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6

 馬場の周りに植えられた木々が、砂地に長い影を落としている。日が低くなって、温度が下がり、観客の声援は途絶えて、空気が重たく感じられる。笠井は埒(らち)のそばで、隣の準備馬場で軽い駆け足運動をしている馬を眺めた。
 大障害ともなると、さすがに障害物の幅も高さも並ではない。乗り手も馬も、極度の集中力を必要とするので、観客も息を殺して試合を見守るのが常なのだ。
 笠井が馬場に視線を戻すと、ちょうど最後のトリプル障害の袖に、雨宮が立っているのが見えた。
 雨宮は最終試合直前に戻って来たのだ。もう松浪はサンダーブレイズに騎乗していて、遠くから雨宮の姿を見つけ、「啓」と呼んだ。笠井が心配になって見ていると、雨宮は近づいて、視線を合わせないまま、「すみませんでした」と謝罪の言葉を口にする。松浪も、
「あとで言うことがある」
 言葉少なに応じ、それきりになった。
 その直後に試合が開始されたが、大障害にエントリーしていた五人の選手はさすがという腕前で、結局、三人が減点ゼロで競技を終えた。
 障害飛越競技は、ノーミスがゼロ点で、障害を嫌って逃げたり直前で停止したりすると減点3、障害を飛び越えても落下させたりすると、落下といって減点4となる。さらにタイムオーバーも減点の対象になる。
 減点ゼロの三人が、同列で決勝(ジャンプオフ)に進むことになった。
 これから、それぞれの障害が、10cmずつ、高くされるのである。最終のトリプルバー障害は、最高180cmになった。
 その手前には、馬が苦手とする水濠に、高さはそれ程でもないが幅のあるレンガ障害がある。決勝に出られなかった2頭は、いずれもここでタイムアウトになっていた。
 最初の競技者は、他所の乗馬クラブからのゲストで、首の太い葦毛の『ソネット』という馬に騎乗していた。輸送で疲れていたとみえ、初回の走行の時も後半スタミナ切れしていたが、決勝では残念ながら第5障害で3回拒止し、失権となった。
 次の騎手はこのクラブの女性会員で、国体で入賞したこともあるというベテランだ。笠井が見ていると、軽い体重を生かし、次々とスムーズに馬を飛越させていく。が、続けて2つ、障害を落下させ、水濠を嫌って横へ逃げた所で、タイムアウトになってしまった。
 落下した障害を直し、審判が白旗を上げる。
 笠井は入り口の埒を開けた。
「松浪さん、頑張って下さい」
「ああ」
 松浪は膝を使って サンダーブレイズを中へと進める。人馬とも、ピリピリした雰囲気が察せられ、笠井は漠然と不安になった。
 ふと、雨宮が暗い眼で松浪を追っているのに気づく。黒い馬の不吉な言い伝えが頭をよぎった。
『バカだな、もうッ、こんな時に……』
 日没が近づくにつれ、風が強くなっていた。いつのまにか、西からむくむくと黒い雲も沸いている。背中がぞくぞくとしきて、笠井はその場で急いで足踏みをした。
 既に障害の高さはどれも150p以上だ。松浪はサンダーブレイズを第1障害へと向ける。走り高跳びのような、横木という高さはあるが幅のない垂直障害で、サンダーブレイズは難無く飛び越えていく。
 次はオクサーという、横木が二本並んだ、幅のある障害だ。続いて、二本の柵の間に、植木がびっしりと並べられた『生け垣』障害を越える。
 黒い大きな馬は、まるで体重を感じさせず、空へ舞い上がる。着地の時、ズンという音がして、一瞬沈黙が破られるが、あとは静かだ。馬場は砂地なので、蹄の音は消え、粗い馬の鼻息と、障害の踏切に合わせ、「ハアッ」という松浪の掛け声が時折、耳に到達するだけだ。
 夕日に汗をかいた黒い馬体が光り、笠井は綺麗だとは思った。だが先程頭をよぎった不吉な考えのせいで単なる美しいというよりも、魔性の美しさを感じて身震いをする。
