AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

◆3◆
夏の章
          1
 
六月の初めに関東学生馬術大会が世田谷の馬事公苑で開催された。
参加大学五十あまり、選手数も三百人以上という、大規模な大会である。
馬事公苑は東京オリンピックでも馬術競技の舞台となった由緒ある競技場だ。
広大な敷地にはいくつもの馬場があり、日本競馬協会に所属するので競馬の騎手学校も併設されている。
まだ梅雨の季節には間があり、朝からからりと晴れた好天気に恵まれた。
広い敷地内の木々は春の若葉の色を残した葉を温かな風に揺らし、絶好の乗馬日和である。
大会は学生馬術連盟の主催なので、馬術部に所属する学生達は自分達で自主運営しなくてはならない。
試合に出る選手だけでなく、部員は総出で競技を円滑に進めるための作業を行なうのが慣わしだ。
行なわれる競技は、幅や高さの違う十数個もの障害を経路に従って飛び越えていくという障害飛越競技(ジャンピング)の他に、馬場馬術(ドレッサージュ)だ。
これは馬に駆け足や早足で円や八の字を描かせたり、特殊なステップを踏ませたりするもので、騎手のコントロールの正確さを競うのである。
試合の準備だけでなく、大会中は馬房に寝泊りして競技に使う馬の世話もしなくてはならない。
もちろん医学部の学生だけが忙しい学業を理由に、「使役(しえき)」と通称される作業分担を免除されることはなく、J医大馬術部の部員達もみな、一緒に作業に励むことになっていた。
だが他学部の学生に混じって自分達の仲間が活躍するのは誇らしい。
練習量の劣る医学部・歯学部・薬学部の学生は、「なんだ、医歯薬(いしやく)さんか」とオミソ扱いされるのが常である。
それが前年度総合四位に入賞した牧之瀬の名は今年はかなり知れ渡っていて、笠井達が馬房などで作業にいそしんでいると、「ああ、牧之瀬さんのところだね」とすぐ認知される。
だけでなく、「あの人、医学部なのにすごいね」と感心されると、笠井は自分のことのように得意になった。
J医大からは、牧之瀬と坪内部長がジャンピングに、ドレッサージュには牧之瀬の他に同学年の伊吹がエントリーしていた。
伊吹は明るく元気な体格のいい青年で、副部長の牧之瀬がやや口数が少ない分、いい補佐役なのだった。
M大やN大、A学院大などの名門校では、自馬を十頭以上持っているのが常だ。
それに比べてJ医大は「バビンスキー号」と「レフレル号」の二頭しかいない。
J医大にとってこの大会は総合大学の馬術部と対等に競える晴れの舞台なのだが、他大学にとって関東学生は多くの大会の一つで、秋の全日本学生馬術競技会のへ通過点に過ぎない。
それでもここでポイントを稼がねば全日本へ出られないため、もちろん主力選手が手を抜くはずもない。
さらにその先の社会人大会、最終的にオリンピックと目標を定めている選手も多い。
そういった強豪たちの中で牧之瀬が活躍しているのは驚くべきことなのだと、笠井や大野は初めて理解した。
障害のコース作りや馬の世話などの肉体労働は主に男子学生だが、採点などの記録や時計係は女子部員が受け持つことが慣例だ。
「一人、記録係を出してくれ」
と本部からの要請に坪内は考えた末、新入部員の大野に「行け」と命じた。
女子部員がいないので仕方がないことだった。
「ええっ、俺ですか、いやだなあ」
「何を言う、周り中女だらけだぞ、代わりたいくらいだ」
二年上の赤木が冷たく宣言する。
「そうだそうだ、俺達は肉体作業だぜ」
青木も突っ込む。大野は首を捻りながら、本部のあるクラブハウスへと急いだ。
選手ではない赤木・青木コンビと笠井はメインアリーナと呼ばれる馬場で、障害の設置を手伝うことになった。
馬場の砂地に足を取られながら重たい障害を運ぶ。
経路図通りに置くことももちろんだが、高さや幅を正確にしなければならない。
