| 厩舎に漂う甘い干し草の香りと、暖かな和毛に誘われ、馬房の中で馬の首に頭を預け、笠井良は楽しい夢を見ていた。
何度も見た内容なのだが、お気に入りのビデオを繰り返し見るようで、夢とは知りつつもひどく幸せな気分になっている。
『牧之瀬さん……』
それは先輩の牧之瀬拓実に初めて遇った日から、馬術部に入部して一緒に練習をするようになった今日までの、ダイジェスト版のような夢なのだった。
新入生の勧誘のため、黒と白の颯爽とした乗馬服でグラウンドに立っていた牧之瀬。真っ白いシルバーアロー号で、次々に障害を飛越していく牧之瀬。厩舎の片隅で、俯いて熱心に馬の足を摩っている牧之瀬。
どの姿も笠井の心を捉えて離さない。
美しい顔と格好の良さに初めは惹かれたが、クラブ活動にも学業にも熱心に取り組むいささか堅苦しい性格の一方、動物に対する暖かな心も備えていて、それが自身も動物好きな笠井の心を惹きつけた。
「君、馬が好きなの?」
牧之瀬に初めてかけられた言葉だ。忘れるはずもない。そして、
『牧之瀬さんも覚えていてくれた……』
いつだったか、「先輩、初めて遇った時、僕になんて言ったか、覚えてます?」と尋ねた。
「ああ、覚えてるよ。『馬が好きなの?』って言ったんだ」
ほんの一月ほど前のことなのだから、覚えていても当たり前かも知れない。それでも笠井は特別に嬉しく感じた。
『いつかあの人と……』
どうなりたい、という具体的なことはまだ思いつかないほど、淡い恋心であったが、
『せめて一緒に試合に出たい』
『そうだよ! せめて……同じチームの一員として試合に……』
それすらも初心者の自分には遠い目標だが、まだ実現可能かも知れないと、笠井は思っていた。
それにしてもこの夢は何度見ても見飽きることがない。
『もっと、もっと……ずっと見ていたい……』
そう念じながら、笠井は牧之瀬の美しい顔を瞼の裏側に浮かべていた。
蹄の音と馬房の壁に何かが当たる音で、笠井は眼が覚めた。
ぼんやりとした視界に、ブロンコの茶色いつぶらな瞳が飛び込んでくる。
『あ、そうか、寝てたんだ』
ごそごそと身体についた藁をはたきながら、四つ這いのままで馬房の柵の所まで行く。
奥の方で、物音がしている。争っているような人声も聞こえた。
『あれ? なんだ?』
首を突き出すと、ちょうどサンダーブレイズの馬房が覗ける位置だった。
サンダーブレイズは不穏な雰囲気で首を上下に振り、広い馬房の隅に馬体を寄せている。
厚く敷かれたおが屑の上に人影が見えた。
『え?』
次第に眼が慣れて来た笠井は、とんでもないことが起きているのだと悟った。
『え、ええッ、ど、どうしたらッ』
始めは喘ぐ声と、覆い被さっている松浪の身体から、雨宮が殴られているのかと思った。が、いくら童貞とはいえ、エッチビデオぐらいは見ている。その喘ぎ声が、どんな種類のものかはすぐ分かった。
雨宮は後ろ手にベルトで縛られており、ズボンは下着ごと膝まで引き下ろされている。頭はおが屑に押し付けられて、横に向けられた顔は苦しそうに歪んでいた。両膝を床につけ、くの字の状態に腰を持ち上げていて、その高く掲げた剥き出しの腰に、松浪が自分の欲望を後ろから叩きつけているのだった。
『いったい全体ッ、なんでまたッ』
これが、女の子がレイプされていたのなら、笠井も飛び出して行ったろう。だが相手は男で……しかも、ことは既に起きてしまっているのだ。
『雨宮さんと松浪さんが……』
もうこれは、見なかったことにするしかなかった。
そろそろと四つ這いのまま、バックして、ブロンコの元へ戻る。
『まっずいな……早く終わってくれよーッ』
