| 火曜日の夕方、さっそく笠井は牧之瀬と一緒に、乗馬クラブを訪れた。
土日の乗馬クラブは盛況で、どの馬もたっぷり営業に駆り出されるので、月曜日は休養日になっている。昨日一日休んだあとの馬たちはすっかり元気を取り戻しているようで、馬場では数頭の馬が調教を受けていた。
ロッカールームで着替えながら、
「すぐ馬装します?」
笠井が尋ねると、牧之瀬は
「ちょっとビデオを見てくから」
と答えた。
「経路を確認しないとね」
馬場競技(ドレッサージュ)は複雑な経路と運動が組み合わされていて、さすがの牧之瀬もしばらくやっていないとおぼつかなくなってしまうのだ。
「じゃあ、俺、先に行ってます」
金色のたてがみの馬を先程、馬場の中に確認していた。ブロンコに違いない。
走って馬場に近づくと、やはりブロンコが調教を受けているのだった。
鞍は乗せず裸のままで、頭絡に縛った長い綱の端を雨宮が持ち、鞭で追っている。雨宮の立っている所を中心に、円を描いて走っているが、コースに幾つもの障害が並べられていた。
今もドラム缶を縦に並べて作った障害を、飛び越える所である。ブロンコは障害を見ると、足を速め、首をわずかに下げて向かって行く。軽々と飛び越し、着地すると、少し速度をゆるめる。
が、次の横木障害を見ると、また駆け足になった。二、三周させると、雨宮は綱を手繰ってブロンコを手元に引き寄せる。ふと笠井が熱心に見ているのに気づいた。
「良く飛ぶでしょう、この子は」
と言う。
「本当ですね、全然、嫌がらないや」
馬は臆病な生き物で、見慣れないものを怖がることが多い。障害物の形が変わっただけで、絶対飛ばないという馬もいる。
「この子はどんな障害にも、自分から向かって行くからね」
雨宮は金色のたてがみに手を入れて漉きながら続ける。そして
「僕はこの子に、大障害を挑戦させたいんだ」
鼻面を撫でながら言った。
「大障害って、サンダーブレイズみたいに?」
「いや、サンダーブレイズもいいけれど、ブロンコは国産馬だから」
笠井がちょっと分からないという顔をしていると、雨宮は唇を少し上げて、うっすらと笑った。
「そうか、君は今年、入ったばかりだものね。あのね、大障害を飛ぶ馬って、外国生まれの馬がほとんどなんだ。やっぱり日本で生まれて日本で育った馬に、活躍してもらいたいだろう?」
「オリンピックでですか?」
笠井の言葉に雨宮は「えっ」という表情になる。
「牧之瀬さんが、雨宮さんはオリンピックにも出られるぐらいだって言ってました。それに松浪さん、オリンピックを目指してるんだって、この間、お祖父さんから聞きました」
「ああ、雄祐が」
ほとんど聞き取れない程の声で、雨宮は呟く。ふいにきつい眼になって笠井を見詰めた。
「すまないが、僕が松浪さんの家に住んでいることは、誰にも言わないでくれ」
大きな黒い眼には、悲しみが漂っているように笠井には感じられ、なんとなくこの青年がプライドを傷つけられて苦しんでいることを理解した。
自分が継ぐ筈だった乗馬クラブが人手に渡り、しかもその新しい持ち主の恩情にすがっている所を、他人に知られたくないのは当然かもしれない。でも、と、笠井は思った。松浪はお情けをかけているという雰囲気ではなかった……むしろ、腫れ物を扱うみたいに、大事にしているように見えた……ということはやっぱり……。
「松浪さんと雨宮さんは、やっぱり仲がいいんですね」
「えっ」
また雨宮は意外そうな声を出した。
「俺も、先輩の隣の部屋に住んでんですけど、気に入らない人だったら、絶対、隣になんか住めないもの」
熱を込めて言う笠井の言葉に、雨宮は戸惑った表情を見せる。
「俺、先輩の隣に住んでて、すごく楽しいから」
雨宮は今度はひどく困ったという顔になる。が、一瞬ののち、小さな笑みを見せた。
「笠井君って……なんて言うのかな、色んな動物が懐くの、当然だね」
独り言のように言う。
「動物ってのはね、こちらが信頼しないと、向こうも信頼しないんだよ……まず、こちらが好きにならないと、向こうは懐いてくれないんだ……」
なんだか悲しそうな声音だったので、笠井は心配になってそばへ寄った。
「雨宮さん?」
「さて、と!」
雨宮は気持ちを切り替えるように大声を出す。
「サンダーブレイズを運動させるか!」
一緒にブロンコの引き綱を持って厩舎へと歩きながら、またあの馬が障害を飛ぶのが見られると、笠井は胸を弾ませる。
「サンダーブレイズって、ほんと、かっこいいですよね! こないだ、松浪さんが乗ってる所、見たけど、すごい馬ですね!」
雨宮はそっけなく「そうかな」と言った。
「馬体はでかくて、大味な馬だよ、あれは。それにあの馬は持ち主に不幸をもたらすという伝説があって、僕はあまり好きじゃないね」
「え?」