メジャーで測りながら十二個の形も色々な障害を設置するの作業はなかなか大変だ。
ジャンピングの試合は出場選手数が多く、二つの馬場で同時に分けて行なわれることになった。
もう一つの競技場は、メインアリーナの隣のグラスアリーナで、こちらは砂地ではなくて青々とした草が生えている。
ここにまったく同じものを設置しなければならなかった。
それでも初心者の笠井にはすべてが初体験で面白い。
公式競技会で使われる障害には赤や白や緑などの綺麗な色が塗られ、飾りの旗も立っていて、試合場はいつも練習する殺風景な馬場より派手で綺麗だ。
試合に出る馬達も馬体を綺麗に梳かれ、載せられた鞍も練習用の汚れたのではなく、ぴかぴかに磨き上げられている。
足に黄色のバンデージを巻いたり、たてがみにリボンをつけている馬もいる。
皆、めいっぱいにお洒落をしているといった雰囲気だ。
レンガ障害という、レンガの絵を描いた木箱を重ねて作られる障害を設置しながら、笠井は「俺、ほんとのレンガを積むのかと思ってました」と青木に言う。
青木は呆れ顔になった。
「お前なー、本当のレンガだったら、飛べなくて馬がぶつかったとき大怪我するだろうが!」
「そういえば、そうですねー」
やがて試合開始時間となり、試合場に隣接する待機馬場で、何頭かの馬が準備運動に入る。
学生達はばらばらと馬場に入り、馬が障害を飛べずに落下させたり壊したりした場合、ただちに直せるようにと各障害に着く。
笠井がどの障害についたらよいか戸惑っていると、青木が「埒(らち)係をやれ」と指示した。
「埒係?」
「馬の入退場を手伝うんだ」
要するに、「埒」という柵を開け、馬場へと馬を誘導する係である。
笠井は言われるままに、馬場の外へ出た。
笠井のほかにもう一人、M大の新入部員が埒につくことになった。
名門M大の馬術部部員は、大学カラーの濃紺のトレーナーに校章のワッペンが縫い付けてあるので、すぐわかる。
「うーん、このことだったのか……」
しきりに感心する笠井に、M大の学生が「え?」という顔を見せる。
「ほら、『らちがあかない』って、ここから来たんだね。
確かに、ここが開いて馬が入らなければ、試合は始まらないからなー」
「ああ、そうか!」
M大の学生も頷く。
そして笠井の紺色のトレーナーに「J医大Riding Club」という字が染め抜かれているのを見て、「J医大さんか」と納得する。
「さすが、頭がいい」
「え、何を言ってるんですか」
沢村と名乗ったその痩せた学生は、「僕も新人なんだ」と自己紹介する。
「それより、おたくんとこの牧之瀬って人、すごいよね。
 うちの副キャプテンがライバル視してるもの」
「あ、ひょっとして正岡さんですか?」
思い当たって笠井が口にすると、沢村は「え、知り合いなの?」と眼を丸くした。
「僕達の部は何十人も部員がいるからねー、正岡さんなんて雲の上の人だよ。
 下っ端はなかなか試合にも出られないし」
ちょっと羨ましそうに笠井を見る。
「医歯薬さんは部員が少ないから、すぐ試合に出られていいなあ」
「その分、使役の量が多いですけど」
沢村はぷっと吹きだす。
「それも大変だなあ」
やがて試合が始まった。
埒係は馬の入退場のときに動けばいいだけなので、比較的楽だ。
障害係だと、馬が障害を壊すたびに、砂地を走っていって直さねばならない。
横木障害なら一人でも直せるが、レンガ障害やオクサーという大規模なものは、遠くから助っ人が走っていかねばならなかった。
笠井はのんびりと試合に見入る。
『ここからだと、近くで見られていいなー』
観客席から見るよりはるかに近いので、馬が障害を見据えて耳を寝かせる様や、騎手が脚と拍車で馬を誘導する様など、手に取るようにわかる。
『うん、勉強になるな』
熱心に見続けて、ふと気づくと、もう一つの馬場での試合に牧之瀬が出場する時間だった。
どうしても牧之瀬が活躍する姿を見たい。
笠井は思い切って沢村に声をかける。
「すみませんが、俺、先輩の試合、見に行きたいんですが、ここから離れていいでしょうか?」