ところが松浪の精力は抜群なのか、喘ぎ声はなかなか収まらない。
『ひゃーッ』
ブロンコの首筋に顔を埋める。そのうち却って神経が研ぎ澄まされ、荒々しい松浪の喘ぎと身体のぶつかり合う鈍い音の中から、雨宮の声が聞き分けられるようになった。
「あッ……あッ、うんッ……ッ、んんッ」
松浪の「啓ッ、ううッ」という太い押し殺した声と入り交じり、妙に色っぽく響く。
『うっわーッ、まずいッ』
何やら自分もムズムズして来たので、笠井は急いで耳を塞いだ。
欲望を吐き尽くすと、松浪は雨宮の体内から自分のモノを引き抜いた。
「あッ……ハアッ」
雨宮は大きく溜めていた息を吐いた。高く上げていた腰がくたくたと崩れ、松浪の足元に上を向いて横たわる。細い腰と白い下腹部が剥き出しになった。
粗く上下する胸と、反対にぴくりとも動かない下半身は、残酷な猟師に狩られた獲物のようだ。
その痛々しさに、松浪は現実を取り戻す。
「大丈夫か」
問いかけに答えず、雨宮は頬を紅潮させ、ぎゅっと眼を瞑っている。
松浪は抱え起こし、おが屑にまみれた顔をそっと払ってやった。
「すまん」
その一言に、雨宮はぱっと瞼を開き、松浪を睨む。松浪の手を振り払うと、手の届かない所まで腰を引いた。がくがくと震えながらも、下着とズボンをさっと引き上げ、
「松浪さん」
しっかりとした声で言った。
「どうせ僕はこのクラブと同じ、あなたの持ち物のようなものだ。僕に何をしようと、あなたの自由だから」
呆然と見詰めたままの松浪に、追い打ちをかけるように言い渡す。
「好きにしたらいいでしょう。こんな身体で良ければ、いつでも使ったらいい」
雨宮はズボンのおが屑を振り落とすと、毅然として立ち上がり、膝をついたままの松浪を冷たい眼で見下ろす。
「ちょうど部屋も隣なんだから、いつでもどうぞ。女を漁りに行く暇がない時はいつでも代わりにすればいいでしょう」
「違う、違うんだ、啓!」
松浪は真っ青になった。
「そんなつもりで……俺は……」
言いかける松浪に背を向けると、よろよろとした足取りで去って行く。
「啓!」
呼んだが、振り向かない。
『なんてこった、俺は……』
松浪はズキズキと痛む頭を抱え、馬房から這い出るとその場にしゃがみこむ。脱ぎ捨てたジャケットを探って、内ポケットからウィスキーの小瓶を取り出した。
人声が途絶え、足音が去って行くので、笠井はそっと顔を上げた。
辺りはしんと静まり返って、
『もう、いなくなったかな?』
馬房から首を出し、様子を窺う。瞬間、しゃがんでいる松浪と眼が合ってしまった。
『あッ』
急いで首を引っ込めようと思ったが、もう遅い。
松浪は一瞬驚いたという顔になったが、
「見たんだろう」
と低い声で言った。
今さら、知らぬ振りはできない。首を縦に振る。
「こっちへ来いよ」
松浪は立ち上がり、となりの装蹄場へ入ると、道具箱の上に座り、人差し指をくいくいと曲げる。
笠井は藁くずを払いながら、そばへ寄った。松浪はウィスキーの小瓶を笠井に見せる。
「飲むか?」
笠井は急いで手を横に振る。
「俺、酒飲むと、寝ちゃうんで……で、あそこで寝てたんです」
「そうか」
松浪はぐびりと一口、飲むと、大きく息を吐く。
「見てたんだろ、あれ」
小さく言った。
「はい」
笠井が腰を下ろし、横目で窺うと、松浪は焦燥しきった顔で、視線は遠くを彷徨っている。唇の色もひどく悪く、脂汗をかいていた。
先程の行為で雨宮は無論傷ついたが、松浪の心も深く傷ついているのだと、笠井は理解する。
沈黙がしばらく続いて、笠井は言うべきかどうかと悩んでいたが、ついに口を開いた。
「松浪さん……松浪さんは、雨宮さんのことが好きなんですね」
