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僕は宇津木(うつぎ)紗耶香(さやか)の周辺をまず調べた。
これは「敷鑑(しきかん)」といって捜査の基本だ。
もちろん正式な捜査ではないから普通の聞き込みはできない。
書類上の調査をすることにした。
宇津木紗耶香の夫は宇津木明夫といって、政権政党代議士である鈴木国之の私設秘書をしている。
三十五歳、週刊誌の写真で見るとなかなかの二枚目だ。
男らしさには欠けるが、とっても優しそうな眼をしている。
明夫は選挙対策のため、鈴木国之の地元である千葉に張り付いているようだ。
明夫自身の実家もその選挙区で、BMWも実家の住所で保管登録されている。
宇津木紗耶香は夫と別居中なのだろうか。
紗耶香の実家「大坪」家は麻布の有名なホテルの近くにある豪邸だ。
そこに紗耶香は現在住んでいた。
由岐中さんの了承を取付け、僕は誘拐未遂のあった翌日から、宇津木紗耶香の実家を丸三日、張った。
宇津木紗耶香は朝、娘の紗緒里をBMWに乗せ、幼稚園へと向かう。
一度スーパーで襲われたせいか、決して寄り道はしない。
幼稚園はカトリック教会の附属だ。
そこへ送り届けるとすぐに実家へとって返し、昼過ぎまで出てこない。
そしてまた車で迎えに出る。
二日目に宇津木紗耶香は帰り道、とあるビルへと寄った。
同じ年頃の子供が集まっていて、どうも小学校受験用の塾のようだ。
身なりのいい母親がやはり身なりのいい子供を連れて中へ入る。
送り迎えの車は皆、高級外車だ。
最近はこんなのが普通なのか?
世の中、ちょっと変だ。
僕がここで疑問を呈しても意味ないけど。
三日目に寄ったビルは見覚えがあった。
六本木署初日に強盗を現行犯逮捕した、あの現場のすぐそばだったのだ。
あのあと会った国東(くにさき)さんは「人妻の浮気調査」と言っていたっけ……。
張り込んでいるときに不審なバンに気づいたんだ。
ひょっとして、国東さんは宇津木紗耶香を張っていたんじゃないだろうか?
僕は宇津木紗耶香と娘の紗緒里が入っていったビルの壁から突き出た「フラワーバレエスクール」という看板を見上げながら思った。
すると。
「おい」
聞き覚えのある声に振り返るとやはり国東さんだった。
紺色のスーツにアタッシェケース、六本木にふさわしい国際派ビジネスマンという装いだ。
もちろん探偵が常にトレンチコートに中折れ帽なんてありえないのだが。
「城崎だったな、どうしてこんなところにいる」
国東さんは不審を露わにして僕を睨んだ。
「多分、同じ人物を張っているんだと思います」
「なんだって」
国東さんは僕の腕を引いて、近くのコーヒーショップへと入っていった。
「バレエのレッスンは1時間、その間は出てこない。
ちょっと話そうぜ」
国東さんはショートホープをくわえると僕をじっと見た。
「昨日・一昨日と、挙動不審の若い男が紗耶香のあとをつけていると所員から報告を受けたから『ビンゴ!』って思ったんだが、お前だったのか」
うわー、と僕は頬が熱くなった。
僕の張り込みは国東探偵社の探偵にばれていたのだ。
警察学校で習った通りにやったのに!
業界用語で「づかれる」という奴だ。
しかも反対に張られてることに気づかないなんて……。
「うう、刑事失格ですね。
僕のほうは全然気がつきませんでしたよ」
「まあ、うちの所員は尾行のベテランだからな。
刑事見習なんかよりずっとね」
国東さんは僕を慰める。
それより、と僕はエスプレッソのカップを手にしたまま尋ねる。
「やっぱり浮気調査は宇津木紗耶香なんですね?
誰に頼まれたんです?