沢村は気安く「いいよ」と答える。
「埒をあけるのは一人で十分だもの、行ってこいよ。
 僕も先輩の試合は応援したいからね」
許可をもらって笠井は隣の馬場を目指した。
隣ではまさにレフレル号がスタート地点についたところだった。
スタート係の白旗が振り降ろされ、タイムカウントが始まる。
障害飛越競技は減点方式で、決められたコースを時間内に全ての障害を落下させずに完走した場合、ゼロ点となる。
障害を一つ落下させるごとにマイナスポイントが加算されるが、落下させなくても手前で停まったり、嫌がって脇へ逸れたりするとやはり減点の対象となる。
今回のコースは一番高い障害が120pで、幅は最大が160pに作られていた。
牧之瀬はゆっくりと第1障害へと馬を進めた。
第1障害は横木といって走り高跳びのようにバーが一本横に渡してあるだけの簡単な構造だ。
幅はほとんどない。
牧之瀬はなんなくクリアし、次の第2障害へ馬を早足で進めていく。
第2障害はオクサーという二つの障害が平行に並べてある幅の広い障害だ。
笠井が見ていると、牧之瀬は馬の腹に拍車を当てる。
レフレル号は駆け足になって障害へと向かった。
ふわりと馬体が浮き、牧之瀬は鐙に立ち上がって馬の首に顔を寄せ、前傾みになった。
馬は大きく前へ首を伸ばし、障害を飛び越える。
牧之瀬は立ち上がったまま、馬の首の動きについていく。
人馬一体の優雅な飛越だ。
着地するとまた牧之瀬は鞍に腰を下ろし、落ち着いて馬を次の障害へと誘導する。
レフレル号は次から次へと障害をクリアし、最後の一番高さのあるレンガ障害も楽々と越えた。
着地した後も牧之瀬は前傾姿勢を取ったまま、レフレル号を全力疾走させ、ゴールを切った。
待機馬場に戻ってきた牧之瀬を笠井は出迎えに走る。
「すごい、満点ですよ!」
坪内も待っていて、満足そうに頷いた。
「タイム、どうでした?」
しかし牧之瀬は不安気に馬場に設置されている大きなタイムレコーダーを振り返る。
「なんとか間に合ったぞ」
「良かった!」
牧之瀬はヘルメットを脱ぐとようやく笑みを浮かべた。
「ジャンプオフに残ることを目標にしたから、落下させないように慎重に飛んだんだけどね。
 ちょっとゆっくりしすぎて、タイムオーバーしちゃうかと焦ったよ」
「ジャンプオフってなんです?」
笠井が尋ねると、坪内が「決勝のことだよ」と答える。
「減点ゼロが複数いる場合は、ジャンプオフで決まるんだ」
牧之瀬は鞍から降りると、レフレルを引きながら笠井を振り返る。
「あれ、埒係はもう終わったのかい?」
「もう一人の人が、牧之瀬さんの試合を見に行っていいって言ってくれたんです」
笠井が屈託なく答えると、牧之瀬は少し心配そうな表情になって隣の馬場へと目をやる。
「笠井、すぐ戻った方がいい。
 馬場に入るのを嫌う馬がいたら、押さえるのに手が足りないだろう」
「えっ、そうなんですか?」
新人の笠井にはそこまで考えが回らなかった。
もう一人の埒係も新人だったので、そんな可能性があるとは教えてくれなかったのだ。
笠井は急いで隣の馬場へ戻る。
すると牧之瀬の言った通り、選手の乗った鹿毛の馬が埒直前で立ち往生していた。
選手は拍車を馬の腹に何度も当てるが、馬は耳を後ろに寝かせ、前脚を突っ張っている。
沢村が埒を動かした途端、馬は両前脚を持ち上げ、棒立ちになった。
「うわっ」
乗っていた選手はたまらず振り落とされる。
そのまま馬は開いた埒をくぐって馬場の中へと走り込んだ。
「放馬だ、捕まえろ!」
障害についていた学生達が馬を追ったが、興奮はますますひどくなっていて、なかなか捕まえることが出来ない。
笠井は転げ落ちた選手に近づいた。
「大丈夫ですか!」
選手は笠井に助け起こされながら、沢村を睨みつけ、「馬鹿野郎!」と怒鳴る。
その間になんとか馬は捕まえられ、選手の元に引いてこられた。
選手の落馬は「失権」といって、その場で失格になるのだが、スタート前の落馬なので競技への出場は認められる。