松浪は驚いて顔を上げたが、また俯く。両手を組んで、膝の間に挟み、
「その通り」
と答えた。
「でも……」
笠井は、また迷ったが、言ってしまう。
「やっぱり、松浪さんは最低です」
松浪はふいと顔を上げたが、すぐまた下を向き、
「その通りだ」
と低い声で呟く。
「俺は……あんなこと、するつもり、なかった」
一言一言、苦しそうに口から吐き出す。
「俺は、あいつを見てるだけで良かったんだ。初めて見た時……あいつは、白い馬に乗って、馬場馬術(ドレッサージュ)の練習をしていて……すごく綺麗だった……」
その気持ちが分かると笠井は頷く。自分だって、牧之瀬に初めて会った時から憧れているのだから、きっと松浪もそうだったに違いない。
「そのうち、見てるだけじゃ、満足できなくなって……そばにいたくなった……乗馬をやるようになって、もっと好きになって」
『それで、T大を受けるの、やめたんだ!』
牧之瀬が、突然松浪が高校三年の夏に進路を変更したと言ったことを思い出す。いつもたくさんの女性を引き連れて恋に長けていると思われているこの男は、意外に純情なのかもしれないと笠井は驚いた。
「このクラブを買ったのだって、啓にここで馬を続けてもらいたかったからだ」
松浪は誰に言うともなく、話し続ける。
「啓を自分のものにするなんて、とても無理だと思ってたから……そんなこと、考えたこともなかったよ。だから、せめてライバルになりたかった……」
松浪はふっと苦い笑いを漏らす。
「だってそうすりゃ、少しは俺のこと、意識してもらえるって。俺の望みはそれだけだったんだよ……一緒に試合に出て……二人で決勝(ジャンプオフ)に残るって」
大きく息を吐き出した。
「でも、もうそれも駄目になった……あんなことをしたから、啓は一生、俺を憎むよ」
笠井も胸が苦しくなってきた。
確かに、誰だってあんなひどいことをされたら、一生許さないかもしれない。でも松浪は、好きだからこそ暴走しちゃったのだ。やったことはサイテーで、情状酌量の余地はないけれど、ちょっとだけ気持ちは分かると思った。
自分だって、牧之瀬の何げない仕草にムラムラときちゃうことがあるのだから。
「君って、なんか、変だよな」
まるで脈絡のない松浪の言葉に、笠井は「へ?」とすっとんきょうな声を出す。
「あ、いや……こんなこと、誰にも言ったこと、なかった……牧之瀬にだってさ、なんか、君って、色々聞いてくれそうってのかな、信頼できるんだな、君ってさ」
「そ、そうですか?」
信頼してくれるのは嬉しい。何か、自分に出来るようなことはないだろうか……笠井は必死でアイディアを捻り出す。
「松浪さん……」
遠慮がちに言ってみる。
「そりゃ、雨宮さんは怒ってると思います……けど、ご自分の気持ちを、ちゃんと伝えたらどうですか?」
「え?」
松浪は顔をこちらへ向ける。
「気持ちって?」
「雨宮さんを心から愛してるってことをです」
松浪が頬を赤らめたので、笠井は、
『松浪さんって、結構、純情なんだー』
ちょっと呑気なことを考えてしまう。
「だって、いじめようと思ってしたんじゃないんだから、ほんとに愛してて、どうしても欲しかったんだって、ちゃんと言えば……」
「許してくれるかな?」
期待に満ちた顔をする。それはちょっと虫が良すぎると思ったが、おぼっちゃまの所以だろうと笠井は良く解釈してやる。なにもここで追い打ちをかけることはないので、
「きっと許してくれますよ」
と言った。だが松浪はまた俯く。
「いや……駄目だよ……あいつはプライドが高い男だもの」
「俺からも、言ってあげますから!」
