| 松浪家の大きな食堂で取られた夕食の席は、笠井にとって大変なものになった。
まず外出から帰って来た松浪の母が、
「まあ拓海ちゃん、久しぶり」
と加わった。
映画で見るような白いクロスのかかった細長い食卓の端に席を取り、家事を担当している中年の女性に、
「私もここで食べるわ」
と告げる。松浪が顔を顰めたのを見て取って、
「お母さんにも、若くて綺麗な男の人と食事させてよ」
と言った。
「お袋にゃかなわねーな、もう」
それだけでなく、奥の院ともいうべき居室から、松浪の祖父母も聞き付けて出て来たのである。
初めは牧之瀬に話が振られていたが、そのうち笠井に次から次と、質問が飛ぶ。
松浪家の人々は、皆、話し好きで好奇心旺盛と見え、笠井は家族構成から高校時代のことまで聞き出されてしまった。
「笠井はニューフェイスだからさ、仕方ないよ」
四苦八苦で答えているのを見て、隣で牧之瀬がクスクス笑う。
が、牧之瀬も楽しそうに耳を傾けてくれるので、笠井はちょっと得した気分になった。結果として、自分のことを知ってもらえる訳である。
山梨は塩山の出身だと笠井が告げると、祖母の喜久江が
「まぁ、啓ちゃんと一緒ね」
と声を上げた。
「いや、啓のお父さんとお母さんだよ。啓は東京生まれ」
松浪が訂正する。
「あ、そういえば」
笠井は納得した。
「雨宮って姓は、甲府の辺りにすごく、多いんです」
「そうだよ、だから実家に近いからって、わざわざ石和のリハビリ施設に入れたんじゃないか」
祖父の俊英が、ベネチアングラスのぐい飲みで日本酒を口に運びながら言った。
「それより、笠井君のおうちは、お医者さんなの?」
母の優子が尋ねる。
「いえ、うちはお祖父さんが歯医者さんなんですけど、父は葡萄園をやってるんです」
笠井は大皿に乗ったかつおの叩きに手を伸ばしていたが、箸を止めて答える。
「じゃあ、なんで医学部を選んだの?」
「俺、中学の時、友達とバイクで事故っちゃって、入院した時、そこの先生が、すごくいい人で」
もう少し、色々な事情があったのだが、この説明が一番分かりやすいので、笠井は入学して以来、ずっと回りの人達にはこう説明していた。
「お祖父さんはまだ、歯医者をやってるのかね」
「いえ、昔、台湾で開業してたんですが、終戦で全部、なくなっちゃって、日本では開業しなかったんです」
「まあ、外地にいた者は、みんなそうだった。私も満州から無一文で引き上げて来たよ」
俊英は重々しく頷く。
「そういえば、さっき、美術館を見せていただきました」
笠井は満州という言葉で思い出す。
「あの、満州で、美術品が好きになったと、お聞きしましたが」
礼儀正しい笠井の言葉に、俊英はにっこりした。
「ああ、満鉄の子会社にいたんだが、そこの社長が美術好きで、私もその時期にいいものを見せてもらって、目が肥えたよ」
そこでふと声を落とした。
「あのころ、日本人は悪いことをしていた……中国人から高い品を、二束三文で買いたたいたりしてな。終戦の時、すべて置き去りにして内地に帰って来たのは、良かったんだろう」
しんみりした声が、また明るくなった。
「まあ、働いて金をため、ちゃんとした値段で買うってのは、いいことだな。昔の罪滅ぼしだ」
孫に暖かな目をやる。
「乗馬クラブの経営も、似たようなもんだな。満州では軍馬の徴用もしたし、乗馬も少し、やったことがあったよ」
「へぇ、それは知らなかった」
松浪が口を挟む。
「親しかった将校が、自分の馬に乗せてくれたんだよ。だから雄祐が乗馬クラブを買ってくれと言った時は、道楽をもう一つ増やしてもいいかなと思ったんだが……」
そこで皮肉な眼になった。
「まさか雄祐が、オリンピックを目指すと言うほど、熱中するとはな……雄祐はどちらかというと、優子より俊之の血をひいてるんだな」
「え、叔父貴も乗馬やってたのか?」
「いや、そうじゃなくて、趣味に走ってるって意味だ」
またぐい飲みに酒を注いだ。
「俊之は学者になると言って、私を困らせたことがあったんだよ。小さい頃から私の集めてた美術品が好きだったからな。なんとか、やめさせたが……」
酒が進んで口が軽くなった祖父の口から、初めて聞く話がどんどんこぼれ落ち、松浪は眼を丸くした。
