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夏の章
 
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翌週からしとしとと雨の降る日が多くなった。
馬場には水たまりだらけになり、乗馬クラブへ行っても練習が出来ない。
それでも馬の傍にいるのは楽しく、笠井は毎朝登校前にクラブへ行って、掃除や飼い葉やりなどの作業を手伝った。
赤木や青木にはよく会ったが、五、六年生はさすがに学業に専念しているとみえ、試合が終わったあとはあまり顔を見せない。
特に牧之瀬は病院実習が忙しいようで、マンションでも滅多に見かけなかった。
実習レポートなどは図書館で書くらしく、たまにバルコニー越しに隣の部屋を窺っても、遅くまで灯が点いていないことがあった。
練習を一緒に出来なくても、一目でも会えればその日一日、心が弾むのだが……。
笠井はやり場のない寂しさを抱える毎日が続いた。
夜遅くなって、隣に人の気配を感じることもあったが、勉強の邪魔をするわけにはいかないと、笠井は訪問するのを必死で我慢した。
笠井自身も語学の定期試験や実験レポートで忙しいのだ。
『五年生なんてもっと大変だろうな……』
数学や物理学・生物学などは高校の延長だからいいが、ラテン語にドイツ語・フランス語はまったく新しい学科なのでこれには一苦労している。
まず人称変化に手こずっていた。
幸い、大野は高校でドイツ語をかじっていたので、彼に個人教授して貰うことでなんとか乗り切っている。
「だいたいドイツ語だけでも大変なのに、なんでこの上ラテン語をやらなくちゃならないんだろう」
ドイツ語の格変化を暗記しながら笠井が文句を言うと、大野は笑って、
「三年になって、解剖学が始まると役に立つってさ」
と答える。
「ほら、学名はみんなラテン語だろう?」
「そりゃそうだけど……だいぶ先の話じゃないか」
「確かに順調に進級しなければ、うんと先になるなあ」
落第はごめんだと笠井は必死でお題目のようにドイツ語の格変化を唱え始めた。
「でる、です、でむ、でん……」
ぽつぽつと雨の降るある夕方、校舎脇の駐輪場から笠井がバイクを引き出しているところへ、なんと相撲部の主将の横井が現れた。
相変わらずのジャージーに雪駄である。
「おう、笠井、探してたんだ」
薄いピンクのサングラスを額に上げ、笠井に声を掛ける。
「え、何の用です?」
引き気味に答えると、横井はにやりと笑った。
「なあ、馬術部と掛け持ちでうちの相撲部に入部してること、忘れてないか?」
「それは、幽霊部員でもいいってことじゃなかったですか?」
だが横井はがっしとバイクのハンドルを押さえる。
「たまには練習に来てくれよ、雨で馬術部のほうはお休みだろ?
 うちは全天候型だからさ」
「ええーっ」
横井は既に笠井の腕を捕らえ、引きずり始めている。
「それにさ、来週練習試合があるんだ。
 もちろん出てくれるよな?」
そんな取り決めはした覚えがない。
それでもこのところ、運動不足で身体をもてあましていることは事実だ。
特に壁一つ隔てた隣に牧之瀬が寝ていると思うと、ベッドの中で悶々とする夜も最近多いのだった。
『身体を動かせばすっきりするかなー?』
ふと考える。
「じゃあちょっとだけ、付き合います」
言ったあと、「回しはいやですよ」と付け加える。
横井は笑って、
「大丈夫、基礎練習だけだから」
と答えた。
新築の体育館の脇に、プレハブの小屋が幾つかあり、運動部の部室になっている。
創立以来の伝統ある相撲部は、そのうちの一つを独占し、ちゃんとした土俵のある練習場を持っていた。
「同好会に落ちたら、ここは明け渡せって他の部がうるさくて敵わないんだよ」
練習用のジャージィに着替えた笠井に横井はこぼした。
基礎練習ということなのだが、
『四股踏みはできるけど、柱がないからなあ……』
これでは「突き」や「押し」の練習ができない。
笠井が疑問に思っていると、横井はラグビー部からタックル用のサンドバックを借りてきていた。
しばらく汗を流していると、
「ちょっと試合前だから、立ち会いの練習、しといたほうがいい。
 勘が戻るぞ」
と横井が言ったので、笠井は眼を剥いた。
「俺、試合は出ませんよ!
 選手の数、足りてるじゃないですか!」
「だって、ぎりぎりだぞ?
