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春の章
2
五月の暖かく湿った風が花の香りを運んでくる。
高台のここからはキラキラと輝く多摩川の川面が木の間から見える。
背後の厩舎(きゅうしゃ)からは時折馬のいななきが聞こえ、のんびりとした土曜の午後だ。
「さあって、寝藁(ねわら)を集めなくちゃ!」
笠井は厩舎の扉に立てかけてあった大きな鉄製のフォークを肩に担ぎ上げた。
紺色のトレーナーに白い乗馬ズボン(キュロット)、作業用のゴム長靴という服装である。
馬術部に入部して1ヶ月が過ぎようとしている。
馬の扱いも厩舎での作業もずいぶんと慣れてきた。
土曜の午後なので、ここ、アバランシュ乗馬学校にはこれから沢山の会員やビジターが馬に乗りに来るはずだ。
その前にコンクリートの洗い場に干しておいた寝藁を回収しなくてはならない。
J医大の馬術部はアバランシュ乗馬学校に格安で持ち馬を預託している。
その代償として部員は肉体労働で支払うということになっているのだった。
初めてそれを知らされた時、笠井は「してやられた」と思った。
だが慣れてみると馬の世話は楽しい。
厩務員達に専門知識を教えて貰うのも面白かった。
フォークを肩に駆け足で厩舎からコンクリートで固められた洗い場へと急ぐ。
馬がいる厩舎は小高いところにあって、斜面の向こうには大きな長方形の馬場が二つ、並んでいる。
馬場と厩舎の間には、馬体を洗うための洗い場があって、南向きの日辺りの良いところなので、そこに湿った寝藁を干してあるのだった。
朝からの太陽ですっかり乾いた寝藁は甘い香りを漂わせている。
笠井はフォークでかき集めると、手押し車に積み込む。
たっぷり積み上げると、厩舎へと押していった。
「笠井君、ご苦労さん」
藁置き場で藁山を築いていた厩務員の清水が声を掛ける。
「さっき、牧之瀬君が来ていたよ」
「え、本当ですか!」
牧之瀬の学年は病院実習と聞いていたので、土曜の午後も部活をする時間が取れないと思っていたのだが……。
厩舎には四畳半より少し狭い馬房が通路をはさんで両脇にずらりと並んでいる。
その中に一頭ずつ馬が収容されているのだ。
レフレルの馬房は寝藁置き場の反対側にあった。
寝藁を降ろすと笠井はレフレル号の馬房へと行ってみる。
するとトレーナーにキュロット、長靴を履いた牧之瀬がレフレル号に馬装をするところだった。
牧之瀬はレフレルに何か話しかけながら馬の口に銜(はみ)を噛ませ、頭絡(とうらく)を頭に掛ける。
そして眼を細め、首をさすった。
レフレルは耳をぴんと立て、牧之瀬の愛撫を嬉しそうに受けている。
切り揃えた黒いたてがみが揺れ、牧之瀬は今度は手を伸ばしてたてがみを梳いている。
馬と人との間には親密な愛情が感じられ、笠井は思わず見入ってしまった。
『牧之瀬さんて、本当に馬が好きなんだな……』
そう、馬といる時、牧之瀬は一番リラックスしているように見える。
他の部員と楽しそうに話していても、時折ふっと牧之瀬はどこか遠くを見ているような眼になる。
すると笠井は牧之瀬がその場からかき消えて透明になってしまったように感じるのだ。
そういった時、笠井は既視感(デジャブ)に襲われる。
まるで……秋人を見ているような……。
『わ、なに考えてんだ』
はっと現実に戻り、笠井は馬房の手すりに掛けてあった鞍を持ち上げ、中に入った。
「牧之瀬さん、手伝います」
「あ、笠井か、ありがとう」
鞍を馬の背に乗せ、腹帯を締めると、笠井は、
「これから練習するんですか?」
と尋ねる。
土曜の午後は会員やビジターが多く訪れるので、学生は練習を控えることが暗黙の了解になっているのだ。
すると牧之瀬は、
「工藤校長に許可を貰ったんだ」
と答えた。
「試合が近いからね、特別だよ」
「試合? なんの試合ですか?」
「関東学生選手権だよ」
ああ、と笠井は頷いた。
関東学生選手権は大学の馬術部に所属する選手の個人タイトル戦である。
四月に予選が行われ、六月が本選だ。
馬場馬術と障害飛越競技の二種目で行われる。
牧之瀬は昨年、学業が忙しい医学生にもかかわらず、M大やA学院大学などの名門馬術部学生と互角に渡り合って四位に入賞したのだた。
それは部長の坪内から聞いていた。
「すごいですよね、それって。
だって医学部は授業や実習が忙しいから、他の学部に比べ、練習量は少ないんでしょう?」
感心する笠井に牧之瀬は笑って手を振り、否定の仕草をする。