依頼人は夫の明夫ですか?」
国東さんはショートホープを深く吸い込み、煙の輪を吐き出した。
「守秘義務に反する。
だが情報交換ならいいぞ?」
僕は首を横に振った。
「じゃあしょうがないな、お互い頑張ろうぜ」
国東さんは煙を僕の顔に噴きつけ、片目を瞑るとさっさと外へ出て行った。
僕は紗耶香が娘と共に実家に戻ったのを見届けると、由岐中さんに合流することにした。
もう今日は外出しないだろうと踏んだのだった。
由岐中さんは六本木交叉点近くのカラオケボックスで起きた傷害事件を、生活安全課と協力して追ってているところだった。
酒に酔った勢いでの喧嘩の果てで、犯人はすぐに挙がりそうだ、と由岐中さんは言っていた。
僕は由岐中さんと待ち合わせ、加害者グループの立ち寄りそうなところへ先回りすることになった。
六本木から渋谷へバスで移動し、そこからセンター街へと向かう。
センター街は相変わらずの雑踏だ。
ジーンズショップにスポーツシューズの店がやたらある。
ゲーセン、チケットショップ、マンガ喫茶……それにもちろんカラオケボックス。
サラリーマンに混じって小学生ぐらいの女の子たちもいる。
「うーむ、非行の温床だな、ここは」
由岐中さんの言葉に僕はぷっと噴き出してしまった。
「なんだ、ダイスケ」
「だって、死語の世界ですよ、『非行の温床』だなんて」
「うるさい、いいからあそこの店にまず入ろう」
カラオケボックスで僕たちは加害者グループの写真を見せて回った。
小一時間も聞き込みをすると、自販機でコーヒーを買い、一休みすることにする。
飲みながら僕は三日間の報告をした。
そして国東さんに遇ったことも。
「国東さんの浮気調査とは宇津木紗耶香のことじゃないでしょうか?」
由岐中さんは飲み干した缶をぐっと握った。
「紗耶香は浮気をするような女じゃない」
きっぱりと言うと僕を振り返る。
「ダイスケ、お前は実務研修中だ。
おれの個人的な用件に使って悪かった。
紗耶香のことを洗うのはもうやめよう、明日からは公務復帰だ」
じゃなかった、と付け足す。
「明後日からだな、明日は非番だ、ゆっくり休め」
僕は「了解しました」と口では応えたが、心の中では別の決心をしていた。
しばらく無言で歩くと、由岐中さんは「次の店ではお前、聞き込みをしろ」と指示する。
センター街を一本入り、上階に漫画喫茶の入っているカラオケ店へ僕たちは足を向けた。
裏は近くの量販電気店の駐車場になっている。
一階の玄関を入り、カウンターに近づいて僕は店員に警察手帳を見せた。
「ちょっと訊きたいことがあるんですが……」
言いかけた瞬間。
脇の男性用トイレからサラリーマン風の男が出てきた。
僕と眼が合い、さらに僕が持っている警察手帳へと視線を移した。
そして驚愕の表情を見せる。
ぱっときびすを返し、廊下を奥へと駆け出した。
「待てっ」
逃げるものを追うのが警察官の本能だ。
僕は手帳を内ポケットに捻じ込むとあと追う。
由岐中さんが店員に駆け寄ったのが視野の隅に見えた。
僕は構わず男を追って廊下を曲がった。
すると向こうから飲み物を積んだ盆を掲げた店員がやってくる。
男はその脇を無理やりすり抜け、店員を突き飛ばした。
「わっ、なんだよー!」
店員はバランスを崩し、僕に倒れ掛かった。
ジュースやらアイスコーヒーやらのコップが頭から降りかかったが手で払いのけ、店員の身体をまたぐ。