どうも笠井も人がかなり良いのである。すっかり、自分と牧之瀬にシンクロして考えて始めていた。二人にはうまくいって欲しいのだ。少なくとも、
『雨宮さんだって、単なる暴力を奮われただけって思ってるんじゃ、あんまりだもんな』
「傷つけようとしたんじゃないって、説明すれば……」
「そうか?」
松浪は嬉しそうに顔を上げた。
「じゃあ、今すぐ行こうぜ」
「ちょ、ちょっと待って下さいよー」
立ち上がりかけた松浪を制する。
「二、三日、間をあけてからにしましょうよ、今は向こうもひどく傷ついて怒ってると思いますよ……あんなことされて、すぐには……」
「ウワッ、頭、痛え」
松浪は頭を抱えた。
「そうだよな」
急いでウィスキーを一口、飲む。
「俺、しばらく向こうに行かない方がいいな。もう少し、ここにいるから」
ふいに真剣な眼になって、
「頼む、今のこと、誰にも内緒にしてくれ」
と言った。
「いいですよ」
「男の約束だぞ、牧之瀬にもな」
顔を顰めながらウィスキーを飲み続ける松浪を残し、笠井はその場を後にした。
クラブハウスに戻ると、雨宮は牧之瀬と話をしていた。違うタイプの美形が二人、並んでいるのはなかなか人目を引く。
雨宮は今日のドレッサージの注意点を熱心に説明しているようだ。動揺の見えないその姿を見て、口も利けないほどショックを受けたわけではないのだと、笠井は少し安心した。
いつも口数の少ない雨宮は、馬術のことになると情熱的になる。浅黒い肌、太い眉に黒々とした大きな眼の雨宮と、色白で茶色の髪に繊細な美貎の牧之瀬は、正反対のタイプで、
『うーん、でも俺の好みは、やっぱ、牧之瀬さんだよな』
呑気なことを考えながらそっと脇を擦り抜け、まだ沢山残っている料理を片付けにかかった。
やがて楽しいパーティも終わりに近づく。
夜も遅くなって、会員達も帰路につき始める。会場ががらんとなった頃、牧之瀬が
「そろそろ僕達も失礼しようか」
と、笠井を探して現れた。
「もう他の部員も帰ったし……」
「あれ、そうですか?」
笠井が旺盛な食欲を満たしている間に、副部長も他の新人も、とうに引き上げていた。
「雄祐は?」
「あれ、いないんですか?」
見回すと、確かにいない。
ラウンジは閑散として雨宮の姿も見えない。
「雨宮さんは?」
「ロッカーへ着替えに行ったよ」
ジーンズにいつもの黒い革ジャンを羽織り、雨宮が階段を降りて来た。
「雄祐、上にいる? 僕達、帰るんだけど」
「いいえ、いらっしゃいませんでしたよ」
雨宮は目を伏せ、淡々と答える。
笠井は『もしかしたら、まだ厩舎かも』と思いつく。
「さっき、厩舎で酒を飲むって言ってましたよ?」
雨宮に暴行現場を自分が見ていたと知られたくない。少し、話を変えて牧之瀬に言った。
「なんだよ、あいつ。責任者のくせに」
牧之瀬はプリプリしながら、笠井を促して、クラブハウスを出た。
馬場の照明も消され、もう辺りは真っ暗だ。雨は上がっていたが、道はぬかるんでいる。滑らないようにと、二人はゆっくり厩舎へ向かった。
厩舎に着くと、牧之瀬は「雄祐ー」と呼びながら、中へ入った。
「おい、どこにいるんだよー」
「松浪さーん」
二手に分かれると、笠井は探しながらサンダーブレイズの馬房の前まで行った。だが松浪の姿は見えない。
『やっぱ、ここじゃないんだ』
ふと、冷たい風が頬を撫でる。
『あれ?』
突き当たりの扉の閂が外れて、少し透き間が開いている。
『夜はちゃんと、閉める筈なのに……』
ちゃんと閂を渡し、暗がりをそっと戻ろうとすると、サンダーブレイズが急に馬体を揺らし、いななき始める。
「ど、どうしたんだよ」
笠井は急いでそばへ寄り、頭絡を掴んだ。
