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7

 松浪は、昼間あまり声をかけられなかった会員を選んでそばに行き、グラスを片手に話しかけていた。
 大学の馬術部時代に会得した、気配り精神という奴である。
 無論、どの会員も、松浪が実質的なオーナーということは理解している。話しかけた人々全員に、潰れそうだったクラブの立て直しに成功したことを称賛され、松浪は少し肩の荷が降りたと思った。
 このクラブは雨宮の父が大切に育て上げ、息子へ引き継ごうと情熱を注いでいたのは知っていた。
『これで啓も、喜んでくれるだろう』
 雨宮はと見ると、昔からの会員と歓談している。
「良かったな、馬が続けられて」
「試合にこれからも、出るんだろう?」
 曖味に返事をするのが分かり、松浪は心の中で歯軋りをした。
『どうして、うんって、言わないんだ!』
 何度、公式試合にエントリーするよう勧めても、雨宮は承諾しないのだ。
 松浪に生活費から、父親の入院費まで総てを賄ってもらっていることが、彼のプライドを傷つけ、かたくなにさせていることは分かっている。
 が、それとこれとは別だと、松浪は口をすっぱくして言っているのだが、雨宮の固く閉ざされた心はますます、貝の殻のように、口を閉じてしまうのだった。
「僕はもう、そんな身分じゃないですから」
と言う雨宮の言葉で、いつも議論は終わりになっていた。
『今日だって、お祭りなんだから一緒に出ようと言ったのに……』
 誰か、親しい会員に説得するよう、頼んでみてもいいかも知れない。
 思いついて、見回すと、中年の男がひどく親しげに雨宮と話をしているのが見えた。
 片隅に雨宮を連れて行き、顔を寄せて喋っている。雨宮の父の友人で、貿易会社を経営している男だ。熱心な会員の一人で、自馬もこのクラブに預けているが、それもイギリスの有名な厩舎からわざわざ買った馬だった。
『なに、話してんだよ』
 気になったが、取り巻きのせいで話題が途切れず、近づけない。そのうち、人込みにまぎれてしまった。
『どこ、行ったんだよ!』
 あたりを頭一つ高い背で睥睨していると、
「雄祐君」
と肩を叩かれた。長沢という父親の知り合いで、証券会社の役員である。
「お父さんはみえなかったようだね」
「ええ、今、忙しいし、子供の遊びには付き合えないって、いつも言ってますからね」
「そうだろうな」
 何やら奥歯に物の挟まった言い方で、松浪は怪訝に思った。
「お祖父さんは元気かね?」
「あの年代で生き残ってるのは、元気なのばかりですよ」
「その通りだ」
 長沢は大笑いし、煙草を取り出すと火を点ける。深々と吸い込むと、松浪の肩を叩いた。
「しかし、君は経営の才能があるよ。こんなボロクラブを立て直したんだからな。いい跡継ぎがいて、お祖父さんも安泰だろう」
 多くの人々が松浪のことを、クラブ経営はほんの趣味でやっており、いずれは父や叔父の跡を継ぐものと思っているのである。訂正するのも面倒なので、松浪は勝手に思わせておくことにしていた。
「君、このところの株価はどう思うかね」
「さあ、下がってんじゃないですか、不景気だから」
 全く興味のない話題であったが、適当に返事をしておく。
 長沢は含み笑いしながら、
「松浪デパートの株価が随分下がっているんだが」
と小声で言う。
「叔父さんに代わって、君のお父さんが社長になるというあの噂は、本当かね?」
「はぁ?」
 どこからそんなデマが飛んだのだろうと、松浪はあんぐりと口を開けた。
「長沢さん、親父の気性は知ってるでしょう? 今だって、あのグループから抜けたがってるのに、そんな訳、ないでしょう」
「そうかね、手駒の浅田君を、叔父さんの所に潜入させたのは、その布石じゃないかともっぱらの評判だよ?」
 確かに、四月から父の秘書室長だった浅田宗一は、デパート部門の総務部長に抜擢されていた。この人事には、皆が驚いたものである。しかし、これは祖父の強引な引き抜きだったのだ。
「それは、嘘です」
 松浪は断言する。
「そうか、やはり株主総会を睨んでの、デマかなこりゃ」
