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紗耶香(さやか)の父親・大坪(おおつぼ)政彦(まさひこ)は「オセアニックスターファイナンス」という投資顧問会社の社長で、自身もかなりの資産家である。
国東(くにさき)さんの説明によると、顧客は「動産最低五億」の富裕層で、いわゆるプライベートバンクというものだった。
つまり金持ちの資産をさらに増やすためのアイディアを提供するのである。
もっと金持ちになりたいのかっつー気がするが。
とある本で読んだけど、「お金って寂しがり屋で、みんながいるところに集まりたがる」ので、金持ちはさらに金持ちになり、貧乏人はさらに貧乏になるんだそうだ。
ホントかどうか知らないけど、とにかくそうやって金持ちの資産を増やすことに成功し、会社は今や六本木の新名所になった巨大な複合ビルに入っている。
その大坪家は当然のことながら麻布の一等地にあり、高い塀に囲まれた豪邸だ。
庭には鬱蒼と木が茂り、和洋折衷の平屋造りだ。
大坪家は戦前からの財閥の系譜なのだった。
現在の居住者は家長の大坪政彦にメイドが三人、それに紗耶香・紗緒里(さおり)母娘だ。
紗耶香の母で大坪の妻は二年前に亡くなっている。
ということは男手は父親のみ。
ウィークディの午後早い時間で、大坪政彦が家にいるはずもなく、門から中へ導き入れられるとき、確かに宇津木紗耶香は危機管理意識に乏しいな、と僕は思った。
僕が本当は悪人だったらどうする気なんだろう?
だがもともとそんなことに頭が廻るようだったら僕にお礼などするはずもない。
玄関までは広い前庭になっていて、青々とした芝生が広がっている。
ゴールデンレトリバーが僕に向かって走ってきた。
ふんふんと僕の手を嗅ぐ。
「リッキー!」
可愛い声が上がり、庭の奥のあずまやに、ピンク色のワンピースを着た紗緒里と白人の中年女性が腰を掛けていた。
「駄目よ、お客様に悪さしちゃ! おいで!」
犬は盛大に尻尾を振りながら駆け戻っていく。
玄関では白いエプロンをかけた年輩のメイドが僕を待っていた。
玄関ホールから長い廊下を抜け、煉瓦造りの暖炉にクリスタルのシャンデリヤが煌めく応接室に通される。
またしても超豪華ホテルだ。
宇津木紗耶香は今日は水色のスーツだった。
メイドにお茶を命じると、ソファに腰掛けた僕にしとやかに礼をする。
「お嬢さんを庭でお見かけしましたよ」
僕が言うとにっこりした。
「今、家庭教師に英語のレッスンを受けてるんです」
紗耶香はテーブルの上に厚みのある白い封筒を置いた。
「この間のお礼です、受け取っていただけますでしょうか」
いきなりの謝礼に僕は慌てた。
受け取れば服務規定違反どころか国家公務員法に違反する。
いや、今でもぎりぎり違反してるようなものだけれど。
とにかく封筒を押し戻し「そんなわけには行きません」と固辞した。
「でも……」
戸惑う紗耶香に僕はジャンパーの内ポケットから名刺を取り出した。
「警察に届けないのには理由があるのでしょう。
実は僕はこういうものです。
宜しかったらお力になりますが」
紗耶香は名刺を取り上げ、潤んだ瞳を僕に向けた。
『うーん、確かに美人だよな……』
僕の好みではないけれど、などと思っていると紗耶香はふいに肩越しに振り返った。
僕も眼を上げると、応接間の扉のところに一人の男が立っていた。
見も知らぬ僕を家に入れたのは、ちゃんと護衛がいたからなのだと納得する。
それにしても平日の真っ昼間だ。
『まさか、浮気相手じゃないだろうな』といった考えが頭を過ぎった。
高そうなブルーグレイのスーツ、タイはエルメスか。髪は少しウェーブがかかり、ぴったりと撫でつけている。
細面で鼻は高く、顎は華奢で、小顔だ。
眉も目も細く、きりっと吊り上がっている。
全体に驚くほど綺麗な顔だった。
どちらかというと女顔なのだが、目には鋭い光が宿り、まだ三十そこそこだろうにやたら威厳がある。
「マサヨシさん」
紗耶香が呼んだ。
男は黙って近寄り、名刺を受け取ると僕に視線を注ぐ。