男の目的は非常口だった。
非常口の扉を押し開け、男は裏の駐車場へと飛び出す。
路地に出る手前で僕は追いついてタックルを掛けた。
アスファルトに積み重なって転がったところへ表から回ってきた由岐中さんが合流する。
由岐中さんは太い腕で男の肩を?み、軽々と引き起こした。
「助かりました」
由岐中さんは「怪我はないか」と僕を心配そうに見ながら、男の腕をねじ上げる。
「いててて!」
「逃げなければ手を離す」
うんうんと必死に首を振る男の肩に手を置いて道路に座らせ、僕たちは周りを取り囲む。
「なんで逃げたんだ!」
男は地べたにしゃがんだまま両手で顔を被った。
男を引っ立ててカラオケボックスに戻り、店員からも事情を聞くことにする。
双方の話を付き合わせ、男がちょうどセンター街でプチ家出中の女子中学生二人を誘ってカラオケボックスに入ったところだったと知った。
トイレから出てきて僕の警察手帳を見た男は「青少年保護育成条例に基づく一斉取締り」だと勘違いして逃げ出したのだ。
とんだ薮蛇だったわけで、僕たちは男の帰りを待って呑気に部屋で歌いまくっていた中学生ともども、宇田川(うだがわ)署へ引き渡すことにした。
少年係に引き渡されたセーラー服にルーズソックスの中学生二人組はけろりとしたもので、「だって1時間で五千円くれるっていうんだもの」「それに二人だから平気だって思ったしぃ」などと言っている。
男のほうにはもちろんスケベ心があり、持っている鞄からは隠し撮り用のビデオが発見された。
もちろん鞄はソファの下に置かれていて、ビデオに撮られていたのは少女たちのスカートの中だった。
まったくなんて奴だ。
宇田川署は妙に手薄で、諸手続きに調書を済ませるのにやたら時間がかかった。
おかげで署から出た時にはもう日付が変わっていた。
追っていた傷害事件のほうは、加害者が家族に付き添われて自首してきた、と途中で連絡が入っていた。
事件は解決したのだ。
タクシーを拾おうと駅のほうへ歩き出した時、由岐中さんが僕を振り返った。
「お前、ベタベタだな」
そう、ジュースやチョコパフェを頭から浴び、髪も服もべとついていてさっきから気になっていた。
「もう寮の風呂には入れないだろう?」
「駅の辺りにサウナがあると思います、そこへ寄って帰りますよ」
地域課にいたときも合同捜査に駆り出されることはしょっちゅうだったから、寮の風呂に入れずに二十四時間営業のサウナに世話になったことはある。
すると由岐中さんはちょっと考え、「おれのマンションで風呂を浴びたらいい」と言ってくれた。
「それはありがたいです!」
実のところ、深夜に行くとあんまり雰囲気が良くない。
できれば利用したくないのが本音だ
「じゃあその前に飯でも食っていこうか」
ちらりとまた僕を上から下まで眺める。
「そのカッコじゃ、店には入れないな……」
「ですよね」
さっき宇田川署でタオルを借りてあらかた落してはいたが、椅子には座れない。
由岐中さんは駅前広場に出ていた屋台へと足を向けた。
「ここなら大丈夫だろう」
立ち食いなら確かに大丈夫だ。
それでも気を遣って一番端っこにする。
「ここはな、結構美味いんだ、それにな、紅ショウガ載せ放題だし」
らっしゃー、と禿げたオヤジが愛想良く僕たちを迎える。
「大盛り、二つ!