笠井は驚いて雨宮の顔を覗き込んだ。
「あの馬は、英国の厩舎から買ったんだけどね、その厩舎は元々、ある地方貴族の持ち物だったんだ」
雨宮は淡々と話し続ける。
「ジョージ五世の頃の話だよ。その厩舎の持ち主の貴族は、狩りが好きだった。黒い馬に乗って、国王の一行を招き狩りに出たところ、道の真ん中で、馬が一歩も進まなくなってしまった。御前で恥をかかされたことを怒って、馬の首をサーベルで打ち落としたんだ。そして何年かたって、その貴族が病気で死ぬ時、城の中を黒い馬が駆け抜けて行くのを、何人もの人が見たんだそうだ。それ以来、その厩舎では、黒い馬は持ち主に必ず不幸をもたらすと、言われているんだよ」
雨宮は暗い笑みを見せた。
「確かに、この馬を買った直後、父は病気になって、クラブを手放したんだからな」
笠井は何やら胸騒ぎを感じた。この前、黒いベンツをサイドミラーに見たことを思い出す。馬の持ち主は、今は松浪なのだ。ということは……。
『何、考えてんだよ、もうー! ぜんぜん非科学的じゃないかよ!』
不吉なことを平気で言う雨宮に、いくら自分の不幸を重ねているとは言え、なんだか腹が立ってくる。
『なんで、そんなこと、言うんだろ……』
黙りこくっている笠井に、雨宮は、
「牧之瀬君は今日はどの馬に乗るの?」
と尋ねる。
「あ、シルバーアロー号に。今度の試合、シルバーアローで馬場に出るって言ってました」
「それじゃあ、馬場用の鞍をつけたらいい」
鞍にも障害用・馬場用と分かれているタイプがある。
「ほら、鞍置き場にあるから、どれでも使っていいよ」
親切な雨宮の言葉に、先程恨みがましい気持ちを抱いたのを、笠井はすぐ反省した。
『やっぱ、雨宮さんはいい人だ』
しかし、雨宮と別れて厩舎の入り口のそばにある鞍置き場に入ると、笠井は迷った。
壁に木の杭が何本も打ち付けられ、その一つ一つに鞍がかけてあるのだが、どれが馬場用か、まだ素人同然の笠井には区別がつかなかった。さらに、会員個人の所有のものも、一緒にかけられている。
『馬場用、とか、持ち主の名前とか、書いてあると思ったのに……』
仕方がないので、牧之瀬に教えてもらおうと、クラブハウスへ向かった。
クラブハウスは二階建てで、一階はロビーと受付である。二階はロッカーとシャワールーム、それに厩務員の当直室に校長室がある。
笠井は階段を駆け上がった。ロッカールームの前まで行くと、何やら押し殺したような声が聞こえる。声は牧之瀬ともう一人、男のものだった。
『え?』
「だから、僕じゃないと言っているでしょう。僕がなぜ、そんなことをしたと思うんですか?」
「君が今、精神科を廻ってるからだ。あそこの外来は、プライバシー保護のため、名前で呼ばないで番号で呼び出しているじゃないか。君なら俊之さんの顔を知っているだろう。それに他に知っている人がいるとは、思えない」
「家を出る時から、尾行していたとしたら、どうなんです?」
言い争いのように、声はどんどん大きくなっていく。
「牧之瀬さん? 先輩?」
笠井は心配になって、外から呼んでみた。声はぴたりと止まり、扉が開いた。
乗馬ズボンに長靴というスタイルの牧之瀬は、
「これから練習なので、失礼します」
言いながら、出てくる。閉まる前にちらりと見えた男の横顔は、松浪の家で出会った浅田のものだった。
「どうしたんですか?」
階段を駆け降りて行く牧之瀬を、笠井は急いでついて行く。
「何でもないよ」
「だって、なんだか、喧嘩してるみたいだったから。何か言われたんですか?」
急に牧之瀬は立ち止まると、こちらに顔を向け、きっぱりと言った。
「ごめん、君には関係のないことなんだ。これ以上は言えない」
蹄跡を速足で移動して行くシルバーアロー号と牧之瀬を遠くで眺めながら、笠井は胸の中でモヤモヤしたものを感じていた。
……そりゃ、自分と牧之瀬は単なるクラブの先輩と後輩だ……関係ないと言われれば、何一つ言い返せない。
ふと、もう一つの馬場に目をやると、夕暮れの中、真っ黒いものが疾走している。黒いジョッパーに黒いジャンパーという黒づくめの雨宮が、サンダーブレイズに騎乗しているのだ。
日が落ちて気温が下がり、風もさっきから強くなっている。
あたりの民家への配慮から土埃を防ぐようにと、馬場の周囲に常緑樹が植えられている。
梢が風にざあざあと音を立て、サンダーブレイズのたてがみが強風になびくのを見ていると、まるでシューベルトの『魔王』のようだ。牧之瀬と自分との間にも、黒い影が降り立ったようで、『不吉な馬』という雨宮の言葉が思い出された。
『そんなこと、ないよな……あの馬が不幸をもたらすなんて……』
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