| 次の日笠井は午前中の授業が終わると、急いで大学の校舎から隣接して立つ付属病院棟へ向かった。
受付で調べてもらうと、松浪はまだ集中治療室から出ていなかった。
手術部と同じ階にある集中治療室は、手術も可能という設備の整ったものだ。心臓外科などでは、急変するとその場で開胸手術になることもある。松浪はそれより1ランク下の、一般病棟にある集中治療室だった。
無論、面会は出来ないのだが、医学生という身分を生かし、集中治療室へ行ってみる。
白いカーテンが揺れ、消毒薬の匂いが漂う廊下を歩いていると、笠井は緊張して来た。医学生とはいえ、まだ一年生では病院に足を踏み入れる機会はあまりない。
中学の時にバイクで事故って、二週間程入院していた病院は、一家総出で働いているといった個人経営の小さなもので、アットホームな雰囲気だった。しかも自分の母親もそこで栄養士として働いていたので、小さい頃からよく病院に顔を出して、院長にかわいがられており、自宅の延長といった感じだったのだ。
さすがに大学病院ともなると、まるで雰囲気が違う。壁の案内板も英語と日本語の二カ国語で書かれているし、
「この血液、すぐ下へ持ってって、交叉適合試験(クロスマッチ)、頼む」
「MRSA(マーサ)ですかね?」
「うーん、骨髄穿刺(マルク)の必要、あるな」
話されている言葉も、英語・ドイツ語に専門用語が飛び交って、まだ笠井には意味が分からず、吹き替えなしでアメリカのTVドラマを見ているようだと辺りを見回す。
白衣を着て聴診器を首から垂らし、自信に満ちた顔で闊歩している医師達は、とても自分の将来の姿とは思えない。なんだか心細くなって来た。
3階の外科病棟へ行くと、ナースステーションのすぐ隣の集中治療室で、幾つものモニターから監視音が鳴り響いている。廊下に面した窓は磨りガラスで中が見えないので、
「知り合いなんです」
婦長に訳を話し、ナースステーションに入れてもらった。
境の扉のガラス越しに覗き込むと、牧之瀬が白衣姿で中に入っている。
牧之瀬もまだ学生の身分であるから治療に参加している訳でもないが、何か出切ることを一つでもやりたいと申し出ていたのだった。
主治医の指示に従って、動脈留置カテーテルから動脈血を採取している。シリンジを持って部屋から出てくると笠井に気づき、
「中検に持っていくんだ」
と言う。
中央検査部でガス分析をしてもらっている間、牧之瀬は病状を笠井に説明する。
「脳の浮腫が強いから、しばらく集中治療室から出られないって」
笠井は暗い気分になる。
「大丈夫なんでしょうか」
「はっきり言って、脳の損傷がどの程度なのか、しばらく立ってみないと分からないそうだ」
脳実質内の出血と違って神経細胞が壊死したのではなく、圧迫されただけだから、血腫が除去されれば徐々に戻るとのことだったが……。
再び牧之瀬と集中治療室に戻ると、頭に包帯とネットを巻き、何本もの管を身体に差し込まれ、人工呼吸器に繋がれている姿は、自分の知っている松浪とまるで掛け離れている。笠井は心細くなって俯いた。
ふと、自分の手を取る者がいる。
驚いて隣を見ると、牧之瀬だった。
「笠井、君は医学生なんだから、しっかりしなきゃ。そんな悲しそうな顔をしたら、回りの人間が不安になるから」
そっと言う。
『そうなんだ……』
自分達が心配そうにしている所を家族が見たら、うんと重症と思うかもしれない。
実際に重症なのだが、とにかく命は助かると主治医も言ってたじゃないか……。
「先輩、すみません」
笠井はぺこりと頭を下げる。
「俺のすることは、心配することじゃなくて、別にありますよね。例えば、馬房掃除とか」
牧之瀬はプッと吹き出す。
「それでこそ、笠井ってとこかな?」
