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11

 次の日は午前中が苦手のフランス語にラテン語、午後は化学の実習だったので忙しく、全く病院には顔を出せなかった。
 何しろ昼休みも居残りで、ラテン語の格変化の書き取りをさせられてしまったのである。この所の騒ぎで、暗記しておくよう言われたところが全く覚えられなかったためのペナルティであった。
 中年の痩せ細った、眼鏡をかけたラテン語の教授は、居残り組を前に諭す。
「君達ね、今はなんでこんなもの、覚えなきゃいけないんだと腹を立てているだろうが、必ず『ああ、あの時、真面目にやっておけば良かった』と思う日が来るんだよ」
 教師の言うことは押しなべて皆同じで、
『聞き飽きたぜ』
 思いながらも、笠井は必死でノートをとり続けた。
 夜十時過にやっと実験レポートを提出し、マンションに戻る。
 駐車場からエントランスに入る前、見上げると、牧之瀬の部屋の明かりは点いていなかった。
『まだ、帰ってないんだ』
 自分の部屋に入ると、留守録には何も入っていない。
『何かあれば、すぐ、電話を入れると言ってたよな』
 笠井は胸を撫で下ろす。
 ……明日は土曜日だから、授業が終わったら病院へ行こう……そしてその足で、乗馬クラブに行って、雨宮と会おう。
 どうしても気になることが、笠井にはあった。

 翌日の夕方、3病棟へ急ぐと、廊下のベンチに浅田と牧之瀬が腰を下ろしていた。
 笠井が姿を現すと、顔を見合わせる。牧之瀬が立ち上がって、入ろうとする笠井を遮った。
「あのね、ちょっと待ってくれ」
「え?」
 その間に、浅田は「じゃあ頼む」と去って行く。
「どうしたんです?」
 浅田を見送りながら、笠井は不思議そうに尋ねた。
「実は、雄祐の意識が戻りそうなんだ」
「ええッ、良かったですねーッ」
「そうなんだけど」
 牧之瀬は笠井の眼を見ないようにしながら、続ける。
「昨日、ほんの少し、眼を開けたんだ。今日もさっきね。まだ話は出来ないけど。主治医の先生は、多分、明日には話が出来るようになるって」
「それじゃあ、何が起こったか分かりますね!」
 笠井は勢い込む。
「だからね……」
 牧之瀬は声を潜めた。
「これから乗馬クラブへ行って、雨宮さんとか、他の人全員に伝わるようにしてくれないか。明日には話が出来るようになるって」
「なんでわざわざ……」
 言いかけ、笠井は思いつく。
「それって、罠を仕掛けるってことですか?」
「そんな大袈裟なものじゃないけど」
 だが笠井の想像はまた大きく膨らんだ。
「松浪さんから本当のことを言われたら困る真犯人が、命を狙って忍び込むってことですか?」
「笠井ー、それって、TVの見過ぎ」
 ちょっと牧之瀬は呆れ声を出す。
「それ程のものじゃないけど、もしかしたら、様子を見に来るかもしれないだろ?」
 こんな時に不謹慎とは思ったが、笠井は結構、胸が弾んできた。探偵ごっこのようで、これはなかなか楽しい。
 笠井は言われた通り、乗馬クラブへとバイクを飛ばした。
 ラウンジには何人かの厩務員がいて、笠井の報告に皆、一様に嬉しそうな顔になる。
「良かったな、松浪さん!」
 校長の工藤は涙を流して喜んだ。工藤は松浪の祖父とは親しいのだ。
 するとそこへ、雨宮が現れる。
「雨宮さん、松浪さんの意識が戻るそうですよ!」
 厩務員の一人に呼びかけられ、雨宮は目を見開く。
「雄祐が……本当かそれは!」
 その顔は悦びに満ちていたが、一瞬、暗い影が落ちる。雨宮は俯くと、急ぎ足で二階へ上がっていった。
 その後ろ姿を見ながら、笠井はやはり雨宮を疑わずにはいられなかった。それにどうしても引っかかることがある。
『まあ、いいや……今日中にはすべてがわかるんだ』

 とんぼ返りして、松浪の病室を目指す。
 扉の前に立つと、中から人声のようなものが聞こえる。
