| 翌日曜日の馬術大会は、好天に恵まれた。
午前中は二つ並んだ馬場の一方で馬場馬術競技が、もう片方で初心者向きの『ジムカーナ』という競技が行われることになっていた。これは言わば馬に乗って行う椅子取りゲームで、観客にも分かりやすく、お楽しみという出し物なのだ。
ジムカーナをやっている馬場の片隅では、近所の子供達へのサービスに、ポニー騎乗が用意されていた。ポニーは他の乗馬クラブからの借り物なのだが、近隣への配慮の一環だった。その他にも、無料ドリンクサービスつきのちらしを多量にまいてあった。
住宅街の中の乗馬クラブは、色々と気を使うのだと松浪は言っていた。
「O-157の時も大変だったよ。うちは特別のゴミ処理施設があるから大丈夫だと、保健所の検査結果をコピーして配ってな」
J医大の馬術部員達は、馬装の手伝いや、試合の準備などを割り当てられていた。
笠井はポニーに引き綱をつけ、子供を乗せて馬場を一周するという役割である。
初めは簡単と喜んでいたが、馬場の砂地を長靴を履いて歩くのは、意外に疲れる。
しかもポニーはたいがい気が荒く、力も強くて、子供を振り落とさないよう、ゆっくり歩かせているとこれがかなり力が要るのだ。
が、眼を輝かせて順番待ちしている子供達の前では、それぐらいは何ほどのこともない。ぐるりと一廻りして降りる時、にっこり笑ってお礼を言う躾の良い子供もいて、笠井は疲れも吹き飛んだ。
結局、午前中は休みが取れなかった。牧之瀬がシルバーアローで競技を行うところも見られず、これにはがっかりした。が、同じ馬術部の新人がそばを通り過ぎた時、つかまえて、
「どうだったんですか、牧之瀬さん?」
と尋ねてみる。
「優勝は逃しちゃったけど、2位になったよ」
「うわっ、ヤッター」
笠井は自分のことのように嬉しくなる。元気良く先に立ってポニーを引き出したので、馬術部員は怪訝な顔になった。多分、引っ張られているポニーも。
合間に笠井が辺りを見ると、競技の間、ずっと、松浪は色々な部署を見回って、的確な指示を出している。確かに実質的なオーナーは松浪だった。
校長はと見ると、審査席の横のVIP席にシルクハットと燕尾服という正装で座っている。周りを取り巻いているのは、一見してハイソサエ
ティと分かる、品の良い人々で、身につけているものも豪華だ。これは校長の工藤の宮内庁時代の知り合いで、旧華族やら、宮家の遠縁の人達だった。乗馬クラブの箔付けにはぴったりで、こういったブランドに弱い近隣の人々は、小声で称賛している。工藤を校長に据えた、松浪の祖父の眼は確かなのだった。
昼の休憩時間になって、多くの見物客たちは一旦、家に帰ったようで、ポニーもお役御免になった。乗馬クラブの会員達や招待客は、駐車場に設営されたテントに入る。バイキング方式の食事が用意されていた。
厩務員やJ医大の馬術部員には、弁当が配られた。これがなかなか豪華なもので、見ると、松浪の父が持っているホテルの名前が入っていた。
木の下で牧之瀬と笠井が弁当を食べていると、松浪がふらりと現れた。もう午後の試合に備え、オリーブグリーンのブレザーに揃いの乗馬ズボンという派手ないで立ちだ。正式な試合では、黒か赤と決まっているのだが、今回は公式競技ではないので、色は自由なのだ。
「あっちで食べないのか?」
牧之瀬が尋ねると、
「うるさいんで、こっちへ逃げて来た」
と顔をしかめた。
「仲人を趣味にしてる、知り合いがいてな。いくら断っても、めげないんだよ」
牧之瀬は
「なんで嫌なんだよ。お前だってそろそろだろ?」
と言う。
「俺は結婚しないの!」
きっぱりした口調に、牧之瀬が
「そうだよね、雄祐は一人じゃ満足出来ないから、結婚なんかしたら、奥さん、かわいそうだもんな」
あいづちを打つ。
「違うって!」
「なに、言ってんだよ。今日だって、取り巻きがすごかったじゃないか」
確かに、着飾った若い女性が4−5人、いつも松浪のあとを追っていたのは、笠井も見ていた。
「ほら、その一人がこっちへくるよ?」
タクシーが一台、クラブハウスの前でハザードランプを点滅させていた。リヤシートから降りた女性が、松浪に手を振りながら向かってくる。
女性は腰までのストレートの茶髪に、流行りの細く描いた眉というメークで、歩けば誰もが振り返るような大きな眼の美人だ。襟刳りの大きく開いた、ピッタリした黒いニットのドレスを着ている。