 長沢は考え込む。
「とにかく、俺から情報を得たら、インサイダー取引になっちゃいますよ」
 冗談めかしてそう言うと、松浪は長沢から離れた。
 だが、頭は忙しく回転始める。
 経済学部を卒業したのだから、経営や株価のことくらいは知っている。株主総会が間近にあることも知っていた。
『株価を人為的に下げて、総会で一悶着起こそうとしてる奴がいるってことか?』
 松浪は手に持っていたオンザロックを飲み干した。
『いったい、叔父貴はどうなんってるんだ?』
 このところ、叔父の俊之の顔色がひどく悪く、いつもぼんやりしているのには気づいていた。元々、自分の知っている俊之は、活発で外交的な母と正反対で、繊細で優しく、美術品をこよなく愛するディレッタントなのだった。小さい頃、美術館で何時間も一人で過ごしている叔父を見て、館長だと信じていた時もあった。
『会社経営なんて、叔父貴のタイプじゃないもんな』
『爺さんの言う通り、俺って叔父さん似なのかな』
 自分には何故か才能があって、乗馬クラブの経営も軌道に乗ったが、それは好きな馬のことだからだ。経営者はリストラしたり、査定をしたり、あまり楽しくないこともしなければならない。それも皆、
『啓の為なんだ』
 この乗馬クラブが無くなったら、雨宮は自分のそばからいなくなってしまう。だからそうならない為には、どんな大変なことでも我慢できるのだ。
 ふと、雨宮が梨香子と何か話しているのが見えた。
『なんだよ、あいつ! まだ梨香子に未練があるのか? あんなにきっぱり言ってやったのに!』
 胸がむかついてきて、そばのグラスを取り、煽る。さっきから頭の芯に鈍い痛みが生まれていたが、かまわずもう一杯飲み干した。
「啓!」
 声を出す前に、雨宮は梨香子の前から離れ、クラブハウスの外へと出て行く。
「梨香子!」
 松浪は大股に梨香子へと歩み寄り、
「今、何、話してた?」
 睨んだ。
「別にィ、啓ったら、雄祐と結婚するのかって聞くから、ううんって答えたのよ。そしたら、どっか、行っちゃった。それより……」
 梨香子は甘え声を出して擦り寄る。
「ねぇー、これからどっか、行って遊ばない?」
「悪いが、そんな時間、ないよ」
「ひっどォい、わざわざ、デート、取りやめて来たげたのにィ」
 大きな眼で上目使いに松浪を見詰め、水蜜桃そっくりの柔らかそうな白い胸を、ぷるるんと震わせる。この攻撃には、いつも松浪は弱かった。
「はいはい、分かった分かった」
 急いでジャケットの内ポケットに入れておいた包みを梨香子の手に押し付ける。
「ほら、エルメスのスカーフにネクタイだ、婚約者にプレゼントしてあげなさい」
「あらぁ、嬉しい」
「その代わり、もう少し、爺さんどもの話し相手、してやってくれよ。梨香子みたいな美人がそばに来ると、みんな喜ぶからな」
「いいわよォ」
 梨香子は猫のようにすりりと松浪に身体を押し付けると、人込みの中へ入って行く。いつもつけている濃厚なシャネルの香りと、柔らかな肌の感触が残り、
『うわっ、いかん』
 さっき抜き損なったためか、何やらムラムラしたものが頭をもたげる。
『俺って、ほんと、懲りない……アルコールが回ってきたのかな』
 鈍痛のする頭を両手で押さえ、パーティ客の間を擦り抜けて戸口へ向かう。
「松浪君」
 腕を掴まれ、振り向くと、さっき雨宮と話し込んでいた山岡という男だった。
「今、啓君に聞いたら、雨宮さん、だいぶ良いそうだね」
「ええ、まあ」
 言語障害は少し残っているものの、歩行器を使って歩けるようになったと、松浪も聞いていた。
「それでね、そろそろ啓君も自分のことを考えてもいいんじゃないかな。だから、松浪君からも、勧めて欲しいんだ」
「何をです?」
 山岡は上機嫌で笑いかける。
「ほら、啓君は、イギリス留学を中断してしまったろ? 実はうちのロンドン支店に名目上の社員として採用して、留学を続けさせてあげようかと思ってるんだよ」
「え?」
 松浪の顔が怒りに歪んだのに気づかず、話し続ける。