チャーシュー二倍で!」
九州博多ラーメンで、白い豚骨スープは確かに絶品だ。
月並みな言葉だけれど、「あっさりしているのにコクがある」。
由岐中さんは卓に置かれたタッパーから、トングで盛大に紅ショウガを入れている。
見る間にスープは濃いピンク色に染まる。
僕は割り箸を止めてピンクのスープを凝視した。
「先輩、そんなに入れたらせっかくのスープの味が……」
「うるさい、俺は紅ショウガが好きなんだ。
それにタダなんだから入れなきゃ損だ」
「まあ、いいですけど……」
呆れて首を振ると、僕はオヤジに「すごく美味しいです」と誉める。
オヤジはひどく嬉しそうになった。
「酒、出してくれる?」
オヤジに由岐中さんは頼み込む。
「おうよ、兄ちゃんたちならいいぜ。
酔っ払いに絡まれると困るんで、普通は出さないんだけどな」
カップ酒を二つもらうと、僕たちは慎ましく乾杯をした。
ほんのりと身体も温まり、少し涼しくなった夜風も心地良い。
「なんか、事件も解決したし、いいですねえ」
「そうだな」
「なんか、『やったー』って感じがします」
「そうだな」
ささやかな達成感。
刑事の醍醐味って奴だろうか……。
いつも何かを睨んでいるような由岐中さんの目も、なんだか優しい。
食べ終わって離れようとすると、由岐中さんが空になったどんぶりを重ね、僕のほうへと押しやる。
「はあ?」
「あそこのビルの水道でゆすいで来い。
ここは良心的値段だから客が食器洗いを奉仕することになってるんだ」
ええっ、と驚く間もなく、由岐中さんは親父に「あるだけ出しな、洗ってくるから」と愛想よく声をかけた。
「そりゃすまないねえ」
バケツ二杯分の汚れ物を持たされ、僕は由岐中さんを睨む。
たった今、刑事の端くれになった、って実感したのに……これじゃあ台無しだ。
「先輩、自分一人にやらせるんですか?」
「当たり前だ、新人はそれぐらいしろ。
それにお前、どうせスーツ、汚れてるからいいじゃないか」
確かにすでにスーツはさっきの捕り物で汚れている。
言い返すタネもなく、僕は両手に重いバケツを持って道を横切り、親父が水道を借りているビルまで行った。
撒き水のために外壁につけてある蛇口をいつも借りているとのことで、僕は管理人さんから教えられ、脇道に入った。
細い道で、一杯飲み屋やらエロビデオ屋やらの入った雑居ビルが立ち並んでいる。
ぶつぶつ言いながらバケツの中の食器を洗っていると、奥のほうから怒号が響く。
酔客の喧嘩だろうか。僕は食器を洗う手を止めて顔を上げた。
と、上半身裸の男がこちらへ走ってくる。
しかも裸足の足はガラスで切ったのか血が滲んでいる。
「どうしました」
僕が立ち上ると、ちょうど男の行く手をふさぐ格好になった。
「うるせーっ、どきやがれ!」
男は僕を突き飛ばそうと体当たりする。僕はよろけてバケツをひっくり返してしまった。
食器が散乱し、僕はカッとなった。
せっかく洗ったのに!
「おいっ、謝れッ」
すり抜けようとする男の手首を?む。
「放せっ」
「どんぶりを拾えっ、あんたがぶつかってきたんだろう!」
ちょっとやりすぎかなとは思ったが、僕は男の腕を捩じ上げた。
「おいっ、どうした!」
由岐中さんの声に、
「そいつを放すな!」
という声が被る。
「ええっ?」
何かトラブったかと思った由岐中さんと、道の奥から走ってきた作業員風のつなぎを着た中年男が同時に到着する。
頭がてかてかに光っている作業服の男は「ご協力感謝します」と言い、さらに由岐中さんを見て「ユキじゃないか、さすがだな!」と顔をほころばせる。
「シイさん!」
「シイさん?」
鸚鵡返しに尋ねると、由岐中さんは「同業者だ」と答えた。
「ええっ、同業者!」
なんだか作業場のオッサンって感じだけど……。
「しかもマル暴」