「君だって僕ぐらいには出来るようになるよ」
「そうだといいなあー」
牧之瀬とレフレルについていってレッスンを見学したかったが、残った笠井はまた藁置き場へ戻り、必死で作業に励む。
やがて置き場は乾いた藁で一杯になり、「ご苦労さん、もういいよ」と許しを貰った。
「牧之瀬君のところへ行きなさい」
「ありがとうございますっ」
満面の笑顔に厩務員達もつられてにっこりする。
全速力で走っていく若者に初老の厩務員の内山はうんうんと頷いた。
「いい子だよ、あの子は。素直で働き者で……」
笠井が馬場に駆けつけると、牧之瀬の騎乗したレフレル号は馬場の縁をゆっくりと並足で歩いている。
馬場には柔らかい砂が敷かれているのだが、この縁だけは馬の蹄で踏み固められ、窪んでいて、「蹄跡(ていせき)」と呼ばれる部分だ。
牧之瀬は並足で何週かすると、蹄跡の上でぴたりとレフレルを停止させた。
拳を僅かに引き締めると、レフレルは三歩後ずさりし、また静止する。
次に軽く牧之瀬が馬の脇腹を蹴ると、レフレルは駆け足で発進した。
笠井は丸太で作った柵に寄りかかり、牧之瀬に見とれた。
「ほんと、かっこいいよな」
思わず口に出す。
馬場の真ん中にはフロックコートにキュロットというちょっと古風な姿の紳士が立っていて、じっと牧之瀬を見ている。
アバランシュ乗馬学校の校長の工藤で初老の上品な紳士だ。
若い頃は「宮内庁車馬課主馬班(しゃばかしゅめはん)」に所属し、宮様達に乗馬を教えていたとのことだった。
工藤は頷きながら時折「脚が後ろへ流れる」「拳が上がっている」などの注意を促す。
やがて牧之瀬は駆け足から早足へと戻り、馬場のコーナーから中心へ向かって、長方形の馬場の対角線上に馬を進めた。
馬のリズムに合わせ、一歩ごとに鐙の上に立つ、軽早足(けいはやあし)という騎乗法だ。
馬はぴんと脚を伸ばし、軽やかに地面を蹴る。
鞍の上ですっと背を伸ばした牧之瀬の姿はまるで御伽噺に出てくる凛々しい騎士のようだ。
「かっこいいんじゃなくって、綺麗なんだよなー」
柵から身を乗り出して溜息をつく。
「よし、いいだろう」
工藤が満足げに言い、牧之瀬は歩を緩めた。
と、後ろから「牧之瀬!」と聞き慣れないハスキーな声が響く。
笠井が後ろを向くと、黒い上等な乗馬ジャケット姿の青年が立っていた。
角張った顎に太い眉、眼は奥二重でギョロリとしている。
髪は短くてきちんと櫛が通り、がっちりとした体格だ。
「おい、工藤先生にレッスンをつけてもらえるなんて、うまくやってるな!
関東学生用の秘密特訓か?」
だが声音は親しげで、厭味は感じられない。
「雄祐(ゆうすけ)じゃないか」
牧之瀬が馬上から名前で応じたので、笠井はびっくりした。
雄祐と呼ばれた青年は柵に近寄るとそのままくぐって馬場の中へと入る。
通りすがりにじろりと笠井に視線を投げかけていった。
「牧之瀬、シルバーアローに乗れって言ってるだろう?
なんであいつに乗らないんだよ!」
青年は口に手をあてて大声で呼ばわる。
牧之瀬は苦笑すると馬から降り、「笠井!」と手招きした。
「乗ってごらん、僕が見てあげよう」
「え、いいんですか?」
笠井が遠慮がちに工藤校長を見ると、校長はにっこりと頷いた。
青年はまたじろりと笠井を睨み、「誰だよ」と詰問調で牧之瀬に尋ねる。
「うちの新人だよ。
ホープなんだ、きっと彼も関東学生で活躍すると思うよ?」
「ふーん……お前が保障するんならそうなんだろうな」
ため口で話す青年に、笠井は一応目上と踏んで丁寧に「笠井良です」と挨拶をする。
「笠井、こいつは正岡雄祐。
僕の高校の同窓生なんだよ」
「おいおい、こいつ呼ばわりかよ、敵わないな」
それでも顔は優しく牧之瀬を見ており、親しげな扱いが嬉しそうだ。
「ここの会員さんなんですか?」
乗馬学校では初めて見る顔だがと笠井は尋ねる。
「そうなんだけど、所属はM大の馬術部だよ」
M大と言えば馬術の名門校だ。
「そう、そこのスターだよね、一応」
牧之瀬が笑って付け加える。
「なんだよ、その『一応』って」
正岡は牧之瀬を睨んだが、すぐに肩を大きく竦める。
「でもまあ、そうかもな。
去年はお前になんとか勝ったけど、こっちは二年間も留学してんだからさ。
掛けてる金が違うのになー、割に合わないぜ」
牧之瀬はぷっと吹きだした。
「あのね、僕は無欲の勝利だよ。
雄祐は邪念が多すぎるんじゃないか。
イギリスへ留学したのも半分遊ぶためだったんだろ?