僕は男の眼光に対抗するため、ぐっと腹に力を入れた。
「永瀬(ながせ)剛士(ごうし)君、か。『国東探偵社』、ねえ」
低い通った声だ。
「マサヨシさん、どうかしら、お父様も言うの、紗緒里の送り迎えの時にご一緒してもらったら……」
「紗耶香がそうしたいならいいんじゃないか?」
宇津木紗耶香は僕に視線を戻した。
「お仕事を依頼して宜しいかしら……」
願ったり適ったり、だ。
僕のほうから言い出さずに相手から言ってくるなんて。
「もちろんです」
では、と紗耶香はもう一度封筒を僕のほうへ押しやった。
「これを収めてくださいな、宜しいでしょう?」
僕はそっと立っている男に視線をやった。
「マサヨシ」という男は僕の顔をじっと見ている。
ここで断るのはまずい……だが受け取るわけにはいかない、と僕は決断する。
「あの、成功報酬ということでお願いします。
期間もまだ未定ですし。
僕たちの業界では拘束期間の長短も報酬にかかわってきますし。
それはうちの所長と話をしてください」
宇津木紗耶香はその説明で納得したようだった。
男は黙ってその場を離れていく。
もう僕に用はないと踏んだようだった。
男が部屋から出ていくと僕は肩の力を抜いた。
『あれは誰なんだろう……』
浮気の相手だとしても相当な力を持った男だ。
それだけは判る。
メイドが紅茶を運んできて、僕たちはとりとめのない話をしばらくした。
「送迎の件ですが」
僕は切り出した。
「この前のBMWではなく、うちの社の車にしたほうがいいでしょう。
僕が車で迎えに来ましょう」
紗耶香は顔色を少し青ざめさせ、うなずく。
「差し支えなければ、どなたに狙われているかお話ししていただけますか?」
予想通り、紗耶香は首を横に振る。
「そうですか、まあ、依頼されたのは送り迎えだけですから構いませんが。
ですが、宇津木さんはたいへんお美しいからストーカーではないかと推理しまして」
わざと振ってみる。
すると背後から「紗耶香!」と厳しい声が飛んだ。
さきほどの「マサヨシ」という男だった。
いつのまにか戸口のところに立っている。
僕は紅茶を飲み干すと立上がる。
「では、明日の八時半にお宅に伺います」
出ていく間、僕は痛いほど男の視線を背中に感じていた。
六本木署に戻る途中、僕は由岐中さんから呼出を受けた。
〈すまんな、非番のところを。
交代要員がいるって言われたんだ〉
説明を受け、僕は新たな任務に就くために急いで大久保へ向かった。
大がかりなピッキング盗犯団のアジトを張る、という任務で、一週間ずっと張っている角筈(つのはず)署の刑事の交替要員だ。
角筈署に捜査本部が立っていて、広域捜査のためうちの署も署員を派遣しているのだ。
本来ならば盗犯係の仕事なのだが、手が足りないので急遽駆り出されたのだった。
見張りは明日の朝八時まで。
なんとか時間までには宇津木紗耶香の家にたどり着けそうだ。
JR大久保駅で由岐中さんと合流する。
途中のコンビニで食料を買うと、僕たちは問題のアパートへと向かった。
大通りからだいぶ離れ、辺りは街灯も少なくかなり暗い。
新宿から近いこともあって、新築のマンションも所々に建っているが、築二十年といった二階建てのモルタルアパートが軒を連ねている。
張り込みの部屋はそういった古びたアパートの二階で、僕たちは向かいにある低層マンションへと入った。
そこの非常階段の踊り場が見張り場所だ。
運良く部屋でも借りられればいいが、今回はなかなか厳しい。
「まあ、季候がいいからましなほうか」
由岐中さんが全員の心情を代弁する。
角筈署の刑事二人は僕たちと交替し、ほっとした表情で去っていった。
交替で見張ることになり、まず由岐中さんが双眼鏡を持って張り番に立った。
「ダイスケ、今日はちゃんと休んだか?」
由岐中さんの問いに僕は「実は……」と切り出す。
これまでのことをかいつまんで説明した。
宇津木紗耶香の家に行ったところまで話すと、由岐中さんがこちらを振り向いた。
「驚いたな」と眼を見開く。
「このジャジャ馬め!