しかしマイクを通して審査員からの注意を受け、選手は顔色を青ざめさせた。
騎乗している馬もまだ興奮が収まらず、今度は埒の中へ入っていこうとしない。
笠井は銜輪を掴んで、長い鼻面を撫でた。
「よしよし、いい子だ」
笠井が自分の身体を密着させ、囁くと、馬は寝かせていた耳をぴんと立てる。
何度も鼻を撫でていると、やっと馬は動き出し、笠井はホッとすると同時に後悔した。
「俺がここにいなかったせいなんだ……」
 
 
結局、その選手は障害を二個落下させるという結果に終わった。
笠井は沢村に「すみませんでした」と謝る。
「俺が残っていれば、馬を押さえていられたのに……」
沢村もまだ青い顔をしていたが、
「いいや、笠井君のせいじゃないよ」
と否定する。
「……あれ、うちの大学なんだ」
「ええっ」
沢村は震える声で続ける。
「あの馬は『名秀』って名で、良く障害を飛ぶんだけど、臆病で有名なんだ。
 僕も不注意だったけど、うちの部員が一人、ついてくるべきだった。
 君の責任じゃないから」
それでも名秀に乗った選手が沢村を怒鳴ったのは気になる。
「俺、謝ってきます」
走り出そうとする笠井の腕を沢村は押さえた。
「それよりも僕達、与えられた仕事をちゃんとやるほうがいいよ」
「あっ、そうでした!」
笠井は頭を掻いてまた埒の傍へ戻った。
そのあとはトラブルもなく試合は進み、全選手が走行を終了した時点で、減点ゼロが八人となった。
この八人がジャンプオフに進むのだ。
その中に牧之瀬は無論のこと、今回部長の坪内も残るという快挙となった。
もちろんM大の正岡の名もある。
「やっと部長のメンツが立ったよ」
馬房で馬を手入れしながら坪内は嬉しそうに言う。
「これで弾みをつけて東医体(とういたい)も優勝だ!」
赤木ははしゃぎながら青木の肩を抱いた。
七月の夏休みには、東日本の医学部学生の間で争われる体育大会がある。
これが東日本医学部体育大会といって通称東医体だ。
坪内の学年の実質的な引退試合でもある。
牧之瀬と同期の正直が力強く頷く。
「J医大は選手層が厚くなったと自慢できますね」
「そうだな、来年は牧之瀬と正直で部を引っ張っていかなきゃならないんだからな」
言いながら坪内は笠井と大野を見た。
「お前達も来年はもう選手なんだ、しっかりやれよ!」
ふと心配そうに笠井に尋ねる。
「それより、名波はやっぱり退部するのか?」
笠井達と一緒に入部した名波はこのところ練習に顔を出さない。
人づてに聞いた話では、ロックバンドを結成し、そちらにハマっているらしかった。
「まあ、それも仕方ないな、あいつはチャラチャラしてるほうがあってるよ」
赤木は肩を竦める。
「うーん……」
乗馬ははたから見ると派手でチャラチャラしているように見えるが、実態は馬房掃除や馬の世話など地味な作業が多いのだった。
「それよりそろそろ、時間ですよ」
笠井は皆に声をかけた。
決勝のルールは、減点が同数の場合は一秒でもタイムが少ないほうが勝つ、というタイム勝負だ。
そのためか、決勝の走行はどの選手も荒れ模様になった。
タイムを縮めようと焦るため、障害の落下が続出する。
坪内も規定タイム内で走り終えたが、二つ落下させてしまった。
いよいよ牧之瀬の走行で、待機馬場で付き添っていた笠井はひどく緊張してきた。
牧之瀬は笑いながら「笠井、まるで君が出場するみたいだよ」と言う。
そして鐙革を調整し始めた。
「え? どうするんです?」
いつもよりかなり鐙を短くするので笠井は訝しげに尋ねる。
「ちょっとね、正岡に勝ちに行くぞ」
牧之瀬は鞍に上がりながらいたずらっぽく片目を瞑った。
いきなりのウィンクに笠井はどきりとする。
『もうっ、そういう意味じゃないのに……』
牧之瀬は短くした鐙の上に立ち、まるで競馬の騎手のように腰を鞍から浮かせ、前傾姿勢を最初からとる。
スタート地点へ馬を誘導すると、一気に駆け足になった。