「ま、雄祐が駄目でも、跡取りは奈津子がいるから、大丈夫だろう。奈津子は雄祐よりしっかりしてるし、慶祐君のような、優秀な婿を取ればいい」
「もう、勝手に決めないで下さいね!」
松浪の母の優子が会話に割り込んだ。
「慶祐さんは、お父さんにだまされたって、いっつも言ってるわよ。『儂はもう長くない、あとを頼む』とか言われて、うんと言ったあと、20年も生きるなんて、詐欺にあったって」
祖父の俊英は呵々大笑する。
「なんだ、随分、盛り上がってますね」
落ち着いた声がしてがっしりした中年の紳士が、戸口から入って来た。後ろに浅田も続いている。
「親父だよ」
松浪は笠井に紹介する。挨拶を交わしたあと、松浪の父は、食卓の上を見て、
「お、初鰹か、旨そうだな」
と言う。
「一緒に召し上がります?」
優子が席を用意させようとするのを、手で制して、
「あとでゆっくり食べるから」
また浅田を従えて出て行った。
「なんだね、浅田君は。俊之の所の総務部長なのに……ああしょっちゅう、二人でつるんでるんじゃあ、まるで慶祐君の部下だな」
俊英の鼻白んだ言葉に、急に優子が落ち着かない様子を見せる。
「浅田さんは、慶祐さんの友達なのよ。それを、お父さんがいつものやり方で、無理に引き抜いたんじゃないの」
「俊之には有能で信頼の置ける部下がいないんだよ。本当は慶祐君が、片腕になってくれるといいんだがな」
俊英はまた酒を飲み干すと、
「所で、来週の試合の準備はどうだ?」
松浪の方を向く。
家族内の何やら火種になりそうな話題から流れが変わったので、笠井はほっとして鰹のたたきを口にほうり込んだ。
マンションに帰ってしばらくすると、牧之瀬との境の壁が、ドンドンと二回、叩かれた。これは、『これからそっちへ行く』という合図である。笠井は急いで玄関へ走り、扉を開けた。
すぐに牧之瀬が缶ビールを数本、手にして入って来た。
「笠井はバイクで、飲めなかったろ?」
本当は未成年なのだが、まあ大学生ともなれば、許容範囲である。
「遠慮なく!」
マンションの間取りはどこも同じで1LDKだが、笠井はまだ引っ越したばかりで家具も少なく、リビングはガランとしている。二人はフロアクッションに座ると、缶ビールを開けた。
「先輩、来週の試合、出るんですか?」
「うん、シルバーアローでB馬場に」
「え、先輩の馬場は初めて見るなー」
馬術競技には、十数個もの高さや幅が様々の障害物を、経路に従って飛び越えていくという障害飛越競技(ジャンピング)の他に、馬場馬術(ドレッサージュ)がある。駆け足や速足で円や八の字を描くなどの決められた運動を馬に行わせ、その正確さを競うものだ。障害飛越の方が、見た目にも派手なので好まれるのだが、馬場馬術はオリンピックの種目にも入っており、重要な競技だ。
「馬場をやるのは久しぶりだから、練習しなきゃいけないな」
牧之瀬はビールを飲みながら言う。
「先週から、ポリクリが精神科だから、夕方練習しようと思ってる」
牧之瀬は医学部の6年で、今、臨床実習通称ポリクリというカリキュラムを受けている。これは四−五人のグループに分かれ、内科・外科その他、すべての科を数週間ずつ廻り、実際に患者の診察に携わり、臨床の経験を積む、というものだ。
外科では指導教官の元で手術にも入り、当直の業務も経験する。牧之瀬は先週から比較的緊急性の少ない精神科を廻っているので、五時にはフリーになると言う訳だった。
「じゃあ、僕、バイクでクラブまで送りますよ! まだ車、車検から戻って来ないでしょ?」
笠井はヤッターと心の中で叫ぶ。
そりゃもう、牧之瀬が例えバイクに乗るからという理由ではあれ、自分に抱きついてくれる機会はそうそうないのだ。
「時間、とるから、悪いよ」
牧之瀬がちょっと困った顔になったので、笠井は急いで頭を巡らす。
「じゃあ、その代わり、今日みたいに個人教授、して下さい!」
交換条件を持ち出され、牧之瀬は頷くと、ニッコリした。
「じゃあ頼むよ」
秋田出身という色白の頬にはほんのり赤みが差し、くっきりした二重に茶色の瞳は潤んで輝き、この笑顔を独占出来る幸福に、少し酔いの回った笠井の頭はクラクラした。
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