 レンガ障害の手前でサンダーブレイズが、やや歩みを鈍らせた。が、松浪は脚でぐいと馬体を推す。一瞬、サンダーブレイズは躊躇したようだったが、大きく飛び上がる。踏切のタイミングが少しずれて後肢が障害に触れ、落下はしなかったものの、大きな音が響いた。
 びくりとサンダーブレイズは耳を後ろへ寝かせる。
 その瞬間、強く風が吹いて、水濠にたたえられた水の表面がざっと波立った。
 馬が水濠を避けようとするのを、松浪は今日初めて鞭を使った。右手で鞭を逆手にもち、後ろへ腕を伸ばして腰にピシリと入れる。
 そのまま片手綱で水濠を飛び越える。一気に最後のトリプルバーへ向かった。

 次の瞬間、馬がピタリと止まった。
 右手で手綱を持ち替えようとしていた松浪は、バランスを失って前へ投げ出される。ふわりと男の身体が宙に浮き、笠井は「あっ」と声を上げた。
 バーにぶつかったためか、松浪の被っていたヘルメットが外れて飛ぶ。松浪の身体は障害の上に落ちた。ガラガラという音とともに障害が崩れ、その音で馬が走りだす。
 松浪が引きずられ、障害の根元のコンクリートに当たって、鈍い音がした。そばに立っていた雨宮は、呆然と立ち尽くしているだけだ。
 大きな黒い馬は持ち主を引きずったまま、走りだした。

 笠井が見ると、松浪は鐙(あぶみ)から長靴が抜けず、逆さまに引きずられている。
 笠井は夢中で柵をくぐり、馬場へ飛び込んだ。一瞬、脇を走り抜ける所を、ジャンプして馬の首に抱きつく。太い首に、自分の風に晒されて冷たい頬を押し付けた。
『あったかいね、お前は』
 場違いなことを考えながら、抱えた腕に力を込め、頬を擦り付ける。
『気持ちいいよ、すごく』
 ふいにスピードが落ち、自分の足が地面についた。急いでぶら下がっていた手綱を取ると、もう一度首にしがみついて「ありがとう」と囁いた。
 他の障害についていた厩務員がやって来て、挟まっていた鐙を外し、松浪を立たせる。松浪はさすがに落ち着いていて、笠井に一言、「助かった」と礼を言う。大きく溜め息をついて、
「いやー、最後でちょっとドジったな」
 簡単な感想を漏らしたので、タフな男だと笠井は舌を巻いた。
 トラブルがほんの僅かの間だったので、観客も驚く暇がないといった様子で、あまり動揺もなく、競技の終了を審判が宣言する。他の二人の選手と同様、松浪も落馬による失権だったが、三人の中で一番多く障害をクリアしたということから、優勝に決まった。
 アナウンスがあり、松浪は
「ちぇっ、あんまりかっこよくないな、落馬して優勝なんて」
と落ちたヘルメットを拾いながら言う。その様子を見て牧之瀬が走って来ると、心配そうに
「頭、打たなかったか?」
と尋ねた。
「大丈夫だ、たいしたことない」
 話しながら去って行く二人を、雨宮が血の気のない顔で見つめているのに、笠井は気づいた。
「雨宮さん?」
 声をかけると、
「言ったろ、サンダーブレイズは不幸をもたらすって」
 誰に言うともなく呟く。黙々と青い顔のまま、障害の撤去の作業を始めた。笠井は何も言うことが出来ず、他の厩務員を手伝いに、その場を去った。

 表彰式では、入賞者には記念のメダルと盾が贈られたが、競技参加者にも参加賞が全員に配られた。
 女性にはエルメスのスカーフ、男性には同じくネクタイという大盤振る舞いで、さすが、オーナーが代わったお披露目にふさわしい。全員が満足して、大会は終了した。
 工藤校長とVIPの面々は、オーナーである松浪の祖父がホテルでもてなしの宴を用意しているため、ハイヤーに分乗してクラブから立ち去った。
 あとはクラブハウスでの会員の親睦パーティである。
 J医大の馬術部員達を、「手伝ってくれたお礼に」と松浪が招待する。昼間のバイキングは中華の点心だったが、夜は立食形式ながらも、本格的なフランス料理がクラブハウスのラウンジに用意されていた。
「親父のホテルのレストランに、特別いい料理、出すように頼んであるからさ」
「うわっ、ヤッター!」
 昼の弁当も美味しかったが、無論、笠井には量が足りず、とっくに腹ぺこだった。