「啓君のお父さんには、うちもだいぶ、世話になったしね。やはり、オリンピックを目指すには、本場に留学しなくちゃな。そうすれば、お父さんも喜ぶと思うし……どうかな、君もぜひ勧めてくれないかな? 君の口添えがあれば、彼もきっとうんというと思うのだが……」
 終わりまで聞かず、「失礼」と遮り、松浪は外へ出た。
 激しい怒りが込み上げてくる。
『啓の奴……イギリスへ行くつもりなのか……』
『俺から、離れるつもりなのか?』
 松浪は小雨の中を、厩舎へ走った。
 入り口が少し開いており、中へ上半身をねじ込む。
 所々に点いている常夜灯が、馬の大きな影を壁や通路に投げかけている。馬たちはゆっくりと体を揺らし、それに連れて大きな影も揺れ、まるで影絵を見ているようだ。
「啓」
 呼びかけて中へ入る。
 時折、馬が鼻を鳴らす音と、体重を移動するたびにおこる、カツカツという蹄の音しか、聞こえない。
「啓、いるんだろ?」
 呼ばわりながら進むと、雨宮がサンダーブレイズの馬房の前に立っているのが見えた。サンダーブレイズは雨宮に首を差し伸べ、雨宮も慕わしげに太い首を摩っている。
「啓、どうしたんだ」
 松浪が近づくと、雨宮はこちらへ暗い眼を向けた。
「なんでもありません、見回っていただけです」
 言いながら、身を屈めて馬房に入った。
「ちょっと、サンダーブレイズの足が心配になって。さっきの最終障害で、痛めてやしないかと思ったんです」
 雨宮は跪き、後肢の腱に指をそっと這わせている。
 俯くと、髪を縛っているせいで、うなじから首筋にかけて丸見えになる。細い首に小さな顎、きゅっと結んだ唇、真剣に馬の足を見詰める瞳は愁いを含んでいるようで、見ていると松浪は胸の中がカッと熱くなってきた。
「啓、お前、イギリスへ行くのか?」
 否定して欲しい、そういった願いを込めて松浪は疑問を口にする。
「え? ああ……」
 雨宮は微かに頷く。
「そんなことも言われたけど……」
「お前、行きたいのか?」
「だったら、どうだっていうんです?」
 雨宮は急に反抗的な口ぶりになった。
 松浪はびくりと身体を震わせる。
「啓、俺のそばにいるのは嫌なのか?」
 低い声で問いかける。
「どうなんだ、啓」
 真剣な顔付きで自分を見据える松浪に、雨宮は苦しくなって思わず大声を出した。
「そうだよ! もう僕はあなたのそばにはいたくないんだ!」
 言葉は堰を切ったように、溢れ出す。
「ああそうだ、もう一分一秒だって、嫌なんだ!」
 ずっと今まで隠していた思いを叩きつける。
「もう、これ以上、我慢できない!」
「我慢……できないって……どういう意味だ?」
 激しい言葉に、松浪は驚いて身を引く。今まで、雨宮が自分に感情的な所を見せたことは無かった。
「あなたは、僕からすべてを奪ったからだ!」
「奪った? すべてを?」
 そんな眼で自分をこの男は見ていたのか……頭の中がずきずきして、破裂しそうだ……松浪はこぶしを握り締める。ぐいと一歩、馬房に近づいた。
「そうだ、この乗馬クラブだって……梨香子だって」
「梨香子?」
 雨宮の声がひどく苦しげに聞こえ、松浪は腹の底に冷たい怒りを感じた。
「お前、梨香子がまだ好きなのか?」
「ああ、そうだ」
「嘘をつけ!」
 松浪は叫ぶ。
「お前があいつを愛してるなんて、嘘だ! 本当に愛してたら、どんなことをしてでも、手放さない筈だ! それをお前は、俺が梨香子と寝たと知ったら、さっさと身を引いたじゃないか!」
「それは……」
 雨宮は唇を噛む。
「僕はあの時、借金を背負ってたからだ……雄祐との方が、幸せになれると思って」
「大嘘だ!」
 松浪は身を屈め、馬房に入る。近づいて、火のような眼で見下ろした。
「本当に愛していたら……どんなことをしても、自分のそばに置いておきたいと思うんだ!」
 雨宮の肩を、大きな手で鷲掴みにする。
「啓!お前をイギリスなんかに行かせない!」

 おが屑の敷かれた床に頭を打ち付け、雨宮は一瞬意識が遠のいた。
 何が起こっているのか判らない。
 ぼんやりとした視界に魔物のような巨大な黒い影が踊り、それがサンダーブレイズの馬体だと理解した瞬間、雨宮の身体から総ての力が抜けていった。