飛越のあとも腰を鞍へ落とさない。
全力疾走で次の障害を目指す。
要するに競馬の騎乗法なのだった。
笠井は埒の傍で息を呑んで見守った。
「すごいな」
聞き覚えのある正岡の声が頭上から降ってきたので、笠井は驚いて振り向いた。
正岡の乗った馬がすぐ後ろにいる。
正岡は笠井に語りかけるともなく呟く。
「短い鐙でジャンプすると、たいがいの奴は着地のときバランスを崩すんだ。
 まったくたいした奴だよ」
一つの落下もなしに、牧之瀬はゴールを切った。
「一番早いですよ! 絶対優勝です!」
埒があくと笠井ははしゃいで出迎える。
「まだ、正岡が走行してないからね、油断は出来ないよ」
それでも勝利を確信し、牧之瀬はヘルメットを外すとにこりと笑う。
正岡は苦笑いをしながら馬を埒へと進めた。
すれ違いざま、「してやられたな」と言葉をかけた。
「身が軽いお前だからあんな乗り方が出来るんだ。
 今回はどうやら負けたな」
正岡の言った通りで、減点ゼロで戻りはしたものの、牧之瀬のタイムを八秒以上オーバーしていた。
「明日の馬場馬術(ドレッサージュ)では負けないからな!」
ゴール直後に宣言する正岡に、柵に寄りかかって余裕の観戦をしていた牧之瀬は笑いながら手を振った。
 
 
牧之瀬は総合で堂々二位という結果になった。
優勝は名門G大学の学生で、三位がM大の正岡である。
そのあとはN大、A学院大学、T大学と、そうそうたる名門馬術部の名が連なる。
「すごいことなんだなー、やっぱ」
表彰式が行なわれるホールに張り出された結果を前に、笠井は改めて思った。
大会委員長が名を呼ぶと、黒い乗馬ジャケットに襟元を真っ白なスカーフで飾り、山高帽というドレッサージュ正装の牧之瀬が前に進み出た。
帽子を小脇に抱えると長靴の踵を鳴らし、白い手袋でさっと敬礼する。
見ているギャラリーからほっと溜息が漏れ、笠井は自分も感嘆の息をついていたのだが、また誇らしくなった。
表彰式が終わると正岡が隣から握手を求め、さらに馴れ馴れしく肩を抱く。
「な、記念写真を一緒に撮ろうぜ」
見ていた笠井はちくりと嫉妬の刺が胸を刺すのを感じた。
それでも確かに、一緒に表彰台に登った正岡は牧之瀬の隣に立つ資格があるのだ。
『くやしいけど……』
その瞬間、自分に出来ることはなるべく早く、あの隣へ行くことなのだと笠井は思った。『追いつけるとは思えないけれど』
それでも少しでもいいから近づきたい。
親しげに会話する二人を睨んでいると、牧之瀬が気づいた。
正岡の腕を外し、
「ほら、女子部員のところへ行って、愛想を振り撒いてこいよ」
といなす。
牧之瀬の言うとおり、ギャラリーの中からM大の女子部員達が黄色い声援をあげていた。
「いいんだって、どうせこれから祝賀会なんだ。
 と言っても、去年と同じ三位じゃ盛り上がんないけどな」
正岡はまた腕を牧之瀬の身体に巻きつける。
「なあ、全日本に出ろよ」
「まだその話か」
牧之瀬は身体を捻って離れた。
「レフレルでは耐久レースは無理だ」
全日本は総合馬術といって俗にスリーデイイベントと呼ばれる三日間に渡る競技なのだ。
一日目がドレッサージュ、二日目は耐久審査という丘や水濠のある全長二qほどのコースを走る。
いわばクロスカントリーだ。
そして三日目が「余力審査」という名のジャンピングとなる。
三日間の競技に耐えるような馬でないと出場は出来ない。
正岡はめげずに粘る。
「うちの馬を一頭、J医大の名義にしてやるからさ。
 シルバーアローじゃちょっと非力だからな、そうだ、サンダーブレイズなんかどうだ?」
牧之瀬は本気と取らず、大声で笑い出した。
「冗談じゃない、あんな高い馬、それに全日本なんてレベルじゃないよ、僕は」
牧之瀬は正岡の手を外すと準優勝の楯と賞状を手に笠井へと近寄る。
しばらく残念そうに見ていたが、正岡は肩を竦めると、自分の仲間達の元へと帰っていった。
部員達の祝福が終わると牧之瀬はジャケットとスカーフを外し、トレーナーを被った。