「ええっ、マル暴?」
驚く目の前でシイさんは僕が確保した男に手錠をはめる。
そして「麻雀賭博の打ち込みだったんだ」と由岐中さんに説明した。
「お前、今、六本木署なんだってな、おれは宇田川署だよ」
「なんだ、さっきまでいたところだよ」
由岐中さんは僕に「昔、喜多見(きたみ)署で一緒だったんだ」と紹介してくれた。
今日は宇田川署のマル暴と薬物対策課、それに生活安全課が協力しての作戦だった。
道理でさっき行った宇田川署に人手が少なかったわけだ……。
「こいつ、胴元の一人だよ。
女と別室でいちゃついてたんで、おれらが突っ込んだとき、賭場にいなくてな。
こっそり抜け出しやがったんだ」
僕に手を差し出す。
「君、新人なのにお手柄だぞ!」
由岐中さんは首を振りつつ、僕の顔を見た。
「ダイスケ、お前はたいした奴だよ……」
タクシーに乗ると僕は船を漕いでしまった。
「おい、ついたぞ」と由岐中さんに言われ、慌てて目を擦る。
「まあ、紗耶香の張り込みから地取り、それに現行犯逮捕が二件と色々あったからなあ」
由岐中さんは心配そうに言ってくれ、「いっそ泊まってくか」とマンションの扉を開けた。
「部屋ならたくさんある」
「それはありがたいです!」
バスルームに僕を案内すると由岐中さんはパジャマを貸してくれた。
だがべとべとになった髪を洗い、すっかりリフレッシュして湯船から出たところでまずいことに気づいた。
ズボンだけでなく、下着もべとべとになっていたのだった。
「困ったな……」
ノーパンでパジャマを着てもいいのだが……迷った末、いつもの裏ワザを使うことにした。
なかなか着替えができないときの裏ワザだ。
そのために僕は布地の量が少なく乾きやすいビキニにしていると言ってもいい。
いっそTバックでもいいのだが、それだと殉職したときさすがに恥ずかしい。
汚れたビキニを洗うと固く絞り、また穿く。
乾いたタオルを腰に巻いてパジャマを手に、リビングへ戻った。
「なんだよ、そのカッコ!」
リビングでビールを飲んでいた由岐中さんはギョッとした顔で立ち上がる。
なにもそんな驚くことはないと思うけど……。
由岐中さんはちょっと気まずげに「いや、パジャマ、大きすぎるのか?」と尋ねる。
「その、別のを貸してやろうか?」
「あ、そうじゃないんです。
ちゃんとお借りしますけど……下着を洗っちゃって」
慌てて僕は説明する。
「それとそのカッコとどんな関係があるんだ?」
「自分、ビキニなんですよ。
だからこうやってるとそのうちに体温で自然乾燥するから……」
腰に巻いたタオルを開けて見せた。
「乾いてからパジャマを着ようと思って」
「ま、まあ、勝手だけどな……」
由岐中さんは缶ビールに口をつけ、一口飲んだがむせてしまった。
咳き込みながら「お前も飲め」と僕に放って寄越す。
「おれもシャワーを浴びてくるから」
一人取り残され、僕はビールを飲んだ。
だんだん気持ち良くなって、勝手に冷蔵庫からビールを取り出し、次から次へと開ける。
そのうちにバスローブ姿の由岐中さんが帰ってきて呆れ顔になった。
「ダイスケ、お前って天然だな……」
「は? 何がです?」
「まあいい」
由岐中さんはサイドボードからウィスキーの瓶を取り出し、グラスに注いであおった。
「今日はお手柄だったから幾らでも飲め」
「手柄……っつっても、偶然ですよ」
「いや、偶然にしたって、あの中学生たちにとって幸運だったろう」
「幸運?」
今まで僕は都条例違反のオヤジを一人捕まえたぐらい、たいしたことじゃないと思っていた。
「いや、それは違う。
今回のことであの二人が『たいしたことじゃない』とこれからも誰かの誘いに乗るようになり、それがきっかけでいつかは大きな事件に巻き込まれるとも限らない。
非行っていうのはそんなものだ。