 ラウンジは30畳程の広さで、立食用テーブルを真ん中に用意すると、会員と厩務員が揃い、かなりの混雑だ。先程からポツポツと雨が降りだし、当初の予定では、クラブハウスの前にもテーブルや椅子を出して、会場の狭さを補うはずだったのが、残念ながら中止となる。
 しかし裏に屋根付のしゃれた10畳程のテラスがあるので、そちらにも会員達は、御馳走を乗せた皿を持って、繰り出していた。
 試合で賞を取った会員達の周りには人が集まっていて、お互いの健闘を称え合っている。前のオーナーからの会員も多く、雨宮も沢山の人々から声をかけられた。相変わらず松浪は如才なく酒を注いでまわり、そのあとを女性たちが追いかけていて、笠井や牧之瀬が話しかける余地もない。いつものパターンである。
 そのうち笠井は、例の松浪と付き合っていた梨香子という女性に捕まってしまった。
「うーん、つまんなぁい、相手してよォ」
「ま、松浪さん、あっちですよッ」
「変なオヤジたちと、難しい話、してんですもん」
 梨香子は屈託なく笑いかけながら、紫色のドリンクの入ったグラスを手渡す。自分も一つに口をつけながら、
「あなたさぁ、医学生なんでしょォ?」
「え、ええ」
 近くで見ると、たいした美人で、ケロッとした明るさは憎めない。笠井が抱いていた、男二人を手玉に取る悪女といったイメージは泡と消えてしまう。
「わぁ、玉の輿じゃないッ、ねッ、あたしと遊びましょ?」
「だっ、駄目ですよッ」
 つい、胸の深い谷間に眼が行き、笠井は『いかん、いかん』と自制する。
『俺が好きなのは、牧之瀬さんなんだから!』
 冷たい物をと思って、手渡されたグラスを飲み干すと、これがバイオレットフィズで、頭がクラクラしてきた。
 梨香子は会場が混んでいることを理由に、グイグイと身体を押し付ける。薄いニットのドレス一枚では、ほとんど生肌といった感触で、真面目で馬一筋の雨宮が陥落したのも無理ないと、笠井は思った。
「だっ、大体、あなたは婚約してらっしゃるじゃないですかッ」
 梨香子はぷっと吹き出す。
「やあねぇ、お堅いんだからぁ」
 くりっとした大きな眼で、いたずらっぽくウィンクする。
「分かってないわねぇ、女ってのは綺麗なものや楽しいことで、周り中をいっぱいにしときたいのよォ?」
「うーん……」
 七つ年上の姉のことを思い出す。しょっちゅう通販で洋服を買っていて、笠井が
「こないだ買ったのと、そっくりじゃないか」
と非難すると、
「分かってないわねえ、ほら、襟とここが違うじゃないの!」
 などと言い返してきたものだっけ……なんとなく梨香子の気持ちが分かったような気がした。
 だからといって、お付き合いに応じる気はない。
「あ、雨宮さん!」
 火種になるとも知らず、ちょうど通りがかった雨宮に梨香子を押し付けると、スタコラその場を逃げ出した。
 たっぷりビールを飲んだあと、さっき一気飲みしたバイオレットフィズが効いてきて、しだいに瞼が重くなる。酒は好きなのだが、飲むと寝てしまうタイプなのだ。パーティはまだ始まったばかりで、
『ちょっと一眠り、しよう』
 そっとクラブハウスを出ると、厩舎へ向かう。
 扉を少し開け、中へ身体を滑り込ませた。甘い干し草の香りが漂っている。笠井は胸一杯に、空気を吸い込んだ。
『やっぱ、香水より、こっちのがいいや』
 ラウンジは煙草に香水の香りがきつく、むせ返るほどだったのだ。
 すでに通路の明かりは消され、壁の所々についている非常用の常夜灯のみで、薄暗い。馬たちは今日の試合で皆疲れていて、いつもなら鼻を鳴らしたり、蹄で床を蹴ったりしているのだが、しんと静まりかえっている。
 ほとんどの馬は立って眠っているのだが、ブロンコの馬房を覗くと、藁の山の中に居心地良さそうに足を折り畳んで座っている。
「ちょっと失礼」
 柵をくぐって入り、ブロンコの胸元に身体を横たえた。ブロンコは嬉しそうに鼻面を押し付けてくる。たてがみを撫でながら、
「ちょっと、寝かせてくれよな」
 首を抱くと、一緒に藁の中に潜り込んだ。
『あったか……』