「さあ、仕事だ!」
これでおひらきと言うわけには行かない。
まだまだ馬房掃除やら障害の片付けなどの撤収作業があるのだ。
坪内の「かかれ!」の号令で、皆、一斉に走り出した。
笠井は牧之瀬と共に馬房の清掃を割り当てられていた。
フォークと竹箒をそれぞれ手にして厩舎へと急ぐ。
何人か作業をしているの学生の中に、笠井は沢村の姿を認めた。
「沢村さん、さっきはご迷惑をおかけしました」
手押し車でボロを集めていた沢村は「いいんだって」と言いながら、振り返る。
笠井の隣に牧之瀬がいるのに気づき、眼を丸くした。
「うわっ、牧之瀬さんだ、握手してください!」
牧之瀬は照れ臭そうに握手に応じる。
「それにしても、準優勝の選手が使役なんて!」
まだ眼を丸くしているので、牧之瀬は「なに、言ってるんだ」と答えた。
「優勝だろうが何だろうが、うちは総勢八人だもの。全員、使役だよ」
「そうなんですか、俺んとこは一回生と二回生しか、こんな仕事、やりませんよ!」
大所帯の部では、階級制度(ヒエラルキー)が厳しいのだった。
牧之瀬と笠井は、コンクリートの床に落ちたボロを掻き集め始める。
山盛りに積み上げると、厩舎の裏手のボロ置き場へと笠井は沢村と共に手押し車を押していった。
空の車と共に厩舎へと戻りかかった時、乗馬服姿の青年と、何人かのトレーナー姿の学生が行く手を塞いだ。
「あ……石川先輩」
沢村は足を止める。
「沢村、お前、どういうことだ、舐めた真似をするなよ!」
乗馬ジャケット姿の青年の顔に笠井は見覚えがあった。
『さっき、試合で落馬した人じゃないか』
そのあと沢村を怒鳴りつけていた姿を思い出し、不穏な空気を感じて笠井はその場に立ち尽くした。
沢村が石川と呼んだ青年は怒りに目を吊り上げてぐいと前に出る。
「お前がもたもたしたお陰で、俺はとんだ恥をかかされたんだ!
 OBからも怒鳴られるし、これで全日本に選ばれなかったら、ただじゃ済まないからな!」
周りの学生達も「新人教育がなってないとこっちにもとばっちりがあったんだ!」と詰め寄る。
笠井ははっと気が付いた。元はと言えば自分が埒を離れたために起こったトラブルだ。
「待ってください、あれは俺の責任なんです!」
腕を取られて引きずられていく沢村を笠井はなんとか取り戻した。
「なんだ、お前は!」
笠井は沢村を自分の背中に隠すと、頭を下げた。
「俺が埒を離れたからなんです、俺が悪かったんです」
「お前が埒係だったのか!」
石川は笠井を憎々しげに睨む。
「なんであそこにいなかったんだ!」
「俺、隣の馬場へ行ってたんです
「どういうことだ!」
笠井が理由を口にした途端、石川は眉を吊り上げた。
「そうか、牧之瀬を勝たせようと工作したってわけか。
 上等じゃないか」
違うという間もなく、笠井は両腕を二、三人の学生に捕らえられた。
『元々自分が悪いんだ』
ヤキを入れられるのもやむを得ないと笠井は観念する。
何を言っても言い訳にしかならないのだ。
血の昇った相手には通じないだろう……。
おとなしく引きずられるまま、倉庫の裏手へと連れて行かれる。 
無抵抗のまま、二、三発殴られ、さらに倒れたところを蹴られる。
だがM大は所詮おぼっちゃまの集まりなので、笠井は内心『たいしたこと、ないな』と思っていた。
笠井のほうは相撲部で鳴らした筋金入りの体育会系である。地元のワルには昔同じ小学校だった顔馴染みもおり、喧嘩の仕方も知っている。
本気を出して抵抗すれば勝てると踏んだが、それもくだらないと考え直した。
『ことを大きくしても馬鹿らしいし、そのうち気が済むだろう』
眼を瞑ったまま、横たわって蹴られていると、「止めろ!」と聞きなれた声がした。
「あ、牧之瀬さん」
牧之瀬が沢村と一緒に血相を変えて走ってくる。
「笠井、いったいどうしたんだ!」
牧之瀬を巻き添えには出来ない。笠井はむっくり身体を起こすと、平静を装って「なんでもないです」と答える。
「馬鹿なことを言うな!