言いながら、ぎゅっと握った手に力を込めた。
そのあとも連日笠井は授業の合間に病院を訪れた。
医学部の1年生は、他学部の教養課程と同様に、外国語や数学・化学・物理学などの基礎を学ぶことになっている。解剖学や生理学などの専門的授業はまだ先のことだ。実験などのレポートの提出も多く、忙しいのだが、校舎が病院の隣にあるのでこんな時は便利なのだった。
牧之瀬もポリクリの合間に様子を見にいっては、家族に報告を入れていた。
木曜日に、偶然集中治療室の前で笠井が牧之瀬に会うと、
「すまないけど、クラブに顔を出せないから、笠井、雨宮さんに報告しておいてくれないか」
と頼まれた。
「今日はお父さんとお母さんが面会時間に来るんで、一緒にいてあげたいんだ」
集中治療室から一般病室に移ることが決まり、家族の面会も長い時間許されることになったのだ。
「妹さんは?」
「意識が回復したら、呼び寄せるって」
人工呼吸器は外されていたが、松浪はまだ意識不明のままだ。
もう脳圧も正常で、CT検査でも圧迫されていた脳組織が徐々に回復してきているのは確認出来ているのだが……。笠井は不安になった。
「そんなことって、あるんですか?」
「開頭手術してまだ4日目だから、仕方ないよ」
TVドラマのように手術室から戻った途端、劇的に目を開けるといった図を、笠井は描いていた。
そう言うと牧之瀬はちょっと呆れていたが、
「まぁ、医学生といっても1年なら、そりゃ普通の人と変わらないよな」
と言う。そして少し哀しそうな眼になって、深く溜め息をついた。
「でもね、眠ったままになっちゃう人も、いるらしいよ」
「ええッ」
つい大声を出し、そばの看護婦に睨まれる。
「雨宮さん、お見舞いに来てないんですか?」
気になったので尋ねると、牧之瀬は首を振る。
「雨宮さん、雄祐の家にも帰ってないんだって。クラブハウスにあれからずっと、泊まり込んでる」
そういえば当直を二人体制にして、クラブを守ると言っていたことを笠井は思い出す。
責任を感じて、雨宮はクラブを離れないのだろう。
「電話してもいいけど……」
牧之瀬は口ごもる。
「でも……笠井の口から、直接、言った方がいいだろう?」
笠井が乗馬クラブへ行くと、雨宮は会員にレッスンをしているところだった。
馬場の真ん中に立ち、澄んだ声で指示を出している。
「蹄跡を右へ……膝を締めて」
やがてレッスンが終わると雨宮はラウンジに戻ってきた。笠井の顔を見た途端、走り寄る。
「雄祐は? 意識は戻ったのか?」
その顔はひどく苦しそうで、本当に松浪の身体を気遣っているのだと笠井は思った。
『でも、殺すつもりではなくても自分で殴って、後悔してるってこともあるかも』
いかんいかんと頭を振り、笠井は、
「実は……」
と口を開いた。
「まだなんです……」
「ええっ」
雨宮は蒼白になった。
「もう、集中治療室からは出られるんですけど……」
「このまま意識が戻らないということは、ないんだろう?」
言いたくなかったが、牧之瀬の言った通り、話した。
「え……」
雨宮はヨロヨロとそばのソファに倒れ込む。
「あ、いえッ、ぜったいッ、大丈夫ですよッ」
笠井は安心させようと、必死で言う。だが雨宮は両手で顔を覆ったままだ。
「……僕の……せいだ……」
微かに呟くのが聞こえ、笠井は「え?」と聞き返す。
しかし雨宮はもう一言も口をきかなかった。
雨宮を残し、そっと笠井はクラブハウスの外へ出る。
今日は馬術部員は誰も練習に来ていない。1年生だけでは、馬に乗っていけないことになっているので、誰か上級生がいたら馬に乗せてもらおうと期待していたのだが……笠井はがっかりする。今日は牧之瀬も来る予定はないと言っていた。
気を紛らそうと、厩舎へと行ってみる。
ブロンコの馬房へ行き、持ってきた人参を食べさせる。