ドレスは膝下だが、前に深いスリットがあり、歩くたびに太ももがちらちら覗く。くるぶし丈の黒いロンドンブーツも、この場には不似合いの色気だった。
「うわっ、彩りで打ち上げのパーティに呼んだのに、もう来ちまったのか!」
松浪はしまったと舌を出す。
「ゆうすけぇ」
女性は甘い声で、松浪の名を呼ぶ。牧之瀬の箸を持つ手がぴたりと止まった。
「梨香子さんじゃないか! お前、どういうつもりなんだ!」
牧之瀬の声は怒りを含んでいる。
「おい、目立たない所に行った方がいいぞ」
辺りを見回して、松浪に囁く。
「そうだな……校長室に行ってるから、誰かに聞かれたらそう言ってくれ」
梨香子は豊満な胸をゆさゆさと揺らしながら、駆け寄ってくる。
「梨香子、あっち、行こうぜ」
「あらぁ、二人っきりになりたいのォ?」
「そうだよ」
クラブハウスへ向かう二人の後ろ姿に牧之瀬は、
「まったく、もう」
溜め息をつく。
「なんか、まずい人なんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……雄祐の前の彼女ってとこかな」
嫌そうにしていた筈の松浪の手が既に、女性の丸い尻を撫で始めているのを、牧之瀬は見てとって、
「ほんっと、懲りない奴!」
とまた、溜め息をついた。
笠井には今一つ、まだ事情が飲み込めない。が、あまり女性関係のことを詳しく尋ねるのも失礼だと思った。なんと言っても、松浪は牧之瀬の親友で、「君には関係ない」とこの前のように拒絶されることは避けたい。
「俺、弁当箱、捨ててきますよ!」
話に区切りをつけるつもりで、大声を出す。
空になった二人分の弁当箱を、厩舎の外に設置されているゴミ箱へと運んだ。
笠井が真面目にゴミを分別していると、雨宮がバケツをさげて、厩舎の入り口に突っ立っているのに気づいた。クラブハウスへ入って行く、松浪と梨香子に視線が張り付いている。
「どこへ行くんだ」
独り言のように言うのを、笠井は自分への質問ととり、
「校長室だそうです」
と答えてしまう。
ふいに雨宮がこちらを見る。
「校長室……?」
「ええ、二人で話するって言ってましたけど」
カランと音を立ててバケツが転がる。
雨宮が強ばった顔で、クラブハウスへと速足で向かうのを、唖然として見送っていると、
「笠井ー!」
慌てた牧之瀬の声がした。
「雨宮さんになんか、言ったのか?」
走って来て、ハーハーと肩で息をしながら言う。その慌てぶりに、笠井は理由が分からず戸惑った。
「ええ、校長室にいるって言いましたけど……」
「あー、もうッ」
牧之瀬は天を仰ぐ。が、すぐ、
「いや、僕が悪かった……笠井にちゃんと言っときゃ良かった!」
促してクラブハウスへ走りだす。そして、
「あの梨香子さんて、雨宮さんの婚約者だったんだよ」
と言ったので、笠井は度肝を抜かれた。
「だって、松浪さんの……」
「だから、一時は雄祐が梨香子さんを雨宮さんから盗ったって、大変な騒ぎだったんだ」
「うわーッ、俺、大変なこと、しちゃったんだ」
あの雨宮の様子では、まだ梨香子に未練があるのだ。それを自分は、二人の行く先を教えてしまった……雨宮にしてみれば、わざわざ寝取った男の前でイチャつくのを見せつけにやって来たようなものだ。
牧之瀬を追い越し、全速力でクラブハウスに駆け込む。数人の厩務員がたむろしている所を走り抜け、階段をバタバタと上る。
だが、一瞬遅く、雨宮が校長室の扉を開けるのが見えた。
「松浪さん」
低い声で雨宮が中へ呼びかける。追いついて肩越しに扉の中を覗くと、案の定、来客用のソファで、男と女が重なり合っていた。まあ、まだジッパーを降ろしていないだけまし、といった状況で、既にドレスの裾は腰までまくり上がり、胸元もギリギリまで降ろされていた。プリプリの半球が二つ、こぼれ落ちそうになっていて、
『あ、ノーブラだ』
一瞬、呑気なことを笠井は考えた。
「ノックぐらい、したらどう?」
梨香子は慌てる風もなく、裾を降ろし、胸の辺りを整える。そして松浪を睨みつけ、
「もう、こんな所でやろうなんて、言うからよォ」
言い放つと、
「今度はホテルでにしましょうね」
刺激的なモンローウォークで外へ出て行った。後から来た牧之瀬とすれ違ったとみえ、「あらお久しぶり」という声が、階段からした。