それに女性にいいところをみせて、うまいことをしたい、とかね」
「はいはい、その通りです」
正岡は両手を上に挙げ、「参りました」のジェスチャーをする。
その仕草は今までの横柄な口の聞き方とは反対に優しげで、笠井はちょっと見直した。
「そう言えば」
正岡は話を戻す。
「関東学生、このボロ馬で出るのか?」
「ボロ馬なんてひどいなあ、レフレルはいい子だよ?」
牧之瀬の非難の眼差しに正岡は肩を竦める。
「関東学生の決勝で乗るような馬じゃないよ、こいつは。
シルバーアロー号を貸してやる。
あれなら見栄えはいいし、馬場で高得点が望めるぞ」
シルバーアロー号は銀色の長いたてがみと尾を持つ、雪のように白いアングロアラブだ。
その美しさのゆえにアバランシュ乗馬学校での人気は高く、正規の会員でもよほど巧くないと乗せてもらえない。
だが笠井が眼を丸くしたのは、そのことだけではなく、正岡がまるで自分の馬のように言ったことだった。
牧之瀬は笠井の驚きの表情を読み取り、
「雄祐はここのオーナーの孫なのさ」
と小声で説明した。
「ああ、それで……」
確かに二年も乗馬のためだけにイギリスへ留学するなんて、よほど金持ちでなくては出来ないだろう。
牧之瀬は笠井に馬へ乗るよう指示すると、正岡を振り返る。
「シルバーアローはお前が乗るんだろう?」
「俺は別のに乗るさ、いい馬はいくらでもいる。
どうせ秋の全日本が本命なんだ、関東学生は通過点だしな」
「いいのかい、僕が勝っても。
M大のコーチは『医学部の学生に負けたら坊主だ』ってよく檄を飛ばしてるじゃないか」
正岡はまた肩を大きく竦めた。
「俺はお前に本気を出して欲しいんだ。
医学部なんてやめちまえよ、牧之瀬。
俺がパトロンになってやるから、一緒にオリンピックを目指そうぜ?」
牧之瀬はあっけに取られて正岡を見たが、次の瞬間笑い出す。
「雄祐ったら、冗談がきついんだから、まったく」
そしてしっしっと手で正岡を追い払う真似をする。
「ほら、お前も馬に乗れよ。
M大だけじゃ練習量が足りなくてここへわざわざ来たんだろう?
僕をからかう暇なんて無いはずだぞ?」
「まあ、そうだけどさ……」
正岡はまだ立ち去り難い様子で牧之瀬の周りをうろうろする。
「なんていうか……お前を見に来たんだ。
だって、お前、大学が忙しくてこんな時でもなけりゃ、なかなか会えないじゃないか」
「敵情視察ってことかい?」
牧之瀬は勝手に解釈してまた笑う。
「残念でした、もう練習は終わったよ、これから笠井の練習を見るんだ。
さっさとあっちへ行けって」
「それじゃあ、練習が終わったら、飯でも一緒に食わないか?」
正岡は粘るが、牧之瀬はあっさりと断った。
「駄目だ、僕達は厩舎で仕事を手伝わなくちゃならないし。
それに病院実習のレポートもあるんだ」
ひどくがっかりして正岡は馬場の外へ出て行く。
笠井は鞍の上で見ていると、正岡は斜面を登って厩舎ではなくクラブハウスのほうへと帰っていった。
どうもあの様子では、とても練習に来たとは思えない。
『それじゃあ牧之瀬さんに会いに来たのかな……』
なにやら胸にもやもやとしたものが上ってくる。
『いっけない、集中しなくっちゃ』
並足で十五分ほど運動した後、牧之瀬はレフレル号の頭絡に綱を結びつけ、端を握った。
「笠井、鐙を外してごらん」
「え、鐙を?」
「大丈夫だよ、ロンジングでやるから」
両足のつま先から鐙を外すと、身体を支えるところが無くなってバランスだけで乗っていることになり、さすがに心もとない。
一ヶ月ほどの間に慣れたとはいえ、鐙無しで乗るのは初めてである。
牧之瀬は綱の端を持ち、長鞭でレフレルを追う。
レフレルは早足で牧之瀬を中心に、円を描いて回り始めた。
「膝から下をしっかり馬体に密着させて。
馬には坐骨とふくらはぎの三点で乗ると言われるんだよ」
牧之瀬は緊張でコチコチになった笠井に言葉を掛ける。
だがどうしても笠井は力を抜くことが出来ない。
『もし走り出しちゃったら、落馬してしまう……』
