、笠井はうっとなった。
「名前は?」
「笠井良です」
答えた途端、「おーっ、奇遇だなあ」という野太い声が部屋の中から投げかけられた。
「やっぱりこれは神様の思し召しだ、笠井君。
君はうちの部に入る運命なんだよ!」
ドスドスと響く足音と共に現れたのは、なんと横井太である。
これには牧之瀬もうっと叫んだ。
「そう言えば、横井さんは時々矢部先輩の部屋に遊びに来ていたんだっけ」
思い出して牧之瀬はしまったという顔をする。
裏表やっている横井は、矢部と同学年だったこともあり、仲が良かったのだ。
横井は顔を出すと先程とはうって変わってしおらしく頭を下げる。
「頼むよ、笠井君、相撲部は同好会へ格下げの瀬戸際なんだ。
幽霊部員でもいいから入部してくれ」
三年連続で新入部員がいなければ同好会に落ちる(つまりは補助金カット)という厳しい既定があるのだった。
矢部も口添えする。
「俺からも頼むよ、横井は相撲部の窮状を見かねて留年したこともあるんだからさ」
「ええっ」
横井は五分刈りの頭を掻く。
「そうなんだ、俺が抜けちゃうと頭数が足りなくて、試合に出られなくなっちまうんだ」
生徒数が少ないという単科大学の悲哀に加え、いまどきの医大生が相撲部にこぞって入部するはずもなく、それはいたし方のない成り行きだ。
「けど、J医大の相撲部は創立以来の伝統があるんだ。
馬術部と同じくらい長い……」
矢部も頷く。
「うちだって、選手がいないと争覇戦(そうはせん)に出られないだろう?」
牧之瀬は「その通りです」と渋い顔をした。
「争覇戦ってなんです?」
聞きなれない言葉に笠井が牧之瀬に尋ねる。
「大学の団体馬術で一番重要な大会だよ。
個人のは色々大きな試合があるけれど、団体の公式戦でうちが出られるのはここが一番大きいんだ」
牧之瀬は溜息をついて矢部と横井を交互に見た。
馬術部も現役の部員は六年生が坪内、五年生は牧之瀬と伊吹山という生徒の二人だが、四年には部員がいない。
そして三年と二年が一人ずつ、合計で五人だった。
障害飛越競技(ジャンピング)の団体戦は四人構成である。
いつもぎりぎりのところでやっているので、立場は理解できるのだった。
「同好会に格下げになったら、やっぱり公式戦には出られないから、俺が留年してまで残った意味が無くなっちまうんだ。
頼むよ、この通り!」
横井は顔の前で両手を合わせ、泣き落としにかかる。
「うーん……」
確かに運動部にとっては試合に出られないのはきつい。
「頼む、この通り!」と自分を拝むごつい男を見ていると、なにやら気の毒になってくる。
持ち前の人のよさが頭をもたげ、笠井はついに「わかりました」と言ってしまった。
「馬術部と掛け持ちが出来るんなら……」
「出来る出来る、なあ、牧之瀬?」
横井はサングラスを持ち上げて嬉しそうに叫んだ。
「まあ……出来るでしょう。馬術部は基本的に朝練だから」
牧之瀬は不承不承答える。
「馬を預けてある乗馬クラブでは、僕達学生は営業の邪魔をしないよう、普段は朝早くしか練習出来ないんだよ」
「だったらオーケーです」
笠井の答えに横井は天井に向かって拳を突き上げる。
「やった! これで今年も部でいられる!