それを未然に防いだんだからな」
由岐中さんの目は真剣だった。
「そうか……そういうことですね」
あの女の子二人の将来を救ったのかもしれないと思うと、とても重要なことをしたという気になってきた。
それにしても、と僕は可笑しくなった。
帰り際、少年係に顔を出したらまだ女子中学生たちは両親と一緒に婦警さんに絞られていた。
しかし僕の顔を見た途端、屈託なく「じゃーねー」と手を振ったのだった。
「今どきの子って感じでしたよね、反省がないっていうか」
まあな、と由岐中さんはうなずく。
「たっぷり絞られるだろうが、結果として良かったと思える日が来るさ」
由岐中さんはウィスキーの瓶に手を伸ばし、にっこりする。
「警察の仕事は犯罪を防止することにある。
もちろん犯人を検挙することは重要だが、未然に防ぐことも同じくらい重要だとおれは思うよ」
僕はなんだか胸が温かくなった。
前にいた国立(くにたち)は文教都市で規制が厳しく、青少年の非行の温床になるような施設はあまりなかった。
マンガ喫茶ぐらいはあったが、熱心な地元父兄がしょっちゅう見回りをしていたものだった。
僕のいた地域課も協力を惜しまなかった。
確かに犯罪も非行も未然に防ぐことができればそれに超したことはないのだ。
それにしても地域課ではなく、強行犯係の由岐中さんがそう言ったことに僕はちょっと感動していた。
由岐中さんの殉職した父親は駐在だったのだ。
やはり子供たちに優しい警官だったのだろうか、親身に僕の相談に乗ってくれた永瀬巡査長のような……。
そしてそんな視線の優しいお父さんだったからこそ……。
「先輩って優しいんですね」
「何を言ってる」
由岐中さんは急いで僕から目をそらすと「しかしダイスケ、お前といると現行犯逮捕にやたら遭遇するなあ、初めて会った日からしてそうだ」と言った。
「そう言えばそうですねえ」
「ツキがあるのかもな、お前は。
刑事って職業は非科学的かも知れないが『ツキ』が大事なんだ。
お前は刑事があってるかもな」
有能だと誉められたなら嬉しいが、単に「ツキ」があると言われるのはそんな嬉しくない。
そう答えると、「そりゃそうだ」と由岐中さんは大声で笑った。
ビールを飲み過ぎたせいか、明け方、僕は目が覚めてしまった。
洗面所へ行き、リビングにまだ灯が点いていることに気づいた。
そっと扉の隙間からうかがうと、由岐中さんがまだソファに腰を下ろしていた。
テーブルにはウィスキーの空瓶が転がっている。
由岐中さんは大きく溜め息をつくとこうべを垂れ、両手を合わせてまるで祈るような仕草をした。
バスローブの広い背中が寂しげに見え、僕は胸が詰まった。
由岐中さんの胸の中には誰の顔があるのだろう。
その人のために祈っているのだろうか。
宇津木紗耶香だろうか。
僕はなんだか息が苦しくなるのを感じ、慌てて足音を立てないよう、その場を離れた。
今日やることは決まっている。
総てはこれからだと思った。
新宿南口に建つデパートやレストラン、大規模書店の入った複合ビルの辺りはウィークデイでも大変な人出だ。
「国東探偵事務所」はその向かい側に位置しているが間に新宿御苑を挟み、喧騒からは遠く離れている。
新宿通りからも一本外れ、鬱蒼とした木立を目の前にしたひっそりとした一画だ。
古びた四階建てのビルの三階で、一階と二階は会員制のちょっと怪しげなクラブが入っている。
四階はこれまた怪しげな貿易会社だった。
所長室に通された僕を見て国東さんはぴくりと眉を動かした。
「なんだ、ユキに言われて来たのか?」
いいえ、と僕は立派な机の向こうでふんぞり返っている国東さんの前に立った。
「由岐中さんには内緒です。
どうしても個人的に知りたいことがありまして」
「宇津木紗耶香のことか?