不安は馬に伝わるのか、レフレルはしきりと耳を動かし、鼻を鳴らす。
牧之瀬は心配そうに馬を追っていたが、そのうち静かに声をかけた。
「僕がこの綱の端を持っているんだ。絶対暴れることは無いよ。
馬と僕を信頼して、もっとリラックスしてごらん。
それとも僕が信じられないかい?」
『牧之瀬さん……』
余分な力が抜けると、馬の揺れに合わせてバランスが取れるようになった。
レフレルもうって変わって落ち着いた足取りになる。
「いい姿勢になったよ、笠井」
牧之瀬が誉める。
「馬は口と脇腹への合図で運動するんだ。
だから乗り手は常に拳と脚で、馬と繋がっていなければ駄目なんだよ」
やがて綱を手繰り、牧之瀬はレフレルを停止させた。
汗に濡れた馬の首を抱いて、鞍の上の笠井を見上げる。
「笠井がこいつを信じたから、こいつも君に応えてくれたんだよ」
「そうか……」
牧之瀬が人馬一体の騎乗を見せるのは、馬を信頼しているからなのだと笠井は理解した。
鞍から降りると、
「牧之瀬さんは馬のことを信頼してるんですね」
と言う。
「そうだね……だいたい動物は嘘をつかないし、人間よりずっと信頼できるものじゃないかい?」
牧之瀬はふっと横を向く。
長い睫が淡い色の瞳に影を落とし、端正な横顔がひどく寂しげに見え、笠井は胸がぎゅっと締め付けられた。
慌てて明るく「鐙無しで馬に乗れるようになりたいな」と大声を出す。
「裸馬に乗るなんて、インディアンみたいでかっこいいですね。
そう言えばよく、西部劇で白に黒い斑の馬が出てきますけど、あれ、なんていう毛並みなんですか?」
「ああ、アパルーサっていうんだよ」
牧之瀬は笠井を振り返ってにっこりする。
暗い影はもう微塵もなく、その笑顔は夕暮れの日差しの中で輝いて見え、笠井はまた胸がぎゅっと苦しくなった。
『どうしたんだ、俺……』
練習が終わってレフレルを厩舎へと連れ戻すと、夕方の飼い葉やりの時間になっていた。
「笠井、あっちを手伝ってくれ、僕はレフレルを洗うから」
汗にまみれた馬を牧之瀬は洗い場へと引いていく。
笠井は言われた通り、厩務員の手伝いにかかった。
馬達の食事はたっぷりのふすまと「ヘイキューブ」というさいころのように四角く固めた干草、それに一掴みの塩だ。
金盥の様な飼い葉桶にニンジンやリンゴを細かく切ったものも一緒に加え、食べやすいように水で湿らせる。
この飼い葉桶を馬房まで担いでいって、柵に紐で吊り下げるのだが、なかなかの重さがあり、重労働なのだった。
「おおっ、助かるよ、笠井君」
笠井が両肩に一つずつ、一度に二つの桶を運ぶので、いつもより作業は早く進み、内山はしわの刻まれた日に焼けて浅黒い顔を綻ばせた。
柵に飼い葉桶を吊るしてやると、どの馬も長い鼻面を突っ込み、勢いよく食べ始める。
口元がふすまの粉だらけになるのがなんとも可愛らしくて、笠井は見ていて飽きなかった。
と、すっかり空になった飼い葉桶を不満げに揺らしている奴がいる。
「ブロンコ、もう食っちゃったのかー」
呆れて笠井はその馬に近寄った。
ブロンコ・バスター号というまだ五歳の若い栗毛のアングロアラブだ。
明るい栗色の毛並みに、ブロンドのたてがみと尾がよく似合う。
「お前は育ち盛りだもんなー」
こっそりとポケットに入れておいたニンジンを追加してやる。
ブロンコは元気盛りでよく乗り手を振り落とす。
ばかりか、時々噛み付くというやんちゃ坊主だが、笠井はこの馬が気に入っていた。
馬房の前を通った人へいきなり首を伸ばし、威かしたあと、「どうだ」と言わんばかりに鼻の穴を広げ、白眼を剥いて得意そうになったり、怒られたあと、ちらちらとすまなそうにこちらを窺ったりと、表情が豊かなのだ。
ブロンコは貰ったニンジンをあっと言う間に食べてしまい、「もっと」と言うように笠井へ首を伸ばす。
「残念でした、もうないよ」
首に手をかけ、美しいブロンドのたてがみを梳くと、ブロンコは大人しく撫でられている。
「笠井は本当に動物が好きなんだね」
後ろから牧之瀬の声がして、笠井は焦って振り向いた。