最初に会った日からそう思ってたが……まったくとんでもない奴だ!」
声が大きくなり、はっと由岐中さんは辺りを見回す。
低い声で「とにかくもうやっちまったんだ、で、それからどうした」と先を促した。
「それで家に行ったんですが、そこに男の人がいました」
浮気の相手ではないでしょうか、と僕は振ってみた。
「どんな奴だった?」
「歳は三十ぐらい、綺麗な顔の男でした。
まるでモデルみたいな……宇津木紗耶香は『まさよし』と呼んでいました」
ふいに由岐中さんが持っていた双眼鏡をぐっと握りしめ、息を深く吸い込んだ。
僕に背を向けて双眼鏡を眼に当てると「続けろ」と呟く。
「その、国東さんからもらった偽の名刺を渡したんです……警官という身分を明かさず」
もう一度由岐中さんは背を向けたまま「ジャジャ馬」と唸った。
娘の紗緒里の送り迎えをすることになった、と僕は話を結んだ。
しばらくの間、由岐中さんは黙ったままだったが、ほうと長い溜め息をついて僕に双眼鏡を渡した。
僕が代わりに見張りにつくと、壁に背をもたせてコンビニで買ったペットボトルに手を伸ばす。
「よし判った、宇津木紗耶香を洗おう。
やはり何かあるに違いない」
「本当ですか!」
「目を離すな」
はい、と僕は双眼鏡を持ち直す。
再びアパートの入り口を視界に入れた。
「明日から単独行動だ、上へはおれが適当に言っておく。
終ったらすぐ合流する。いいな」
由岐中さんはそのあと、その件については何も言わなかった。
真夜中過ぎ、携帯に角筈署から連絡が入った。
動きがあったのだ。
角筈署に立っている合同捜査本部に集合せよというもので、僕たちはゴミをかき集めて階段を降りた。
「こりゃ、徹夜になりそうだな」
大通りへ出てタクシーを拾おうと、僕たちは歩き出す。
通りの向い側に、さっき入ったコンビニが見えてきた。
小腹が空いていた僕はカロリー飲料を買おうと思いつく。
「ちょっと買ってきていいですか?」
「おう。そうだ、スタミナドリンクを差し入れてやるか、そいつも頼む」
ビルの陰で煙草を取り出した由岐中さんを置いて、コンビニへと走った。
店に客は誰もおらず、レジには学生アルバイト風の青年が立っている。
籠に幾つかの商品を入れ、お気に入りのスナックを求めて僕は奥へと足を進めた。
「あった、ここか」
一番下の棚なので屈んで選んでいると、ピンポンとチャイムが鳴った。
僕が目を上げるとちょうど頭の真上に万引き防止用のミラーがあって、湾曲した鏡面にレジと入り口が映っている。
体格の良い男性が一人、入って来たところだった。
黒い革ジャンパーを着て、両手をポケットに突っ込んでいる。
この季節に不似合いの毛糸の黒い帽子を被っている。
なにやらおかしい。
僕は屈んだままミラーに映らないよう、そっと移動した。
バイトの青年はレジでお気楽に漫画雑誌のページを捲っている。
一分ほど経ったろうか、雑誌スタンドの辺りでうろうろしていた男が突然毛糸の帽子を顔まで引き下げる。
眼出し帽になった状態でレジに駆け寄った。
右手にはサバイバルナイフが握られている。
「金を出せ!」
男が叫んだと同時に僕は後ろから飛びかかった。
両手で男のナイフを持った方の手首を握り、捻る。
足払いをかけ、体重を浴びせてなんとか男を横倒しにする。
唖然としているレジの青年に「外へ!」と叫んだ。
必死の抵抗をする男と床で縺れながらもう一度僕は「外へ! 助けを呼べ!」と怒鳴る。
「あっ、はい!」
だが青年がレジから出る前に由岐中さんの大きな身体が視界に入った。
由岐中さんは冷静な顔でコンビニの入り口から一歩で僕たちに近づく。