よしっ、矢部、今夜は大いに飲もうぜ!」
「おう!」
勝手に盛り上がる矢部と横井を残し、牧之瀬は笠井の腕を引いて隣の部屋へと促した。
「ちょっと間取りを見ていくかい? 隣と同じだから」
「え、いいんですか?」
なんだか合コンで知り合った女の子の家に招かれるようだと、笠井は胸をドキドキさせながら牧之瀬のあとを追う。
玄関でリーボックを脱ぎながら、
「なんだか今日一日でいろんなことが決まったなあ」
と感慨に耽った。
「良かったじゃないか、早くかたがついて」
笑う牧之瀬を見ながら笠井はうーむと心の中で思った。
『ひょっとして人生の一大事が決まったような気がするんだけどな……』
部屋は学生にはちょっと豪華な広めの1LDKで、笠井はふと心配になる。
「幾らぐらいなんですか?」
牧之瀬が告げた額は驚くほど安く、笠井は眼を丸くした。
「大家さんが大学のOBだからね」
「なるほどー」
リビングはゆったりとした十二畳ほどのフローリングで、ベッドにもなるグレイのフロアソファとローテーブルが置かれている。
牧之瀬は笠井にソファへかけるよう促す。
「ビールでも飲む?」
「いただきます!」
「じゃあ、冷蔵庫から勝手に出してやっててくれ。
僕は着替えてくるから」
キッチンの冷蔵庫を開けて笠井はまた驚いた。
ぎっしりと料理が詰められたタッパウェアが整然と棚に並んでいる。
「牧之瀬さんてマメなんだなー」
思わず手に取って良く見たところ、なんとほとんどカビが生えているではないか。
「うわっ」
笠井の叫び声に牧之瀬が顔を出す。
「ああ、腐っちゃったか。捨てなくちゃね」
ビールを手に二人はリビングへと戻った。
笠井は腐った料理が気になって仕方がない。
元々母親は栄養士で、姉と一緒に小さい頃から料理を手伝っていたものだ。
「牧之瀬さん、どうしたんです、あれ」
プルトップを引き上げながら尋ねた。
「いや……差し入れなんだけど、大学が忙しくて、うちで食べる暇、なくってさ」
ああと笠井は納得する。
自分で作ったものではないのだ。
『だよね……医学生だし、こんなに格好良いんだもの。
料理を作ってくれる女の人なんて、掃いて捨てるほどいるだろうな』
笠井の想像をしかし牧之瀬は笑って否定する。
「残念ながら、作ってくれたのは親戚だよ」
なんとなく笠井は安心した。
「じゃあ、乾杯」
牧之瀬は缶ビールを掲げ、「そうだ」と付け足す。
「笠井、年上はどう?」
「ええ? それって……」
目の前にいる牧之瀬のことではないのだとさすがに笠井にもわかったが、思わず「全然ストライクです!」と答えてしまう。
「じゃあ、僕のはとこなんだけど、紹介しようか?
原野志保里っていうんだ。時々差し入れにここへ来るからさ」
『なんだ……』
それでもふと思いついて「その人って、先輩に似てますか?」と尋ねてみる。
「そうだな、母親同士が従姉妹になるんだけど、結構似てるって言われるかな?」
牧之瀬は首を傾げて考える。
「高校の時、原野のうちに下宿させてもらってたんだけど、そう言えば良く兄妹に間違えられたなあ」
「それじゃあきっと美人ですね?」
笠井の言葉に牧之瀬は笑い出した。
「こういう場合、否定出来ないけどね」
牧之瀬の柔らかな笑顔を見ながら笠井は思う。
『こんな綺麗な女の人がいたら、絶対好きになるだろうな……』
けれども自分は普通の男ではない。
それは幼馴染みで兄のような存在だった秋人が亡くなった時、わかったことだった……。
棘がちくりと胸を刺したように感じ、笠井は考えを振り払うように缶ビールに口を付けた。
ふわりとした温かなものが頬を撫でる。
『気持ちいい……』
眼を閉じたままその柔らかなものに笠井は顔を寄せる。
『あったか……』
もぞもぞと動いて離れていくのを感じ、腕に力を込めた。
「きついよ、離してくれ!」
耳慣れない声がすぐ傍で上がり、えっと笠井は眼を開く。
至近距離に栗色の髪と透き通るような白い肌、そしてこちらを睨んでいるやはり栗色の瞳があった。
「え……ええっ?」
自分の置かれた状況が今ひとつ、理解出来ない。
「笠井君、離してくれ」
もう一度言われ、胸の中の人間が昨日知り合ったばかりの牧之瀬拓海であるとやっと認識する。
「牧之瀬さん!」
腕を放した途端、二人がベッドの中にいるということがわかり、笠井は動転する。
しかも自分のほうは服を着ていない。
「え……えーッ!」
『まさか……』
上体を起こして、パジャマ姿の牧之瀬の顔を窺う。
『まさか……記憶はないけど……ひょっとして』
「こうなった以上、責任は取ってもらうからね」
ひどく傷ついた表情で言う牧之瀬に、笠井は真っ青になった。
「すみません!