牧之瀬が微笑みながら立っている。
「暴れん坊のブロンコまで懐かせちゃって、ムツゴロウみたいだね」
「いえ、そんな……」
どんな理由でも牧之瀬に誉められるのは嬉しい。
笠井は照れて頭を掻いた。
牧之瀬はしばらく微笑みながら笠井を見ていたが、
「そうだ、鞍磨きをしよう」
と声をかける。
「はい!」
厩舎の一番奥に、蹄鉄などをつける作業場と鞍置き場があった。
牧之瀬は壁に打ち込んである杭に掛けられた鞍を幾つか下ろす。
「暇があるときにやらなくちゃね」
革用クリーナーをぼろきれに染み込ませ、二人は床に腰を下ろすと無言で鞍を磨いた。
磨きながら笠井は先程から心に引っかかっていたことを聞いてみることにした。
「牧之瀬さん、さっき正岡さんが言ったことですが……」
「雄祐が?」
「はい、あの……」
口ごもったが、やはり思い切って尋ねる。
「医学部を辞めて馬を本気でやるって、考えてます?」
牧之瀬は手を止め、あっけに取られる。
「おいおい、そんなわけ、ないだろう?
僕は医者になるために医学部に入ったんだ、乗馬をやるためじゃない。
たまたま馬術部に入ったけれど、笠井だってそうだろう?」
それはその通りだが、乗馬姿の牧之瀬はあまりに決まっていて、本来はその道のほうがあっているのではと思ってしまうくらいなのだ。
「それに牧之瀬さん、すごく馬が好きみたいだし」
馬といるときの牧之瀬は本当に優しい笑顔をたたえている。
それは最近気づいたことだったが、
『牧之瀬さんは人間といるときより、馬といるときのほうが楽しそうだ……』
牧之瀬は小さく息を吐いた。
「僕の家は秋田の総合病院で、僕は小さい頃から医者になると決めていたし、なりたかった。
他の道に進むなんて、考えたこともなかったよ」
そんなものかなあと、鞍を磨きながら笠井は牧之瀬の顔を窺う。
牧之瀬は手を動かしながら話し続ける。
「馬が好きなのは本当だ。
でも笠井みたいに、動物好きだから馬術部に入ったんじゃなく……馬相手だったら、話す必要がないって思ったからなんだ」
「え?」
牧之瀬は顔を上げ、微かに笑う。
その笑顔がさっきの寂しげな顔を思い出させ、笠井はまたどきりとした。
「僕は……動物ってあんまり好きじゃなかった。
というか、そう思い込んでた」
あんなに馬と親しげにする牧之瀬が動物が嫌いとはとても思えない。
でも子供の頃、あまり動物と接点がなかったため、動物が苦手という人はよくいる。
そう笠井は思った。
「牧之瀬さん、ペットとか飼ったこと、ないんですか?」
笠井の家はみな動物好きで、犬や猫はもとより、オカメインコやハムスター、ミドリガメ、さらにクワガタも飼っていたのだ。
笠井の問いに牧之瀬は遠くへと視線を彷徨わせた。
「犬を飼ってた。
柴犬で、丸っこいから『マル』っていう。
でも僕が小学校二年の時、両親が事故で亡くなってね。結局、東京にいた叔父が戻ってきて病院を継ぎ、僕の親権者になってくれたんだけど、その時、犬の世話は子供には無理と言われてね。
叔父は犬が嫌いだったし、結局……手放したんだ。
叔父が保健所へ連れて行ったんだ」
『え、ええーッ』
いきなりそんな話を聞かされ、笠井は固まった。
『うそ……牧之瀬さん……』
今まで何一つ、そういった話の断片すら出たことがなかったのだ。
牧之瀬は淡々と話し続ける。
「その時の別れが辛すぎて、それと両親の死も思い出してしまうこともあって、それから僕は動物を嫌うことにしたんだ。
でも……馬術部で馬に接するようになってから、やっぱり動物はいいなと思えるようになった。
だから特に馬が好きなのかな……」
ふいに牧之瀬は眼を丸くして笠井を見た。
「うわっ、どうしたんだろう、僕、こんなことを人に言ったのは初めてだよ」
今度は心からの明るい笑顔を浮かべる。
「君って、なんか、人を安心させるところがあるんだな。
だから動物もすぐ懐くんだろうね」
思いもかけない話を聞かされ、笠井はたじろいだ。
『そういった事情があったなんて……』