「どうどう、大丈夫だよ、俺だってば!」
サンダーブレイズの興奮が収まらないので、牧之瀬も不審に思い、駆けつけた。
「どうしたんだ、笠井」
「わかんないです、いきなり騒ぎだして」
「もしかしたら、蛇でも馬房に入り込んでるのかな?」
厩舎には飼料などの餌が豊富なので、ねずみが多い。時にそのねずみを食べようと、蛇が入ってくることがあるのだ。
牧之瀬は近くの電灯のスイッチを入れる。その途端、
「雄祐!」
と叫んだ。
「え、え?」
笠井が牧之瀬の視線を辿ると、隣の装蹄場に松浪が横たわっている。何かにつまづいて倒れたような姿勢で、手足は不自然に折れ曲がっている。俯せで顔は向こうを向いていた。
「雄祐!」
「松浪さん!」
二人でそばへ行くと、いびきのような深い息が聞こえた。
「なんだ、酔っ払って眠ってたのかー」
笠井はほっと安堵の息を漏らした。だが牧之瀬は真剣な表情でそばにひざまづくと、そっと身体を仰向けにする。そして瞼を押し開け、覗き込んだ。
「瞳孔不同がある。笠井、救急車だ」
声は震えていたが、しっかりとした口調で牧之瀬は宣言する。
「どうもおかしい。倒れた時、頭を打ったかもしれない」
「え、ええーッ」
「僕はここについているから、すぐ、クラブハウスへ行って、雨宮さんに話すんだ!」
クラブハウスへ全力疾走しながら、笠井の頭の中は色々な想いでぐちゃぐちゃだった。
一番考えられるのは、酔っ払って転んで頭を打ったということだが……もし、誰かに殴られたのだとしたら……黒いベンツと切り裂かれた鞍のことを考えたくないのに、どうしても考えてしまう。
『んな、バカな……』
クラブハウスにたどり着くと、雨宮が前に停めてあるファミリアに乗るところだった。
「雨宮さんッ」
笠井の慌てぶりに、雨宮は動作を止める。
「雨宮さんッ、松浪さんがッ、大変ですッ、大ケガしてッ」
「ええッ」
雨宮は身体を硬直させ、半開きのドアに寄りかかる。
「どういうことだ?」
「厩舎の中で倒れて、頭を打ったらしいんです!」
「雄祐が?」
雨宮の顔が蒼白になった。
「雄祐!」
走りだそうとするのを、笠井は引き留め、
「すぐ救急車を呼んで下さい」
と言うが、
「放せ!」
泣き出しそうな顔で叫ぶと、笠井の制止の手をもぎ離し、厩舎へと走り出した。
「ああ、もうーッ」
仕方ないので、クラブハウスに飛び込み、残っていた厩務員に手早く説明する。電話に飛びつき、119番を押した。
松浪はJ医大の脳外科に運ばれ、病名は頭蓋骨骨折による急性硬膜外血腫だった。骨折によって血管が損傷を受け、頭蓋骨と脳の表面にある硬膜という被膜との間に、出血して血腫が出来るというものだ。
命に別状はないが、緊急手術である。
開頭による血腫除去術が施行されることになり、松浪の父母が呼び出された。
取り敢えず原因は酒を飲んで転倒し、頭を打ったことになっていたが、牧之瀬と笠井は手術の間、待合室でお互いに不安を漏らし合った。
「ベンツとあの鞍のこと、言うべきだろうか」
牧之瀬はベンチにもたれ、天井を見上げる。
「この事件と関係があるなら……やっぱ、言うべきだろうな……ということは、警察にいかなきゃいけない」
笠井は別の悩みを抱えていた。
暴行を恨んで雨宮が松浪に危害を加えたということは考えられないだろうか……だがさっき、松浪のケガを知った時の雨宮の驚き様は演技とは思えなかった。レイプされたあとも冷静だったのが、あんなに松浪のことを心配するなんて。
でも状況から見ると、
『雨宮さんが、やっぱり怪しい』
「ただほら、落馬した時、頭を打ったから……」
牧之瀬の言葉で、急いで考えを中断する。