男の手首に手刀を入れた。
ぽろりと落ちたナイフを素早く取り上げる。
十秒にもみたないその間、一言も発さなかった。
僕はほっとしながら男の身体を羽交い絞めにした。
はっきり言って男の力は大変強く、僕は劣勢に立たされていたのだ。
本当に由岐中さんは頼りになる……。
由岐中さんは懐から手錠を取り出し、男の手首にはめた。
カチリと金属音が響く。
「強盗の現行犯で逮捕する!」
男は一気に力を抜き、僕たちの言うなりになった。
男の肩を?んで立たせると、僕は由岐中さんに「グッドタイミングで助かりました」と頭を下げた。
「いや、おれもこいつが店内に入った時点で変だと思ったんだ。
それで外から窺っていたんだが……お前も良く反応したな」
僕は盗難防止用のミラーを指した。
「あれで見てたんです」
「たいしたもんだ」
数分後、赤い回転灯をつけたパトカーが僕たちを迎えにきた。
もちろん角筈署の警邏隊で、
「ちょうど良かったですね、タクシーを拾う手間が省けた」
僕が言うと由岐中さんは感慨深げに首を振った。
「ダイスケ、お前はたいした奴だよ……」
翌朝きっかり八時半に僕は国東さんのパジェロで大坪家に乗り付けた。
「すごーい、カッコイイ!」
リボンのついた真っ赤なワンピースを着た紗緒里が玄関から飛び出してきて嬉しそうに叫ぶ。
「ママのより、ずっとイイね!」
無邪気な言葉に僕は頬が緩んでしまう。
僕からすればBMW7シリーズのほうが断然いいと思うのだが。
紗緒里は運転席から降りた僕に「おはようございます」と礼儀正しく挨拶し、助手席に目をやる。
斜めにかけた赤いバッグを両手で押さえた。
「前に乗りたいのかい?」
紗緒里はうなずいたが「でもあたし、まだ六歳になっていないの。チャイルドシートでないと駄目よね」と僕の顔をじっと見る。
ここで「いいよ、前に乗っても」と言ってあげたかったが……さすがに法の番人という立場上、できない。
「ごめんね」と謝ると、後ろから宇津木紗耶香が「ママと一緒に後ろに乗りましょうね」と慰める。
「はーい」
紗緒里はおとなしく母親に従う。
本当にいい子だ、と僕は感心した。
僕が車を乗り付けたのは広尾の小さな教会で、紗緒里が通うのはそこの附属幼稚園だった。
宇津木紗耶香はシスターに紗緒里を預けるとすぐさまパジェロに戻ってくる。
僕はまた大坪家にとって返した。
幼稚園の迎えは二時。
その時刻に合わせ、僕は再び大坪家で宇津木紗耶香を拾う。
帰り道にはお受験のための塾やバレーのレッスンに寄る。
そんなことが四日ほど続いた。
「ご苦労様、明日はいいわ」
門を入り、玄関前のアプローチに停めたとき、宇津木紗耶香が僕に言った。
「明日は土曜日、教会の幼稚園はお休みなの」
ああ、と僕はうなずく。
すると真後ろに座っていた紗緒里が「えーっ、つまんないー」と足をバタバタさせた。
「お兄ちゃん、明日も来てー」
僕はこのところ、紗緒里に懐かれて「おじちゃん」から「お兄ちゃん」に昇格していた。
「だめよ、わがままを言っちゃ」
いつもの聞分けの良さは微塵もなく、紗緒里は「だって、つまんないー」と続けた。
「もうずーっと、どっこも行かないし、お友達とも遊んでないんだもん」
宇津木紗耶香ははっとした。
そう、あの事件以来、ほとんど軟禁状態のようなものだ。
遊び盛りの子供には退屈だろう。
紗緒里は運転席のヘッドレストにしがみついて「明日も来て」とおねだりをする。
「紗緒里、永瀬さんが困ってらっしゃるでしょう、早く降りなさい」
パジェロの外から宇津木紗耶香が呼ぶが、紗緒里は動かない。
「じゃあ、ちょっとおうちでお話していって、ね?