自分の見ていた牧之瀬は今まで何だったのだろうという思いで一杯である。
大病院の跡取り息子というのは、部員同士の話の中から察していた。
車もフェアレディZだったし、金持ちなんだとは思っていた。
もっとも、Zは友人から中古を五万円で押しつけられたのだと後で知ったが。
『綺麗で乗馬なんかやってて、金持ちで恵まれた人だと思っていたのに……』
そんな境遇だったなんて。
『でも、人間は表面からはわからないって、秋人さんのことで悟っていたはずだ』
秋人もそうだった……父親は県議会議員で、大地主でもあり、いわば地元の有力者だった。
それでも秋人は誰も知らない悩みを持っていた。
そして笠井にすら、打ち明けないまま逝ってしまった……。
何も言ってくれなかったけれど、でも秋人のことは好きだ。
それと同じだ。
『牧之瀬さんは牧之瀬さんだ』
外見も中身もひっくるめてそうなのだ。
そして自分が好きなのは、自分の知らない部分も含め、今現在、目の前にいる牧之瀬なのだ。
そこまで考えて、笠井はぎくりとして鞍を拭く手を止めた。
『俺……この人のこと、好きかも知れない!』
内心の動揺を隠し、笠井は力を込めてまた鞍磨きを始める。
ちらりと牧之瀬を窺った。
牧之瀬はいつもの静かな表情に戻っている。
『あの、正岡って人は僕より牧之瀬さんのことを知ってるんだろうな……』
高校の時の友人だし、名前で呼んでるし。ちくりと胸が痛む。
『でもさっきは、あっさりと飯の誘い、断ってたよな』
ちょっとほっとしつつ、思いついて、
「牧之瀬さん、晩飯はどうするんですか?」
と尋ねてみた。
「別に、決めてないけど」
「じゃあ、俺んとこで食いません?
ちょうど実家からほうとうが届いたんですよ。
鍋にすると俺一人じゃ、食いきれないし」
「じゃあ、ご馳走になろうかな?」
牧之瀬はにっこりし、また笠井は胸が疼いたが、それは痛みではなく、なにやら甘い疼きだった。
マンションへ戻ると、牧之瀬は「シャワーを浴びてから行くから」と自分の部屋へ入ろうとする。
「俺んとこの風呂、使っていいですよ」
笠井は引き留めた。
「出てくる時、水張って、タイマーかけときましたから、俺が作ってる間、入ったらどうですか?」
何気なく言ったのだが、牧之瀬は顔を強ばらせ、笠井の手を振り払った。
「いい、すぐ行くから」
何やらまたひっかかるものがあったが、笠井はそれどころではないと別れて自分の部屋に飛び込む。
キッチンへ直行して、鍋の準備を始めた。
ほうとうは小麦粉を練った平たい麺で、甲府名物である。
かぼちゃやたっぷりの野菜と煮込んだ味噌仕立ての鍋で食べるのが美味い。
今までも料理上手の笠井は、時々牧之瀬を食事に招待していた。
もちろん母親伝授の素朴な家庭料理なのだが、牧之瀬はひどく嬉しそうに食べていた。
『俺のって、お袋の味だからな……それが良かったんだ……』
それは小さい頃両親を亡くした為なのだと、笠井は今初めて思い当った。
先程疼いた胸がまた疼きだし、笠井は考えを停止させようと、いっそう熱心に包丁を振るった。
まもなく牧之瀬が現れて、キッチンでぐつぐつ煮える鍋に「美味そうな匂いだ」と鼻をくんくんさせる。
「ちょっと待ってください、今、セットアップしますから!」
リビングのテーブル兼用の炬燵に笠井はカセットコンロを用意する。
丼に鍋の中身をたっぷりとよそい、牧之瀬に手渡した。
「うんとお代わり、してくださいね!」
牧之瀬は何口か食べると、「美味い!」と褒める。
「カボチャがほんのり甘くて、美味しいよ。それにすごくコクがあるね」
笠井は得意になって、
「このコクは隠し味に少し生クリームを入れてるんですよ」
と説明する。
「すごいよ、さすが、お母さんが栄養士なだけあるね」
なんとなく二親の揃っている自分の家庭を話題にし難く、笠井は曖昧に返事をする。
牧之瀬は気に留めずにまた笠井の家のことを訪ねた。
「お父さんは先生だったよね?」
「え、まあ、そうかな」
ずれた答えに牧之瀬は笑いながらまた続ける。
「笠井はなんで医学部を選んだんだい?