『松浪さん、意識、戻ったのかな?』
 期待を込めて扉をノックし、「松浪さん!」と大声を出した。
 すると慌てた様子で牧之瀬が中から出てくる。後ろ手で扉を閉めた。
「え、牧之瀬さん? どうしたんですか? 松浪さん、意識、戻ったんじゃないんですか?」
「い、いや……まだだよ」
 牧之瀬が口ごもるので、笠井は頭を捻る。
「声が聞こえたような気がしたんだけど……」
「あ、ああ、あれは僕が電話を掛けたんだよ」
 牧之瀬は笠井の手を引っ張って、廊下の端まで歩いていった。
「どうだった、笠井?」
「怪しい素振りの人はいませんでした!」
 うーんと牧之瀬は考え込んだ。
「わかった……あとは待つだけだね」
 牧之瀬はまた笠井を引っ張ると、病室に招き入れた。
 ベッドの中の松浪は、点滴に繋がれ、頭の毛は剃られていて、手術の傷口の所はガーゼが当てられている。包帯は巻いていないが、ガーゼを押さえるように白いネットを被っていた。
 眼は相変わらず堅く閉じられ、口元にはまだ、酸素マスクがつけられている。
 胸に貼ってあった心電図モニターは外されていた。
 足音を忍ばせ、そばへ寄って見ていると、牧之瀬が笠井の腕を取る。
「笠井、君はもう帰ったほうがいい」
「ええっ、どうしてです?」
 牧之瀬はまた口ごもる。
「僕一人がここで待っていればいいから……」
「だって、変な人が来たら危ないですよ? 俺も一緒に待ってますよ」
 笠井は焦って牧之瀬の肩を掴んだ。
「俺、心配で先輩を一人になんか出来ません! だって、松浪さんを殴った奴が来るかも知れないんですよ?」
 牧之瀬はしばらく迷ったが、渋々頷いた。
「わかった。じゃあ、こっちへ来てくれ」
 牧之瀬は笠井の腕を引いて、浴室へ入る。
「ええッ?」
 まさか二人でお風呂に入るとまでは思わなかったが、眼を丸くして、牧之瀬を見下ろす。
「ここで待つんだよ」
『なんだー』
 ほんの僅か扉を開けると、ちょうど病室の入り口とベッドが見える位置である。
 二人でお風呂、という甘い期待は外れたが、
「やっぱ、刑事ドラマみたいですねー」
 狭いところで牧之瀬と二人というのは、なかなか楽しい。
「なんか、楽しいですねー」
「お前……」
 牧之瀬は扉を閉めると、持ち込んであったバッグから医学書を取り出す。浴槽の縁に腰を下ろし、真面目に勉強を始めた。
「見張ってなくて、いいんですか?」
「いや、実はね」
 この病室に来るためには、ナースステーションの前を通らなくてはならない。今まで来たことのない人物が、こちらへと向かったり、または病室がどこか尋ねたりしたら、婦長が連絡してくれることになっていた。
 病室番号は受付で聞けば分かるが、氏名を明らかにしなくては教えてくれない。やましい人物ならば、受付で調べるようなことはないに違いない。
「あのね、訳を話したら、協力してくれるって」
 3病棟の近藤婦長は、ミステリーマニアなのだった。すぐ状況を理解し、しかも、
「あのスピーカーから、『お呼びになりましたか』っていうのが、約束なんだ」
 ナースコールというボタンを患者が押すと、ナースステーションから看護婦がスピーカーを通じて、応じてくれる。そのシステムを利用してのことだった。
「へぇーッ、本格的!」
 痩せぎすで四十歳ぐらいの近藤婦長の姿を思い浮かべる。
「火曜サスペンス劇場ですねッ、『婦長は見た、外科病棟の怪しい影』とか!」
「ほんと、TVっ子だな、笠井って!」
 しばらく牧之瀬は医学書を読んでいたが、顔を上げる。
「お前、何か、本、読む?」
「いいです」
「退屈しないの?」
「ぜんーぜん」
 間近で牧之瀬を見ていると、飽きないのだ。蓋の上に腰を下ろし、膝に頬杖をつく。スタイルは『考える人』だが、哲学ではなくて、煩悩で頭は一杯なのだった。
 ニコニコしている笠井を、牧之瀬はちょっと不審そうに見ていたが、また本に眼を落とした。
「本当に誰か、来るんですかね」