それよりなんでお前が彼女を張ってたんだ、そっちのほうが先だ」
国東さんは椅子から立つと応接セットへと歩いていく。
僕はソファに腰を落ち着け、この前の非番の日に目撃したことを手短に語った。
「ここんとこ、全く外出しなくてお手上げだったんだ。
だがお前の話を聞いてその原因が判ったぜ」
国東さんはひゅうと口笛を吹く。
「ちょうどその日は手が足りなくて紗耶香の張り込みはしていなかったんだ……その日にそんなことがあったとは」
それにしても、と国東さんは僕を見た。
「相手は何者だろう。
紗耶香は脅迫されていると考えたほうがいいな。
お前、心当たりあるか?」
「自分はこう、考えたんです。
宇津木紗耶香の夫が調査を依頼し、そして不倫の証拠を握って妻を脅す、なんてことがあるのかも知れないと」
どうなんですか、と僕は眼を丸くしている国東さんを見上げた。
「宇津木紗耶香は襲ったのが夫だと知っていれば、警察へ届けるのを躊躇するでしょう?
しかも自身に不利なことがあればいっそう。
だから教えて欲しいんです、依頼者は夫なんですか?」
「まいったな」と国東さんはジャケットの内側からショートホープを取り出した。
「確かに旦那の明夫から依頼を受けている。
もし紗耶香を襲うのを命じたのが明夫なら、食えない奴だな……」
「夫婦仲は悪いんですか?」
僕の質問に国東さんは呆れ顔になる。
「そんなこと、おれが知るかよ。
明夫はひどく心配しているようだったが、演技ということもあるからな。
むしろ妻を襲わせようなんて男なら、『心の底から愛している』ぐらいは言うだろう」
火曜サスペンスとか二時間スペシャルならあるかも……。
僕の目の前にザッパーンと波が打ち寄せる東尋坊(とうじんぼう)の崖が見えた。
うん、ここでたいがいラストに夫が罪を告白したりするよな……。
考え込んでいると、ふいに携帯の振動が伝わった。
液晶画面に出た番号に僕はあっと息を呑む。
「なんだよ?」
「宇津木紗耶香からです」
僕は携帯を耳に押し付けた。国東さんも顔を寄せる。
<もしもし、お判りですか、この前助けていただいた……>
低い震える声が届いた。
宇津木紗耶香は怯えているのだ。
だったらなぜ警察に通報しないのだろう。
僕にちゃんとお礼がしたい、と紗耶香は切り出した。
会いたい、と言うと紗耶香は「家の外に出たくない」と拒否する。
「お宅に伺います」と僕が言うとしばらく逡巡していたが承知した。
携帯をしまうと国東さんが眼を爛々と輝かせて僕の腕を?んだ。
「おれも行く、友人だと言って一緒に連れて行け!」
「駄目ですよ!
国東さんは顔つきが怖いですから絶対警戒されます」
むっとした顔になったが国東さんは諦め、その代わりに話の内容を自分にも教えろと迫った。
「頼む、紗耶香に関する情報を提供するからさ」
それならばいいかも。
国東さんは交換条件として集めた情報を話し出す。
宇津木紗耶香は四月から夫と別居していた。
それはお受験のためで、娘の紗緒里は再来年、小学校入学なのだ。
「ほら、鳥居坂(とりいざか)のところに有名な私立の女子校があるだろう?」
都内の有名私立学校の情報などには縁がない。
国東さんの言った学校の名は聞いたことがあったが、それが鳥居坂にあるとは知らなかった。
「まあいい」と国東さんは続ける。
「紗耶香の実家は資産家だからな、東京の有名私立に娘を入れたいんだ。
それでバレーだのなんだのの稽古事にも通わせてる。
実家に戻ったのはそのための別居だ。
だがなにせあの通り美人だろ?