家は医者とはあんまり関係ないんだろう?」
「俺、中学校ん時、友達のバイクの後ろに乗ってて、事故ったんです」
その時、入院したのが母親の勤めている個人病院だった。
「まあそれで、かな?
そこの院長先生も勧めてくれたし」
「バイクの事故?
それでまたよくバイクに乗ってるね、恐くないかい?」
牧之瀬が眼を丸くするので、笠井は「俺、好きなんです、バイクが」と答えた。
「というか……」
いつもは人に説明するのはそこまでなのだ。
だが今日は、牧之瀬に自分をより知ってもらいたい。笠井は話を続ける。
「好きになりたかった、って奴かな?
俺の好きだった人も、バイクが好きでした。
それで俺もバイクに乗るようになったんです。
どうしてもその人の好きだったことを知りたくて」
『秋人さんのことを何も知らないままでは嫌だ』
そういった思いがあって、笠井はバイクに乗り始めたのだった。
『そして今は』
ふいに笠井は思った。
『馬に乗りたい!』
そうすれば牧之瀬のことがもっとわかるようになるかも知れない!
「俺、今は馬に乗りたいです」
牧之瀬の顔を見つめ、宣言する。
いわば間接的な告白なのだが、もちろん牧之瀬には通じない。
「その人はどうしたんだい?」
牧之瀬は静かに尋ねる。
「バイクの事故で亡くなりました」
「そうだったのか……」
少ししんみりとした雰囲気を振り払おうと、笠井は「暑い!」と大声を出す。
上に着ていたジャージーを脱ぎ捨て、上半身裸になった。
「牧之瀬さんも、暑かったら脱いでください」
「いや、僕はいい」
しばらく二人は無言で食べ続ける。
そのうち笠井は正岡の話題を振ってみた。
「正岡さんて、高校の時から仲、良かったんですか?」
「雄祐か、そうだね、彼は人見知りしないタイプで、沢山の友人がいて、僕はその中の一人ってとこかな」
大親友というわけではなかったのだと少し笠井は安心する。
それでも正岡が「一緒にオリンピックを目指そう」と牧之瀬を誘ったのは気になっていた。
「牧之瀬さん、本当にオリンピックに出たいって思わないんですか?」
「まだそんなことを言ってるのかい?」
牧之瀬は呆れ顔になった。
「あのね、学生馬術ならいざ知らず、乗馬はお金がかかるんだよ。
正岡の家は確か、お祖父さんがデパートやら私鉄やらを持ってるグループの会長だぜ?
そういった人でないと、乗馬で金メダルなんて目指せないよ。
ヨーロッパの選手なんて貴族か軍人なんだから」
「ええっ、そうなんですか?」
牧之瀬は丁寧に説明する。
「ほら、厩舎の端っこの馬房に、黒鹿毛の大きな馬がいるだろう?」
「ああ、サンダーブレイズ号ですね」
普通のサラブレッドより一回り大きいイギリスから買い付けた黒い馬で、額から鼻まで流星(ブレイズ)という白い線の模様を持つ。
その線が稲妻(サンダー)のようにギザギザしているので名の由来になっている。
一般の会員は手も触れられない名馬と聞かされていた。
「あれは実質的には雄祐の馬で、何億もしたらしいよ?