「落馬した時、打ったのが、なんで今頃、悪くなるんですか?」
笠井の質問に、牧之瀬は
「ああ、まだ、習っていないもんね」
詳しく説明する。
「急性硬膜外血腫って、受傷して数時間や数日立ってから、血腫が次第に脳を圧迫して、症状が出ることがあるんだ。もちろん脳内出血みたいに、すぐ悪くなることもあるけど」
だとすると、たんなる事故ということになるが、どちらにせよ松浪を狙っている人間が、どこかにいたことは事実なのだった。
「雨宮さんには話した方がいいね」
「ええッ」
笠井はつい大声を出してしまい、牧之瀬に怪訝な顔をされる。
「だって、工藤さんは単なるお飾りだし、今、一番、責任能力のあるのは、雨宮さんだよ」
少し離れた所に座っている雨宮は、両手で顔を覆い、消耗しきっている。あまり頼りになりそうにないと笠井は思った。
それにレイプのことを考えると、雨宮を手放しで信用出来ない。ジレンマに陥っていると、
「とにかく、言っておこう」
牧之瀬がさっさと近づいて行くので、仕方なく笠井もあとを追った。
「雨宮さん」
牧之瀬の呼びかけに、雨宮は虚ろな眼を向ける。
「僕達……言っておきたいことがあるんですよ」
手早く黒いベンツに襲われたこと、何度もあとを付けられたことなどを話す。雨宮の表情が次第に引き締まった。
「雄祐はもしかしたら、リストラした人に、恨まれているんじゃないかとも言ってた」
「それは……確かにあるかもしれませんね」
「それに今日は、鞍を切られたりして、クラブのことを良く知ってる人が、やったんじゃないかと思うんだ」
その瞬間、雨宮の頬が紅潮する。雨宮は急いで横を向いたが、笠井は見逃さなかった。
『まさか、やっぱり雨宮さんが……』
雨宮は横を向いたまま、
「とにかく、雄祐がいない間は責任をもって僕が乗馬クラブを守ります」
と言った。
「内部の者がやったとは思いたくないけれど……」
「警察に届けるべきでしょうか」
雨宮の言葉に牧之瀬は首を横に振った。
「そんなことをしたら、みんな、取り調べられたりして、乗馬クラブは営業出来なくなっちゃうよ。雄祐が良くなるまで、少し様子をみた方がいいんじゃないかな」
雨宮はすっと背筋を伸ばし、立ち上がった。
「雄祐がいない時に、評判は落とさせない。これ以上、嫌がらせはさせません」
いつもと代わらない冷静な表情に戻り、きっぱり宣言する。
「もし雄祐に恨みがあるなら、これからもクラブに何か仕掛けてくるかも知れない。当直体制も二人にして、大事を取りましょう」
「そうだね」
牧之瀬は頷く。
「雨宮さんが居てくれて良かった」
雨宮はふと、寂しそうに笑った。
「僕はこにいても、なんの役にも立たない……雄祐が早く治る訳じゃないから」
手術部の入り口の、明かりを見詰める。
「雄祐のこと、頼みます。僕はクラブに戻って、厩務員に雄祐の病状を伝えることにします」
しっかりした足取りで去って行く雨宮を見送りながら、笠井はまた、色々、考えていた。
雨宮が犯人とは思いたくない……でもプライドの高い男が、レイプされ、総てを奪われた時、相手を殺したいと憎むのは、あり得るかもしれない。それにあの鞍のこともある……けれど松浪が愛している相手に傷つけられたなんて、考えたくなかった。
ほっと溜め息をつく笠井の顔を、牧之瀬は
「どうしたんだ?」
と覗き込む。
「なんでも、ないです」
レイプのことは牧之瀬には言えない。松浪と約束したのだから。でも、なんだか秘密を持ってしまったようで、笠井は牧之瀬の眼を真っすぐ見ることが出来なかった。
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