酒の上でのこととはいえ、申し訳ないことをしました!」
途端に牧之瀬は吹き出した。
「冗談だよ、からかっただけだって」
「え……」
言われてみるとちゃんとズボンは履いていたので、笠井はほっとして肩の力を抜いた。
「脅かさないでくださいよ!
もう、知らない間に初体験しちゃったのかと驚きましたよー」
牧之瀬は笑いながらベッドから出た。
「それにしても、全然覚えていないのかい?」
牧之瀬の話によると、缶ビールを三本呑み干したところで、笠井は眠り込んでしまったのだった。
「ビールはこぼしちゃうし、しょうがないからベッドまで引きずっていって、大変だったよ」
「ええっ、そんなことを……すみませんっ、お世話になりました!」
平謝りに謝る笠井に、「いいんだよ」と牧之瀬は微笑む。
「だいたい未成年の君にビールを飲ませたのはこっちなんだから」
言いながらワードローブから笠井の服を取り出し、放ってよこす。
「ビールで濡れちゃったから、洗濯をしておいたよ。リビングで着替えてくれないか? 僕も服を着るから」
「はい」
素直に頷いて笠井は服を持ってベッドルームから出る。
リビングで身を整えながら、ふと引っかかるものを感じた。
「なんで追い出すんだ……?」
程なくジャケットにネクタイ、ツータックのパンツに着替えた牧之瀬が現れる。
腕時計を確かめ、
「早く出た方がいい。一時限目に遅れる」
と笠井に声を掛けた。
「えっ、もうそんな時間ですか!」
初日から遅刻しては大変だ。
笠井は焦ってボタンを留める。
「僕は車で行くから、乗せていってあげるよ」
「助かります!」
半地下の駐車場へ行くと、牧之瀬は黒いフェアレディZに近づく。
「うわっ、Zですか!」
助手席に喜々として乗り込んだ笠井に、
「免許、早く取った方がいいよ」
と牧之瀬は忠告する。
「専門課程になると忙しいからね。
教習所へ通う時間がなかなか取れないと思うよ」
「俺、実はもう持ってるんです」
「え? だって君、現役だろう?」
事情があって一年間中学浪人をした笠井は、十八歳になった途端、教習所に通い始め、すでに高校三年生の時には取っていたのだった。
「でも当分、お金がかかるから車は買わないけれど。
バイクがあるし」
「バイクを持ってるの?」
牧之瀬はハンドルを操りながら尋ねる。
「カワサキです」
得意げに笠井は言う。
「あっ、でもガソリンスタンドでバイトして買ったんですよ?
そのローンが残ってるんで、きついったら……」
牧之瀬は感心して笠井の横顔を見た。
笠井は急に真面目な顔になって牧之瀬の顔を窺う。
「一緒に車で登校したら、噂になりませんかねー」
「なに、言ってるんだ」
牧之瀬は明るい声で笑い出した。
「そんなわけ、ないだろう」
軽くあしらわれたが、笠井は何やら浮き浮きとした気分になっていた。
『なんか……大学生活、面白くなりそうだな……』
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