 もしものことがあったら、一人足りなくなっちゃう。
 補欠でいいからさ」
「うう……」
どうも人のいい笠井は押し切られている。
『仕方ない……自分から参加すると言ったんだもんな……』
それにいつも馬房掃除と馬の世話だけでは運動をしたという実感はなく、久しぶりに身体を動かしたあとの汗が気持ちいいのは事実だった。
「わかりました、やりましょう」
立ち会いの間合いは、高校時代に散々練習させられていた。
何度か繰り返すうちに、相手の間合いを読む勘が戻ってくる。
「いやー、笠井君、君のお陰で俺も安心して卒業出来るよー」
横井は嬉しそうに笠井に言う。
「俺も今年はどうしても卒業したいんだ」
「横井さんが卒業するのは勝手です。
 俺とは関係ありません」
笠井は冷たく答えたが、横井はまともに取り合おうとせず、
「ぶつかり稽古をやろう」
と土俵に登った。
「やれやれ……」
それでも軽口を叩きながら、身体を動かすと気分が晴れてくる。
『俺、そうとうまいってるのかな……』
最近では気が付くと、牧之瀬のことを考えている。
実験や学業で忙しくしている間はいいのだが……。
乗馬クラブへ行くと、何を見ても牧之瀬と関係があるようで、さらに胸は苦しくなるのだった。
『たとえ本気で好きになっても』
見込みのない恋かも知れない。
自分は男で牧之瀬も男なのだから。
それでも秋人の時のように、追わずに諦めることは出来ない。
それは確かだと感じている。
『自分の気持ちに正直でいようって、誓ったんだ』
病院のベッドで秋人の死を知らされ、お別れを言えなかったどころか葬式にも行けなかったことを悔やみながら……。
そんなことがもやもやと頭に浮かび、集中が途切れた瞬間、笠井は横井の大きな手をまともに顔面に食らってしまった。
「うわっ」
土俵にひっくり返った笠井を横井は慌てて引きずり起こす。
「悪い、すまん!」
「先輩のせいじゃないです、俺の不注意です、イテテ……」
笠井が左目を押さえると、横井は真剣な顔になった。
「すぐ病院へ行って診てもらおう!」
ブンブンと笠井は首を横に振って「平気ですよ」と断った。
「大丈夫です、たいしたことありませんから」
「バカッ、視力が落ちたらどうするんだ!」
横井は有無を言わさず笠井の手を握ると大股で走り出した。
「うわっ、横井先輩、ちょっと待ってくださいよー」
「待てんわい!」
引きずられないためには自分も走らなくてはならず、仕方なく笠井もついて走り出す。
戸口でなんとか雪駄を履くことに成功はしたが、
『な、なんなんだよー』
強面のヤクザのような男と手を繋いで走るなんて……。
そのまま二人はグラウンドを横切って、付属病院へまっしぐらに走ることになった。
病院のロビーに入ると、横井はやっと歩を緩める。
それでも笠井の手をまだ放さずに、眼科の外来診療室を目指す。
外来処置室にどかどかと歩み入ると、辺りを見回した。
「よう、安江!」
患者に目薬を差していた小柄な若い医師が振り向き、「横井先輩!」と声を上げた。
何年も留年している横井なので、後輩が既に医師となっているというわけである。
「どうしたんです?」
「練習中にこいつが眼を打ったんだ。
 すぐ診てくれ、カルテは俺が作ってもらってくるから」
 安江は頷いて、
「そこの椅子に掛けてごらん」
と指さす。
「頼むぞ安江、こいつは相撲部のホープなんだ」
「えっ、そいつは災難な……」
 安江が気の毒そうに言ったので、笠井は笑い出してしまった。
「笠井じゃないか、どうしたんだ!」
心配そうな声が戸口から上がり、振り向くと、白衣姿の牧之瀬がノートを手に立っていた。
「牧之瀬さん!」
左目を押さえている笠井に近づく。
「怪我したのかい?」
質問に笠井は「牧之瀬さん、なんでここに?」と逆に尋ねる。
「ちょうど実習で眼科を回ってるんだ」
牧之瀬は安江に「重傷ですか」と尋ねる。
「こいつは馬術部のホープなんですよ」
「おやおや、モテモテだね、君は」
安江は笑いながら笠井の目を眼底鏡で覗き込んだ。
「どうです?」
牧之瀬は処置椅子の傍らに立つと、安江の診察を見守る。
「大丈夫、外傷性の網膜剥離もなければ、水晶体もインタクトだ」
目薬を垂らすともう治療は終了だ。
「痛み止めと腫れ止めを処方しておこう。
 それから今日一日はよく冷やしていたほうがいい」
ドスドスを重たい足音と共に、横井がカルテを手に戻ってきた。
結果を聞いて安心の息を吐く。
「よかった……今日はもう帰って寝ろ!