ママ、それならいいでしょう?」
宇津木紗耶香はほうと溜息をつくと、窓から覗き込んで僕を見た。
「永瀬さん……お茶でもいかがですか?」
喜んで、と答えて僕は車を降りた。
紗緒里ははしゃいで僕の腕にぶら下がる。
「お兄ちゃん、抱っこー」
甘える紗緒里を僕は肩車してやった。
レトリバーのリッキーも駆け寄ってきてわんわんと吼える。
「本当に永瀬さんは子供と犬に好かれるんですねえ」
宇津木紗耶香は笑いながら僕を庭のあずまやに案内する。
庭にガーデンテーブルを出すとメイドを呼んでお茶の仕度を命じる。
「すみません、永瀬さん……付き合っていただいて」
運ばれてきた紅茶とスコーンを僕に勧めると宇津木紗耶香は謝った。
「いえ、別に」
紗緒里は犬小屋からやかんの蓋のようなプラスチックの円盤を持ってきて僕に渡した。
「投げて、お兄ちゃん、リッキーが取るから」
ふわりと空に向かって投げると、リッキーは走っていって芝生に落ちる直前に口でキャッチする。
すぐに僕のところへ運んできて「また投げろ」と催促する。
しばらく紗緒里と犬とに付き合って、僕はテーブルで微笑んで見物していた宇津木紗耶香の元に帰った。
「紗緒里と遊んでくださってありがとうございます」
「いいんですよ、紗緒里ちゃんも遊び盛りですからね」
そう言ったところで、紗緒里の「見て見てー」という声が響く。
「ほらっ、こーんな太いミミズ!」
なんと紗緒里がクネクネと動くミミズを小さな掌に載せていた。
「それにしてもお嬢さんなのに元気がいいですね。
普通、ミミズなんて女の子は嫌がるでしょう」
すると宇津木紗耶香はにっこりした。
「そうなんですよ、今まで育ったのが夫の故郷の漁師町で、お祖父さんが釣り好きで……ミミズもそれで平気になっちゃって。
うちのひとは『虫愛づる姫』なんて言ってるくらいで……」
宇津木紗耶香の口調は柔らかく自然で、僕はあれっと思った。
夫との仲が悪いとは思えない……。
いや、仲が悪くなくたって、退屈から浮気する人妻も最近は多いし……。
でもほんの僅かだったがこの数日の間、紗耶香の傍にいて、由岐中さんが「紗耶香はそんな女じゃない」と言った理由が判ってきたような気もするし……。
紗緒里はしばらくミミズを追いかけていたが、やがて飽きて戻ってくる。
「ねえ、お祖父ちゃんやパパとまた釣りに行きたいな……ヨッちゃんとも遊びたいし」
椅子にちょこんと腰掛けるときちんとおしぼりで手を拭く。
オレンジジュースのグラスに手を伸ばし、母親を見上げた。
「ヨッちゃんやサエちゃんとはもう遊べないのよ」
紗緒里はぷうと唇を尖らせる。
「バレエも嫌いじゃないけど、あたしはみんなと一緒の学校がいい!」
「紗緒里ちゃん……もうその話は済んだでしょう?