「悪いが、いくらこの乗馬クラブがあなたのものとは言え、不品行なことはこの部屋ではしないでもらいたい」
雨宮は冷たく宣言する。部屋へ数歩、歩み入ると、
「この部屋は僕の父も使っていた部屋だから」
松浪はさすがにばつが悪そうで、シャツの裾をズボンに押し込む。ソファに寄りかかって、足を組んだ。
「悪かった」
意外に素直な言葉に、雨宮は戸惑ったが、また低い声で続ける。
「松浪さん、あなたは梨香子と結婚するんですか?」
松浪はふいに顔を横へ逸らした。
「するわけないだろう、あいつはもう別の金持ちの息子と、婚約してるよ」
「だったら、なぜ、あんなことを!」
咎めるような声に、松浪はまた雨宮に視線を戻した。
「ちょっと、旧交を温めてただけさ。それより……」
目を細め、雨宮を睨む。
「啓、お前、まだ梨香子に未練があるのか?」
「だったらどうなんです」
松浪はフンと鼻を鳴らす。
「つくづく、馬鹿な奴だなー。梨香子がお前と婚約したのは、乗馬クラブのオーナーという肩書が、カッコ良かったからだぜ? まあ、それと、見た目かな? 現に経営不振と知った途端に、俺に乗り換えたじゃないか」
牧之瀬が戸口に現れ、必死で黙れと松浪にサインを送る。が、既に松浪の頭にも血が上っていて、もう止められなかった。
「俺が結婚に応じないんで、すぐまた、次のを見つけたけどな。まあ、あいつはサッパリしてるから、あれでいいんだよ」
「違う! 梨香子はそんな女じゃない! あなたが無理やり、盗ったんだ!」
「あーッ、もうッ」
松浪は大きな手を開いて上に伸ばし、お手上げといったジェスチャーを見せる。
「お前は本当に女を知らないな。お前は騙されたんだよ!」
皮肉な笑いを浮かべる。
「俺はお前の眼を覚まさせようと思って、梨香子にコナをかけたのさ。そしたら、あいつはすぐ乗ってきたぜ」
「それは嘘だ!」
「嘘じゃない。すぐその日に、俺たちはホテルへ行ったんだ!」
笠井と牧之瀬は耳を塞ぎたくなったが、殴り合いになる可能性もあり、その場から去る訳にもいかなかった。
「まあ、お前が女を知らないのも無理ないな」
松浪は大声で笑い、ソファから立ち上がって雨宮の前へ行く。
「お前、梨香子が初めてだったんだってな。あいつ、言ってたぞ。それから、俺の方がずっとうまいとも言ったぜ」
雨宮の顔がさっと青ざめた。次の瞬間、
「雄祐、お前は最低だ!」
という声とともに、パシッという音がした。
『うわッ』
当然、松浪も殴り返すのかと思い、笠井は止めに入ろうと身構える。が、松浪はじっと雨宮を見詰めた。
「啓、久しぶりだな、名前を呼んでくれるのは」
片手を頬にやりながら、続ける。
「俺達は名前で呼び合おうって、約束した。俺があなたにあこがれて馬を始めたって、あなたに言った日に、あなたの方から、そう言ってくれたんだ……忘れてないだろう?」
大きく溜め息をつく。
「それなのに……俺がこのクラブを買い取ってから、あなたは俺のことを『松浪さん』と呼ぶようになった。どうしてだよ、啓……あなたは殻を被るようになっちまって、こんなことでもなきゃ、その殻は破れないんだ」
雨宮の顔が今度は真っ赤になる。くるりときびすを返すと、笠井と牧之瀬を押しのけて出て行った。
松浪はまた大きく息を吐くと、ソファにドスンと腰を下ろす。
出て行った雨宮が心配で、チラチラと笠井は戸口を振り返る。
「どうしましょう」
と牧之瀬に尋ねた。
「いや、なまじ、followしない方がいいと思うよ。それより……」
腕を組むと、こわい顔になった。
「お前が断然、悪い!」
言いながら、松浪の前にぐいと出る。
「雨宮さんの言う通り、雄祐は最低だよ! なんだって、わざわざこんな所で見せつけるんだ!」
「俺だって、そんなつもり、なかったんだ」
松浪は少し、しおらしい声を出す。
「あいつの尻を触ってたらな、むらむら来て……それに、試合の前って、いつも興奮してさ、一発抜きたくなるんだよー」
ソファから牧之瀬の顔を見上げる。
「お前も男なら、分かるだろ?」
「分からないね!」
牧之瀬は速攻、否定する。
「俺、ちょっと分かるかも」
笠井はつい、口を出した。
「試験の前とか、緊張して固くなると、あっちもって気がしてくること、ありますよ」
「なーっ、なーっ!」
松浪は身を乗り出して、笠井の手を嬉しそうに取る。
「笠井くーん、友達になろうな?]