 俺は練習に戻る、じゃあな!」
竜巻と言うよりはブルドーザーだと見送って笠井は思った。
眼帯をかけて貰っている間に牧之瀬が安江から処方箋を受け取る。
「笠井、片目になっちゃったから、バイク、乗れないだろう。
 僕が送っていくよ」
「でも実習は……」
笠井は固辞したが牧之瀬は「もう終わりだから」と先に処置室から出ていく。
焦って後を追った。
外来薬局の前にあるベンチに座り、二人は薬が出来るのを待つことにした。
電光パネルに引換券の番号が出るのだが、かなりまだ待っている人が多く、
「牧之瀬さん、いいですよ」
と笠井はもう一度断った。だが牧之瀬は笠井の隣から動かない。
「笠井、痛まない?」
待っている間もしきりに気を掛ける。
もちろんその優しさは単に後輩の怪我を心配しているに過ぎないのだと笠井は思った。
『優しくされるのは嬉しいけど……』
隣にぴったりと肩を触れ合わせるように座っている牧之瀬がひどく気になってくる。
『なんか……』
コロンの淡い香りも漂い、自分は汗くさいジャージーをいうこともあって居心地が悪い。身体を少し捻って間を空けた。
「俺、一人で帰れますから。
 横井先輩は大げさなんですよ」
わざと突き放すように言う。
「あの人、見た目のわりに気が小さいなあ」
すると牧之瀬は真面目な顔になった。
「あのね、笠井……横井さん、なんでサングラスかけてるって思う?」
「え?」
そう言えば、どうみてもヤクザと間違えられそうな黄色やピンクなど様々な色のサングラスを持っている。
さっきの練習の時は外していたけれど。
「横井さんはね、ただ進級試験に落ちて裏表やっているだけじゃないんだ。
 結核になって留年したことがあるんだよ」
「ええっ」
体格が良いのに結核になるなんてと笠井は眼を丸くする。
「体格は関係ないよ」
ちょっと牧之瀬は呆れ顔になったが、また続ける。
「六ヶ月も結核病棟に入院して、治療薬の副作用で視力が低下してしまったんだ。
 一時は失明の危機もあったらしいよ。
 だから特に心配したんじゃないかな?」
「そうだったんですか!」
人は外見ではわからないのだとまた笠井は思った。
『牧之瀬さんだってそうだ……』
しんみりとして笠井は「俺って幸せ者ですよね」と言ったので、牧之瀬は「え?」と聞き返した。
「何が?」
「だって、横井先輩や牧之瀬さんみたいないい先輩に恵まれて……」
牧之瀬は眼を見開く。
そしてしみじみと笠井を眺めた。
「君って、なんだか……」
今時こんな素直な青年がいるのかと牧之瀬はちょっと感激していた。
動物好きで純真だとは感じていたが、田舎育ちの故かと思っていた。
『でも僕だって、中学までは田舎だったっけ……』
自分はこんな純真な気持ちは持っていない……いや、あの時まで持っていたはずだ。
人を愛する気持ちや、動物を可愛がる気持ちを。
それが……愛する人が誰もいなくなってしまって、だんだんそういった気持ちは失われてしまった。
「え、なんです、牧之瀬さん?」
黒いつぶらな瞳で覗き込まれ、ふっと「君って犬に似てるね」と口にしてしまう。
「え? 犬?
 なんです、それ」
「あ……」
牧之瀬は口ごもったが、「だからさ」と続ける。
「なんていうか……柴犬みたいだよ」
「柴犬?」
牧之瀬は一人合点して頷く。
「マルって犬、飼っていたって言ったろう?
 柴犬って、気立てが良くて素直で、『初めて犬を飼うなら柴犬がいい』って父が聞いてきたんだ。
 僕がまだ小さかったから、子供でもよく懐く犬って言われて、それで柴犬を飼ったんだよ。
 本当にその通りだった。うん、君ってマルにそっくりだよ」
褒められたのかどうか今ひとつわからず、笠井は内心首を捻った。
『でもマルって犬がすごく好きだったって言ってたよな……』
そのマルと似ていると言われたのは、すごくいいことだ。
「えへへ、そうですか?」
と頭を掻く。
牧之瀬は微笑みながら見ていたが、はっと正面の電光パネルに目をやった。
「薬が出来たよ、持ってきてやるからここで座って待ってろ」
薬局の人に説明を受けている牧之瀬の背を見ながら、笠井は怪我をしたにもかかわらず、幸せな気分になっていた。
『なんで悩んでたんだろう……牧之瀬さんは優しくて、俺はあの人が好き、それだけだ』
取りあえず、今はそれだけで十分だ。
これからどうなるかはわからないけれど。
「笠井、帰ろう」
牧之瀬の呼びかけに元気よく「はいっ」と答え、ベンチから立ち上がった。