「もう、これで終わり」
笠井のジャンパーのポケット一つ一つに鼻を押し当て、探すブロンコの首を叩いて、笑いながら言う。
「お前って、いやしいぞ?」
少し気分が明るくなったので、色々な馬に話しかけながら奥へと進んだ。
サンダーブレイズの馬房の前に立つ。
サンダーブレイズは黒曜石のような瞳で、じっと笠井を見詰めている。
そっと手を伸ばして鼻面を撫でた。
大きな黒い馬は、おとなしく撫でられるままになっている。
『お前は不幸をもたらす馬なんかじゃ、ないよな?』
鼻梁の白い流星(ブレイズ)を指でかいてやると、気持ち良いのか、グイと押し付けてくる。
『だって、あの時だってお前が騒いだから、松浪さんが倒れていることが分かったんだもの』
撫でながら、囁いた。
「お前が、喋れたらな……何か、教えてくれるのに」
松浪と別れたあと、何があったのだろうか。
「お前はきっと、全部、見てたに違いないもの」
ふと、そばの扉が開いていたことを思い出す。
誰かがそっと入って来て、酒を飲んでいる松浪を襲ったのだとしたら……黒い服の男が松浪の後ろに立ち、何かを振り下ろすといった図が頭に浮かび、笠井はブルブルと馬のように頭を振った。
だが想像は津波のように高く盛り上がり、笠井を押し流す。
頭の中の倒れた松浪を見下ろしている黒づくめの男の顔は雨宮で、笠井は溺れかけたように呼吸が苦しくなり、上を向いて大きく息を吐き出した。
バイクでマンションに帰る途中も、笠井の頭の中には色々な考えが渦巻いていた。
信号待ちで、ちらりと左手のGショックを見ると、もう八時近い。腹の虫が鳴き出して、
『悩んでも腹は減るんだなー』
次の角を曲がり、スーパーの駐車場へ入った。
既に閉店間際の店の中は閑散としている。カゴを手にしてあれこれ物色しながら人影の少ない通路を歩く。
明日は化学の実験の日で、遅くなる予定だ。
『いっぱい、買っておこう!』
実家から差し入れの宅急便が届いていたのを思い出す。
『そうだ、ほうとうがあったっけ!』
ほうとうは、甲府名物のきしめんに似た平たい麺である。野菜や肉と一緒に、味噌仕立てで煮込む郷土料理だ。
「カボチャにブタコマだ!」
張り切って、カゴに品物をほうり込む。
母親は病院勤めの栄養士なので、笠井は小さいころから姉とともにたっぷり料理を仕込まれた。
姉が歯学部に入学してからの中学・高校の六年間は、ほぼ毎日、夕食係だったといういきさつもある。ほうとうぐらいは、朝飯前だ。
結局、一杯のダンボール箱をバイクの後ろにくくり付け、帰る羽目になった。
マンションに帰って、いそいそと下ごしらえを始める。
ふと思いついて、ベランダに出てみた。
隣の部屋は真っ暗だ。手摺りから身を乗り出して、カーテンの隙間からガラス越しに覗き込むと、暗がりの中、電話の留守録のランプが点滅しているのが見えた。
チカチカと光るその小さな緑の灯を見ていると、なんだか急に不安になって来る。
『まさか……松浪さんになんか、あったってこと……ないよな』
自分の部屋の留守電には何も入っていなかったのだから、そんなことはないだろう。病院では携帯電話は使用禁止だが、何かあれば公衆電話からかけてくるはずだ。
『でも……急に、とりこんだりしたら……連絡する暇、ないってことも、あるかも』
雨宮が両手で顔を覆っている姿が、頭に浮かんだ。
『松浪さんがもう雨宮さんに会えないなんて、そんなのって、あんまりだ!』
『本当は愛しているって、伝えられないなんて……』
気持ちが高ぶって、抑えられない。
ガスを止め、Gジャンとメットを手にすると、部屋を飛び出した。
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