「そりゃ、分からない。でも、万が一ってこともあるだろ?」
 ふと笠井は気づいて
「松浪さん、ご両親、今日はいらっしゃらないんですか?」
と尋ねた。
「あっ、ああ……ほらッ、まだ意識、もどんないし、明日、来るってさ」
 牧之瀬はそわそわし始めた。
「主治医の先生が、明日、戻るって言ってるしさ」
「ふーん」
 何かが引っ掛かったが、確かにまだ酸素マスクをかぶせられ、眼を閉じたままの松浪の側にいたら、不安になるだけかも知れないと思いついた。
「そうですね、明日の方が、松浪さんと話、出来ますもんね」
 牧之瀬はほっとした様子で、再び本を読み始めた。
 そろそろ面会時間も終了である。
「やっぱ、来ませんでしたね」
 笠井が言いかけたその時、ブザーが鳴って、近藤婦長のハスキーな
「はい、お呼びになりましたか?」
という声が響き渡った。
「ワッ、来たッ」
 二人とも、扉の隙間に顔を押し付ける。
 トントンとドアがノックされる。
 しばらく間が空いて、カチャリという音と共に、病室の扉が僅かに開いた。
 隙間から侵入した、影法師のような細長い黒い物体は……。
「雨宮さん!」
「しッ」
 黒いジャンパーに黒い乗馬ズボンという、いつもの黒づくめの雨宮は、思い詰めた表情でそっと辺りを窺う。滑るようにベッドへ近づいた。
 何も言わず、寝ている松浪を見下ろす。松浪の痛々しい姿に動揺しているようで、きりっとした眉を寄せ、唇を噛み締めている。瞬きもせず、黒い大きな眼を見開いて、松浪の規則正しく上下する裸の胸を見ていた。
 それがあまりに長い時間なので、笠井は緊張が続かなくなって、叫び出したくなった。
 ふと、雨宮が身体を屈める。松浪の耳元に顔を寄せた。
 そして雨宮の取った次の行動は、笠井の予想もしなかったもので、心臓を拳で殴られたように感じた。
 雨宮は松浪の酸素マスクを外したのだった。
『やっぱりッ、雨宮さんは、松浪さんのことを殺そうとしてるんだッ』
 一瞬、頭の中が真っ白になり、笠井は勢いよく扉を開けて飛び出した。
「あッ、笠井ッ」
 牧之瀬が止めようと手を伸ばすのと、笠井が病室に踏み込むのと、そして雨宮の唇が松浪の唇に重ねられるのが同時だった。
「あーッ」
 笠井の声で雨宮は顔を上げ、蒼白になった。
「笠井!」
 牧之瀬も後を追う。
「あッ、雨宮さんッ」
 笠井は怒りで顔を紅潮させながら、雨宮に大股で歩み寄る。
「や、やっぱりッ、あなたが松浪さんに怪我をさせたんだね!」
 雨宮は背筋を伸ばすと、冷静な声で
「そうです」
と答えた。これには牧之瀬も一瞬絶句する。
「えッ、本当なんですかッ? 嘘ですよね?」
 雨宮は黙ったまま首を縦に振った。その冷静な態度に、笠井はもう我慢が出来ない。
『松浪さんはッ、あなたのことを好きなのにッ』
 ぐいと人差し指を突き付ける。
「そうだろうと思った! あの鞍を切ったのも、あなたなんでしょう?」
 雨宮はぴくりと眉を動かす。
「そんなこと、信じられない! 笠井、嘘だろ?」
 牧之瀬は声を絞りだし、笠井の顔を見た。
「あの鞍は新しくて、出来たばかりで、松浪さんのだってこと、僕達四人しか知らない筈だもの! 初めて使った時、松浪さんは直すと言って、そのままクラブに置かないで持って帰ったでしょう。次に持って来たのは、試合の日だ。しかも鞍置き場には、名前がついていないから、あの鞍が松浪さんのだって知ってる人は他にいなかった筈なんだ!」
 確かに笠井の推理通りで、牧之瀬もそうだと思うほかなかった。
「あなたはッ、あのあとッ、厩舎に戻って、松浪さんを殴ったかどうか、したんだね?」
「違う」
 言ったのは、雨宮ではなかった。
 むくりとベッドから、見知らぬ人間が起き上がる。頭の一部は毛がなく、げっそりと頬はやつれ、顔色は土気色で、不精髭が角張った顎にびっしりと生えている。とても松浪とは思えなかったが……。
「う……う、そ……松浪さん……」