紗緒里はこっちの学校に行くって、約束したじゃないの」
紗耶香はひどく困った様子だ。
「でも」と紗緒里は反論する。
「こっちの小学校に入ったら、ヨッちゃんたちとだけじゃなくって、パパとも離れ離れになっちゃうんでしょう?
それ、知らなかったもん」
紗耶香はもっと困った表情になった。
「政彦お祖父ちゃんも優しいけど、紗緒里はパパと一緒のほうがいいもん。
早くパパと一緒に暮らしたい」
僕は紗緒里に「パパ、好きかい?」と訊いてみる。
「うん、大好き!」
紗緒里はにっこりし、宇津木紗耶香を振り返った。
「ママもパパが好きなんだよねー。
二人はラブラブだもんね、すぐチュッてするし」
「紗緒里!」
宇津木紗耶香は真っ赤になった。
夫婦が不仲というのはガセだ、と僕は結論する。
これぐらいの年頃の子供は敏感だ。
うわべを取り繕っても子供には判る。
だったら宇津木紗耶香は誰に狙われているのだろう。
「プライベートなことかも知れませんが、なぜ別居してまでこちらの学校に入学させたいと思われたんです?」
名門校だから、という答えを予想していたが宇津木紗耶香は「母が亡くなって……」と下を向いた。
「紗緒里を受験させようと思っているのは母の母校なんです。
紗緒里が生まれたのを母はとても喜んで……幼稚園もこのうちから通わせなさいと。
私はそんなつもりはなかったんですが……」
亡くなった紗耶香の母は、孫と一緒に暮らせる日が来るのを待ち望んでいた。
早く東京に出て来いといつも言っていた。
「言いそびれているうちに……」
母親が病で死んで、紗耶香はひどく後悔した。
「もっと紗緒里に会わせてやればよかったと……」
そんなことから、母の勧めていた小学校に入学させようと思いついたのだが……。
宇津木紗耶香は再び犬と遊び始めた紗緒里に目をやる。
「なんだか、迷っているんです……夫の実家で暮らすのは大変ですけれど、大らかなところで……紗緒里もとっても気にいっているし」
宇津木紗耶香は上流階級のスノッブな母親なのだろうと思っていた僕には意外な話だった。
黙って聞いていると紗耶香はそれに、と唇を震わせる。
「まさかこんなことになるなんて……」
そこまで言って、はっとかき混ぜていたスプーンを止める。
慌ててティーカップを向こうへ押しやった。
僕から目をそらしたまま「あの、それじゃあ今度は月曜日に」と口の中で言う。
判りましたと僕は席から立ち、お辞儀をした。
僕は由岐中さんの携帯に連絡を取り、これから合流すると告げた。
だがまず月曜までは要らないパジェロを国東探偵社まで返しに行かなくてはならない。
金曜日ということもあり、都内の混雑ぶりはひどく、新宿まで随分と時間がかかってしまった。
国東さんの事務所に上がると、なんと由岐中さんが待っていた。
由岐中さんはこれから青梅に地取りを掛けるところで、
「ここで合流したほうが早いからな」
と僕の顔を見て言った。
「それにちょっとこいつにも訊くことがあってね」
僕たちは広尾署に立った捜査本部から、容疑者リストの中の一人をあてがわれているのだ。
最近流行のインターネット情報漏洩事件で、犯人は流出元の会社を脅迫してきたというわけだ。
僕たちの担当する重要参考人は退職自衛官なのだった。
僕は国東さんに礼を言ってパジェロの鍵を返した。
国東さんはすると僕の手首を?んで放さない。
「そろそろこっちにもネタを流せよ」
どうだ、と僕の顔を覗き込む。
「紗耶香に男の影はないのか?