まだ調教中だから、今度の大会では乗らないようだけれど」
「ええーっ、何億も!」
大きく口を開けて驚く笠井に牧之瀬はクスクスと笑った。
「正岡は筋金入りのボンボンだから、彼の言うことを真に受けてはいけないんだよ」
「なーんだ、そうだったのか!」
今度こそほっとして笠井は弾んだ声を出す。
「先輩、もっと食べてください!」
言いながら、自分の丼に三杯目のお代わりをよそった。
笠井が牧之瀬のはとこである原野志保里に会ったのは、翌週のことだった。
「いつも美味しい食事を分けて貰っているお礼」として笠井は牧之瀬の洗濯機を自由に使っていた。
ちょうど合い鍵で牧之瀬の留守に上がり込み、洗濯をしていた時のことである。
ついでに掃除をしておこうと、笠井はエプロン姿で掃除機をかけていた。
すると騒音の間からインターホンが聞こえ、
『宅急便かな』
笠井は焦って掃除機を止め、戸口へ走った。
扉を開けると、若い女性が立っていて、笠井は息を呑んだ。
『え……っ?』
しょっちゅう牧之瀬の部屋に出入りしているが、女性が訪ねてきたことは初めてだ。
『え……牧之瀬さんの恋人?』
「はとこ」の存在をすっかり失念していた笠井はぎょっとする。
女性は耳が隠れる程度のストレートヘアで、オレンジ色のテーラードスーツを着ている。
卵形の顔の輪郭を際だたせる艶々した黒髪が印象的だ。
色白の肌と宝石のようにきらきら輝く切れ長の眼は、良く見ると牧之瀬に似ているようだ。
血の繋がりを感じ、笠井は『ひょっとして』と思いついた。
「原野さんですか?」
「え、ええ」
原野のほうも唖然として笠井を見上げる。
はっと気づいて笠井は、
「俺、隣の部屋に住んでる笠井良です」
と自己紹介した。
原野は肩の力を抜くと、
「ああ、矢部さんのあとに入った人ね」
と寄せていた眉を開く。
「あの、今、牧之瀬さんは留守なんですが」
言葉にした後、留守に勝手に上がり込んでいる怪しい奴と思われては困ると気が付いた。
エプロン姿をじっと見ている原野へ慌てて説明にかかる。
「俺、牧之瀬さんにいつも洗濯機、使わせてもらってて、それで合い鍵を持ってるんです」
「ええっ」
原野はまたきゅっと眉を寄せた。
「あの、何か用でしたら言付かりますけど」
笠井が言うと原野は手にしていた紙バックを差し出す。
「じゃあ、これ。差し入れなんです。
冷蔵庫に入れてくださらない?」
笠井は受け取ると一歩下がって戸口を空けた。
「どうぞ中へ入ってください、って言っても俺の部屋じゃないけど、お茶でも入れます」
しかし原野は戸口に立ったまま、不審そうに首を捻っている。
「あ、ひょっとして、牧之瀬さんいないし、俺のこと、危ないって思ってます?」
気づいて笠井が大声を出すと、原野はぷっと吹き出した。
「違うのよ、そうじゃなくて」
笑いながら玄関に入ると、ベージュのハイヒールを脱いだ。
「驚いたのはね、あなたがいたことよ」
ハイヒールを揃えながら笠井を見上げた。
「信じられないわ、五年間、ここへ通ったけど、拓海がそんなことするなんて初めてよ。
私にも合い鍵をくれなかったし」
原野は紙バックをキッチンに持ち込み、タッパウェアを取り出す。
冷蔵庫にしまいながら続けた。
「私、だから、隣の矢部さんによく預かってもらっていたのよ」
原野は後に続いて入ってきた笠井をしげしげと見る。
「あなた、どうやって拓海と親しくなったの?
合い鍵まで貰ってるなんて、理由を知りたいわ」
「え……」
問いつめられて笠井はうろたえた。
だが原野の声音に悪意は含まれておらず、純粋にその理由を知りたがっているのだった。
笠井は「えっと、馬術部の後輩なんです。だからじゃないかな?」と説明する。
原野はそれだけでは満足せずまた首を捻る。
「絶対それだけじゃないわ。
あのね、拓海は高校の時だって、友達を私の家に連れてきたことはなかったわ。
親しかったのは、私一人」
きっぱりと言うと、笠井をじっと見る。
「なんか、癪だわ、あなた」
口では非難しているが、原野はにっこりして牧之瀬に驚くほど似た笑顔を見せた。
「でもいいわ、ハンサムだから許す。
それに女の子じゃなくってホッとしたわ。
拓海の恋人と鉢合わせ、したくないもの」
『え? それって……?』
様々に取れるような発言で、笠井は戸惑った。
原野はすたすたと戸口へ戻っていく。
「拓海が食べなければ、あなた、食べてね。
腐らせるよりましだもの」
明るい声を残し、帰っていった。
笠井はぼんやりと考えながらチェーンを掛ける。
『あの人が牧之瀬さんのはとこか……』
ハキハキしていて牧之瀬と性格はまるで違う。
『でも本当によく似てて、美人だったなー』
牧之瀬と同い年だそうだから、笠井より三歳上ということになる。
確かに自分が普通の男だったらど真ん中ストライクゾーンと言ってもいいと笠井は思った。
『でも俺は……』
牧之瀬に惹かれている。
それは否定しがたい事実だ。
今、笠井を悩ませ始めているのはそのことだけではない。
『志保里さんは牧之瀬さんが好きみたいだ』
牧之瀬のほうは単なるはとこだと言っていたけれど、原野の口振りでは……。
となると、ライバルが増えたことになるのだった。
それも牧之瀬によく似た美しい女性で、しかも親しい間柄だ。
とうてい憎めない。
正岡のほうは徹底的に嫌えるけれど。
「なんだか複雑になってきたなー」
洗濯機の中身を取り出しながら、笠井は呟いた。
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