 笠井は息を呑む。なんだかフランケンシュタインの復活を目撃したようだと、また場違いな思いが頭をよぎった。
 松浪は太い腕を雨宮の方へと伸ばす。そして、「啓」と呼んだ。
 雨宮は大きな眼をまんまるにして、松浪を凝視している。
「雄祐?」
「啓……さっきの言葉をもう一度、言ってくれ」
 その途端、雨宮の頬に血が昇った。さっときびすを返し、止める間もなく病室から走り出る。
 笠井が呆然とあとを見送っていると、
「啓!」
 なんと松浪は両手を前に伸ばし、ベッドから出ようとしている。まさにフランケンシュタインの復活ポーズだ。
「ば、馬鹿ッ、雄祐ッ、動いちゃだめだ!」
「啓!」
 牧之瀬が飛びついて押さえる。
「馬鹿野郎!」
 点滴台が倒れ、点滴の針が松浪の腕から引き抜かれ、血が吹き出す。牧之瀬は焦って処置台にアルコール綿を取りに走った。その間にも、松浪は起き上がろうとする。
『うわーッ、ほんとにフランケンシュタインだ!』
「笠井、手伝ってくれ!」
「あっ、はい!」
 瀕死の重症とは思えない力で松浪はもがく。そして、
「笠井君ッ、啓を捕まえてくれ!」
と言う。笠井はもう訳が分からない。
 二人してやっと押さえ付けると、松浪はさすがにぐったりと枕に頭を付けた。
「あー、頭いてぇ」
「当たり前だよ、もう! 昨日やっと、意識が戻ったばかりなのに!」
「それ……どういうことですか?」
 笠井の質問に、牧之瀬はほっと溜め息をつく。
「ごめん、僕達、君をだましてたんだ」
「ええ?」
「実は……もう、昨日の朝、意識が回復してたんだ」
 松浪から何が起こったか聞き出すと、浅田と牧之瀬は相談して、嘘をつくことにした。
 あの夜、松浪は厩舎に侵入した怪しい男と揉み合ったのだった。
 したたかに酒を飲んでいた松浪は、弾みで転び、装蹄場にあったカナトコで頭を打った……。
 それから先は意識がないと松浪は浅田と牧之瀬に話した。
 怪しい男の顔に見覚えはなかった。だが内部事情をよく知っているように思えた。
 以前勤めていた奴かもしれない。そう松浪は言った。
 この数日、浅田は解雇された厩務員を探偵社に調査させていたが、
「もしかしたら今、いる厩務員にも、関係があるかもしれないから」
 それでちょっとした罠を仕掛けたのだった。
「ごめん、でも、敵を欺くには味方からって、言うだろ?」
「うう……」
 良く考えれば、車の修理じゃないんだから、『明日、意識が戻ります』などと、主治医が請け合う訳がない。だが医学生とは言え、素人同然の笠井はハマッてしまったのだ。
「それに、やっぱり、医学生の君が言えば、みんなも信用すると思ってさ」
 なんだか混乱して、怒りたくても怒れない。突っ立ったままでいると、松浪がベッドから手を伸ばして、笠井の腕を取った。
「頼む! 啓を連れて来てくれ! あいつ、きっと、どっかへ行っちまう!」
「え?」
 松浪は必死の面持ちで、笠井を見上げる。
「あいつ、さっき、俺の耳元でさよならって言ったんだ」
 混乱した頭で笠井は考える。
 ……さっき、雨宮は自分が松浪に怪我をさせたと言った。それはどういうことなのだろう……自分もその意味を聞きたい。
「どこへ行ったんです?」
「バカ、あいつの行き先なんて、馬の所に決まってるだろうが!」
 そして、笠井の腕を手繰り寄せると、少し離れた所で点滴を指し直そうと準備している牧之瀬に、聞こえないように囁いた。
「あいつは、こう言ったんだ、『お前を愛している。さようなら』って」
「え、えッ」
 自分が飛び出した瞬間、雨宮が松浪に口づけていたことを思い出す。そのあとの騒ぎで、すっかり忘れていたが……。
「あッ、そうか、そうだったんだ!」
 疑問が一気に解けた。
「俺ッ、雨宮さんを松浪さんの所に、必ず、連れて来ますから!」
「頼む!」
 また松浪が起き上がろうとしたので、牧之瀬はグイと腕を押さえた。
「動かすな! 針が血管に入らないだろ!」