 なんでもないわけ、ないだろう!」
牧之瀬は笠井を助け起こすと、石川を睨んだ。
「うちの部員となにかトラブルですか」
石川は悔しそうに唇を歪める。
「牧之瀬さん、あんた、わかってるくせに。
 こいつを使って卑怯な真似をしたんだろう?」
「ええっ?」
ことの経緯をまるで知らないので、牧之瀬は聞き返す。
「どういう意味です?」
言いかける牧之瀬を笠井は遮った。
牧之瀬の実力を汚すようなことは許せない。
「牧之瀬さんはなんの関係もありません。
 自分の失敗を誰か人のせいにしたいなら、俺をもっと殴ってください」
「なんだと!」
石川が拳を振り上げたとき、「いい加減にしろ」と迫力のある低い声が響いた。
正岡が怒りをみなぎらせて大またに歩いてくる。
後ろには沢村がついていた。
「正岡さん……」
さすがに副キャプテンに見つかったのはまずいと、石川は亀のように首を縮めた。
「とんだ恥さらしだな、さっさと引き上げろ。
 話は後だ」
正岡は最小限の言葉を発する。逆らう者は一人もおらず、あっと言う間にその場は沢村と正岡、それに笠井と牧之瀬の四人だけになった。
「悪かったな」
正岡は素直に頭を下げる。
「沢村に大体のことは聞いた。
 そもそも埒係を新人に任せたのは、どちらの部にも落ち度がある、喧嘩両成敗にしてくれ」
「馬鹿を言うな、こっちは喧嘩などしていないんだ!」
牧之瀬が真っ青な顔で唇を戦慄かせ、正岡に食って掛かったので、笠井は驚いた。
普段の冷静な態度からは想像もつかない。
「笠井は……殴られたんだぞ?
 悪いのはそっちだ!」
「その通りだな、謝る」
正岡はすぐさまもう一度丁寧に頭を下げた。
「あいつはしばらく部活動停止にするから。
 俺の顔を立てて引いてくれ」
「なんだって……」
牧之瀬が再び食って掛かろうとするのを見て、笠井は急いで「わかりました」と口を挟んだ。
「牧之瀬さん、俺は大丈夫ですから。
 正岡さん、もう行ってください」
正岡を見送って「本当に大丈夫ですから」と言いながら振り向いた途端、笠井は異変に気づいた。
「牧之瀬さん?」
牧之瀬の色白の肌はいつもより血の気がなく、少し前屈みになって両腕で腹を抱えている。
まるで酸素が足りないかのようにはぁはぁと粗く早い息をついている。
「どうしたんです!」
肩先を掴むと、牧之瀬はくたくたと笠井の胸に倒れこんだ。
「どこか痛いんですか!」
牧之瀬は「いや、平気だ」と歯を食いしばる。
「平気って、全然平気じゃないですよッ、すぐに医務室へ行きましょう!」
笠井の言葉に牧之瀬はいやだと首を振った。
「ちょっと……血圧が下がっただけだ……このまま休めば元に戻る」
牧之瀬を抱えなおすと、とりあえず笠井は寄りかかれる場所を探して辺りを見回した。
倉庫の扉の前に牧之瀬を座らせ、「大丈夫ですか」と顔色を窺う。
冷たい手に熱を与えようと自分の大きな掌にくるむ。
息を吐きかけ、擦った。
「ああ……楽になったよ。
 悪かったね、迷惑をかけた」
数分後、血の気の戻った唇で牧之瀬は微笑んだ。
「俺のほうです、迷惑かけたのは」
笠井は答えながら、自分が牧之瀬の手を握ったままなことに気づいた。
牧之瀬は戸惑った顔でその手を見ている。
「あっ、すみません!」
手を離すのと同時に、
「おい、牧之瀬!」
正岡の声が響いた。
大またで歩み寄ると、笠井を無視し、間に身体を割り込ませる。
そして牧之瀬を抱き起こそうとした。
「やっぱりまた、具合が悪くなったんだな?