「駄目! 笠井を堕落させないでくれ!」
牧之瀬は怒って、二人の手を外させた。
「雄祐、さっさと、試合の支度、しろよ!」
三人が外へ出ると、そろそろ休憩時間が終わって、障害競技の準備に厩務員達が馬場へ向かうところだった。一人をつかまえて、
「啓は?」
松浪が尋ねる。
「さっき、クラブの外へ、車で出て行きましたけど」
頭を冷やしに行ったのだろうと、笠井は思った。話の内容からして、プライドの高い雨宮は耐えられないだろう。
「おい、あとでちゃんと謝るんだぞ!」
牧之瀬の叱責に松浪はおとなしく頷く。
「……わかってるよ」
とにかく、厩務長の雨宮抜きで試合の準備をしなくてはならない。試合は片方の馬場だけを使って、中障害・大障害の順に行われ、障害の高さや飛ぶ経路も違うので、準備はなかなか大変である。
試合の最中も、馬が横木を落下させたり、積み上げた障害を壊したりすると、すぐ飛んで行って直さねばならない。そのため、障害の一つ一つに、係員がつかなくてはならず、人手もいるのだった。
なかなか雨宮が戻ってこないので、松浪も厩務員とともに作業をすることになった。笠井ら新入りの馬術部員は、馬を誘導したり、入場の際、柵をあける埒係を担当した。
試合は順調に行われ、すべての出場者が大きな事故もなく競技を終え、いよいよ最終競技の大障害になった。
障害の一つの水濠を掘るため、数人の厩務員がスコップを持って、馬場へ向かう。
大障害を飛べる力のある馬は少なく、松浪の騎乗するサンダーブレイズにこの乗馬クラブの馬があと三頭、それからよその乗馬クラブから一頭、出場することになっている。
「サンダーブレイズを馬装しなきゃ」
松浪は経路を書いた紙を、牧之瀬に渡す。
「すまないが、この通りに出来てるかどうか、チェックしといてくれ」
急ぎ足で厩舎へ歩きだすので、笠井はあとを追った。
「俺、手伝います。鞍は車ですか?」
「いや、駐車場から遠いんで、鞍置き場に朝、運んどいた」
いつも使っている駐車場にテントを設営したので、離れた所を臨時に借りたのだ。
「俺、取ってきます!」
松浪の特製の鞍なら、笠井にも分かる。
競技を追えた馬や、これからの馬が、忙しく交差する通路を走り、鞍置き場に飛び込むと、ざっと見渡した。
「あれだ!」
上の方にある杭に、真新しい派手な鞍がかかっている。手を伸ばしてそっと降ろした。が、次の瞬間、目を疑った。
「え……ッ?」
騎座部分が鋭利な刃物で、切り裂かれている。
『う……嘘だろ?』
呆然と見ていると、暗い恨みの瘴気が立ちのぼってくるように思え、笠井は唾を飲み込む。背筋から冷たいものがじわりとうなじへ達し、大声を上げそうになった。
「おい!」
いきなり声をかけられ、
「うわッ」
振り向くと松浪が少しイラついた様相で、立っている。
「早く、しろ!」
「……松浪さん……これ」
ぐいと笠井を押しのけ、鞍に手をかけた松浪も絶句した。しばらく拳を握り締めて仁王立ちしていたが、我に返り、
「とにかく準備しなくては」
と言った。
「この際、なんでもいい、鞍をつけよう」
が、ほとんどの鞍が借り出されていて、練習用のボロいのしかない。
「こいつで、いい」
鞍を降ろしている所に、牧之瀬が心配して様子を見に来た。笠井の足元の鞍を見て、
「雄祐!」
やはり衝撃を隠しきれない。ふと、松浪の手にしている鞍を見て、
「それ、婦人用だぜ」
と注意する。
「いい、俺は体重があるからな」
婦人用の騎座には、詰め物がしてあって振動を吸収するようになっている。体重が重い松浪は、馬の腰に負担をかけるので、騎座が厚い方が確かに良かった。が、
「鐙(あぶみ)が小さくないか?」
牧之瀬は再び注意を促す。
松浪は長靴を鐙に入れてみて、
「大丈夫だ、つま先は入る」
と宣言した。
「もう、これでいい、時間がない」 |