それに人妻の色気っつーか……旦那は気が気じゃなくなったわけだ」
国東さんは下品に笑う。
確かにあんな綺麗な女性が奥さんだったら、僕も心配になるかも……。
「それにしても、救ってくれたからとはいえ、よくお前に会う気になったなあ、身元も判らないのに……やっぱり宇津木紗耶香はお嬢様だ、危機管理意識に乏しいぜ」
言いながら僕をじっと見た。
「いや、お前だからかもな……優男だし、お前は警戒心を人に抱かせないよ。
女が好きそうな顔だ、いっそホストにでもなりゃ良かったんじゃないか?」
「心外です」
そんなことよりも一番訊きたかったことを訊いてみる。
「由岐中さんは紗耶香さんと関係があったんですか」
「随分とはっきり訊くぼうやだなあ」
国東さんはショートホープの端っこをトントンと机で叩いた。
「由岐中さんが言ってました、宇津木紗耶香は前の上司の従妹で、よく知っていると。
『浮気するような女じゃない』とも言ってましたよ?
だから付き合ったことがあるのかと思ったんですが」
国東さんはひどく困った顔になった。
「前の上司、か……景山(かげやま)のことだな」
またその名前だ。
「どんな人だったんですか?」
国東さんはショートホープをくわえると、肩を大げさにすくめた。
「おれはそのへんの事情は良く知らないんだ……景山があいつを飛ばしたのはそのせいかもな」
「ええっ」
景山の名の意味が初めて判った……。
度々話に出ていた、「そりが合わず、所轄に降格した上司」とは景山という名の男だったのだ……。
このところ、由岐中さんが見せるひどく複雑な表情の理由はそれだったのか。
景山というキャリアは由岐中さんを紗耶香とつきあわせないために降格したのだろうか。
それとも景山・宇津木紗耶香・由岐中さんは三角関係だったとか?
それはちょっと飛躍しすぎか……それに紗耶香は今、まったく違う人と結婚している。
由岐中さんはそのことも知らなかったし。
紗耶香の実家はすごい資産家だから身分違いを理由に反対された?
今はそんな時代じゃないし、だいたい由岐中さんは庶民派だけど(豚骨ラーメンにタダの紅ショウガをたっぷり入れたりして)伯父さんはすごい金持ちみたいだ。
身分違いというほどではないだろう。
一介の警察官が気に入らない?
でも景山という人だってキャリアとはいえ、警察関係だし……。
男女関係の縺れ、という推理は今一つだ。
それに昔の恋人が窮地に陥ってるかも知れないのなら……。
もっと由岐中さんの性格だったら必死になっていると思う。
短い付き合いでもそれぐらいは判る。
少ない情報ではこの辺りが限界だ。
僕はなんとしても真実が知りたかった。
どういうわけか、気になって仕方がない。
ショートホープを吹かしている国東さんを眺めた。
ええい、世の中、ギブアンドテイクだ。
「宇津木紗耶香は警察には決して知らせるなと僕に言いました。
だから僕は自分が警官とは名乗っていないんです」
「それはさっき聞いた」
怪訝な顔になった国東さんに思い切って僕は提案する。
「国東探偵事務所の所員として、身辺警護してやると持ちかけたらどうでしょう」
「潜入捜査か。
見かけに寄らず大胆だな、お前は」
国東さんは腕を組むと考え込んだ。
「紗耶香が承諾したらどうするんだ。
実行できる当てはあるのか」
警察は民事不介入原則だ。
だがそれでDVやストーカー事件では後手に回っている。
由岐中さんの持論では警察の重要な任務の一つは犯罪を未然に防ぐこと。
そのことを昨日聞いていた僕は由岐中さんを説得するつもりだった。
それに宇津木紗耶香が由岐中さんにとって特別な女性なら。
昔の恋人でなくても、僕の計画を承知するに違いない。
国東さんは「確かに」と身を乗り出した。
「やるじゃないか、坊や」
「坊やは余計です」
「まあ、いい」
国東さんは秘書の女性を呼び、すぐさま偽の名刺を作らせる。
「これを持ってけ」
僕は偽の名刺を持って紗耶香の実家に向かった。
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