やっぱ、浮気がばれて誰かにつけ狙われてるって線じゃないのか?
案外、脅迫は浮気相手かもな。
ああいった免疫のないお嬢は悪い男に引っかかるもんだよ」
僕はきっぱり「紗耶香さんはそんな女性じゃありません」と否定する。
国東さんは僕の手を放し、片目を瞑る。
「おいおい、ぼうや、紗耶香にまいっちゃったのか?
ひょっとすると誘われたとか?」
傍で見ていた由岐中さんが顔をしかめる。
「やめろ、国東、つまらないことを言うな」
おやおや、と国東さんは大げさに肩をすくめた。
「つまらないことじゃない、刑事がそう考える根拠を訊いたんだ。
いいか、紗耶香の夫は浮気を疑っておれに調査を依頼したんだぜ?
紗耶香は貞淑な妻なのかどうか、ぼうや、お前は何を根拠にそう思うんだ」
「根拠……」
由岐中さんは僕の答えをじっと待っている。
僕は気まずくて由岐中さんの視線を外した。
僕が思っていたことは、「由岐中さんが好きになるような女性はいいかげんな人ではない」ということだった。
由岐中さんは真面目で気性が真っ直ぐで、国東さんの言うとおり「男の中の男」だ。
そんな由岐中さんが尻軽女を好きになるわけないではないか。
それに宇津木紗耶香母娘を近くで見ていると、つくづくいい家庭なのだと思う。
会話を重ねて判ってきたことだが、宇津木紗耶香は美人なだけでなく性格もいい。
そして夫を愛しているに違いない……そこまで思って僕ははっと由岐中さんを見上げた。
由岐中さんの表情は険しかった。
もし由岐中さんがまだ紗耶香さんを好きなら……。
夫婦仲がいい、と聞くのはつらいかも知れない。
僕だって、高校時代、ちょっと憧れてた同級生が結婚したと聞いてがっかりしたもの……。
「憧れ」だけでもそうなんだから、実際付き合ったことがあって、それでまだふっきってなかったとしたら相当くると思う。
由岐中さんを傷つけたくない。
『え……』
胸に沸いた感情に僕は一瞬戸惑った。
慌てて国東さんに目をやる。
「別に……勘です」
国東さんはゲラゲラ笑い出した。
「まあいい、実はおれもどうやら紗耶香の浮気はない、と考えていたんだよ。
夫の取り越し苦労だな。
妻が美人だと苦労する」
今まで渋い顔をしていた由岐中さんが口を開く。
「だいたいなぜ、紗耶香の旦那は浮気調査なんか依頼したんだ」
国東さんは以前僕に語ったようなことをもう一度説明する。
「なんでもこの二ヵ月ほど、電話するとよそよそしいと言うんだよ。
まあ、子供のお受験で旦那どころじゃないってのが真相かな。
それとも坊やが見た誘拐がらみのことかもな」
ですが、と僕は国東さんに意見を述べる。
「なぜ旦那さんに事情を打ち明けないんでしょう。
普通、脅迫などにあったら旦那さんに相談すると思いますが」
黙って聞いていた由岐中さんが「旦那の不利益になることなのかもしれない」と口を挟んだ。
「もしくは旦那の仕えている奴の、だな。
ありそうなことだ」
国東さんはショートホープをくわえた。
「宇津木明夫の雇用主・鈴木(すずき)国之(くにゆき)は政権政党の代議士だ。
こっち絡みってことは大いにありえるな」
にやりと笑って片目を瞑る。
「鈴木国之のスキャンダルだったら、しけた浮気調査より金になりそうだ」
おい、と由岐中さんが釘を刺す。
「ネタを暴いて鈴木国之を脅そうなんて考えてないだろうな。
やめておけよ」
めっそうもない、と国東さんは直立不動を取った。
「自分が法律を犯すはず、ないでしょうが」
どうだか、と由岐中さんは国東さんを睨みつけた。
「もういい、ダイスケ、行こう」
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