 戻って来てよかった」
「違うんだ、雄祐」
牧之瀬は弱々しく首を振る。
「試合の疲れだと思うよ、もう大丈夫だ」
だが正岡は掴んだ手を離さない。
「馬鹿言うなよ、いつもの……」
そこまで言って、はっと笠井を振り返る。
「もういいんだ、雄祐。
 何も言わないでくれ」
牧之瀬のきっぱりとした口調に、正岡は首を振りながら手を離した。
「わかったよ、お前が大丈夫って言うんならいいだろう。
 医者の卵なんだしな」
心配そうにそっと肩を叩く。
何か二人だけに通じる事情があるのだと笠井は気づいた。
しばらく正岡はそのまま肩に手を置いていたが、「じゃあ」と言って去っていく。
牧之瀬は何もなかったように振り向くと、笠井に微笑んだ。
「さあ、掃除の途中だ、早く終わらせよう。
 帰りにみんなで焼き肉屋へ行くことになっているからね」
「うわっ、ヤッター!」
笠井はわざと明るい声を出し、先に立って歩き出した。
 
 
「乾杯、牧之瀬の個人総合二位を祝して!
 坪内さんの障害六位入賞を祝って!」
正直が乾杯の音頭を取る。
いつもの焼き肉屋で部員達は簡単な祝賀会を兼ねた打ち上げをやることになった。
笠井はジョッキを片手に少し離れたところにいる牧之瀬を観察していた。
牧之瀬はすっかりいつもの落ち着いた表情を見せている。
正岡の言葉がなければ、牧之瀬が言った通り、疲れから体調を崩したのだと信じただろう。
だが正岡との会話からは……。
『なにかあるんだ』
牧之瀬の線の細い横顔に時折秋人の寂しげな顔が重なる。
『まるで似ていないのに、どうしておんなじに思えるんだろう……』
『なにかある』
そこまではわかった。
でもその先には自分はまだ踏み込んでいけない。
『あの人のことをもっと知りたい』
正岡の知っていることも含めて。
その夜、笠井はベッドの中で考えていた。
牧之瀬と自分の接点は幾つあるのだろう。
『正岡さんみたいに長い付き合いじゃないし』
『乗馬だって始めたばかりだ、正岡さんみたいに好敵手(ライバル)でもない』
『原野さんみたいに一緒の家に住んだこともない』
『原野さんはなんてったって、血の繋がりがあるし』
まるで勝ち目がないと笠井はげんなりしてベッドに上体を起こした。
「なんだよ、これ……見込みなしか?」
でも、と再び頭を枕に落とし、思い直す。
『同じ大学だし、同じ部だし、なんたって隣に住んでるんじゃないか!』
だんだん前向きな気持ちになっている。
それになんと言っても、
「俺はあの人が好きなんだ」
『勝ち目がないからといって、諦めてたまるか!』
秋人のことで悟ったはずだ。
いくら大切に思っていても、手を伸ばさなければ捕まえられないのだ。
『あの人は……』
指先からすり抜けていった感覚が蘇り、笠井は胸が詰まった。
あの夜、秋人は「もう行く」と言った。
笠井は夢中で「僕も一緒に」とバイクの後ろに乗った……。
「これを被れ」
秋人はうっすらと笑いながら自分の被っていたメットを笠井に渡したのだった。
ガードレールに激突する寸前、絶対秋人は自分の手を引きはがしたのだと思う。
病院に入院した後、色々な人の噂が耳に入ってきたけれど。
『あの人は自殺したんじゃない』
『それも俺を道連れにするつもりなんか、絶対無かった』
でもあの時、秋人が求めていたのは自分の手じゃなかったのだとわかった。
『牧之瀬さんの求めてるのは俺の手じゃないかも知れないけど……』
でも差し伸べられたら。
『絶対離さない』
それだけは確かだ。
『それに俺はあの人が好きなんだから』
一番大事なのはそのことなのだと結論付け、笠井はベッドに潜り込んだ。