AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

6

青梅線の終点、奥多摩駅を降りたときはそろそろ三時だった。
僕たちはまず奥多摩警察に顔を出す。
小さなショカツで、署長はノンキャリからたたき上げた停年間近の警視だ。
目的の男は「辻井(つじい)」という退職した元自衛官。
嫌疑はサイバーテロだ。
とあるプロバイダのネットワークに侵入し、情報を盗んだ。
初め聞いたとき、七十の爺さんにコンピュータ犯罪ができるもんかと思った。
だが由岐中(ゆきなか)さんは青梅線の中でゆっくり説明してくれた。
「あのな、奴は防衛庁の技術屋で、コンピュータの開発初期から研究していたんだそうだ。
 だからきょうびのコンピュータ技師なんて、及びもつかないらしいぞ」
「ええっ、そうなんですか」
6桁の計算ができる機械が部屋一杯になるくらい大きかったころから、辻井は開発に携わっていたのだそうだ。
「なんでも昔の連中はコンピュータ言語からやってるから、新しいソフトなんかすぐに読んじゃえるらしい」
辻井の情報は国東(くにさき)さんのルートからもたらされていた。
奥多摩に潜伏している可能性がある、そう僕たちは極秘に聞いていた。
僕たちはすぐ奥多摩署を辞して、聞き込みに向かった。
バスに三十分ほど揺られ、ここが東京都かと思うほどの奥深い山道をまた登る。
目的の集落は徒歩でさらに三十分、と署長から聞かされていた。
里山というより本格的な森林だ。
「車を出しましょうか」と申し出られたのだが、そこまでの間にも色々調べたい、と由岐中さんは断ったのだ。
「紅葉の季節には観光客で溢れる、って署長さんは言ってましたけど、今は寂しいですねえ」
道端に目鼻のはっきりしないお地蔵さんが五つほど並んでいて、その奥に寂れたお堂が木々の間から見えた。
「ダイスケ、お前の生まれたとこもこうか?」
「心外です、うちはこんな田舎じゃありません」
わいわい話しながら歩いていくと、前から膝の曲がったお婆さんが大きなリュックを背負い、さらに両手に籠をさげて降りてきた。
紺色の野良着に地下足袋で、いかにも農家の小母さんが里へ野菜を売りに行く、という絵だ。
危なっかしい、と思っていると、あんのじょう僕たちの目の前でステンと転ぶ。
「うわ、大丈夫ですか、お婆さん」
僕たちに抱き起こされ、お婆さんはふうふう息をついた。
「バスの時間に間に合わせようと思って、早く歩きすぎたようですわ」
額の大汗を見て由岐中さんは「おれ、バス停まで荷物、持ってくわ」と僕に言う。
「僕も手伝いますよ」
いや、と由岐中さんはリュックを軽々と背負い、籠も二つまとめて持った。
「お婆さん、歩けるか?」
「手ぶらなら、足には自信がありますわい」
だろうな、と僕も思う。
毎日こんな山道を歩いているのだから。
「お前、先に行っててくれ」
確かに人助けだけでなく、仕事もしなければいけない。
僕はわかりましたと答え、山道を登り始めた。
しばらく行って、ふと、犬の吼え声を聞いたように思った。
「野犬かな……」
だが犬好きの僕には判った。
吼え声は嬉しそうで、腕時計を見て納得する。
餌の時間なのだ。
飼い犬に違いなかった。
「ということは、人がいるんだろうな……」
僕は内ポケットから重要参考人(ジュウサン)の写真を取り出した。
由岐中さんからは「集落での目撃証言はあるが、相手は元自衛官。山林に居住している可能性がある」と指摘を受けている。
「犬の飼い主にでも聞いてみるか……」
僕は道を逸れ、山の斜面を登ることにする。
斜面はかなり急で、僕はそこらへんに生えているウバメガシやらコナラといったいわゆる雑木の幹を頼りに登った。
上へ行くほど急になり、最後のほうには熊笹の根元をつかみ、身体を引っ張り上げる。
ナイキを履いてきてよかった、と思った。
やがて斜面はなだらかになり、ふいに開けた場所に出た。
粗末な小屋がかかり、空き地には家畜の囲いのようなものがあった。
そこに十数頭もの犬が群れている。
「ブリーダーかな?」
だが犬はどう見ても駄犬だ。
単なる犬好きか。
僕が予想したとおり、犬たちは地面に置かれた桶から餌を食べているところだった。
キャンキャン、という嬉しそうな鳴き声が上がっている。
囲いからジーンズのつなぎを着た男が出てきた。
髪は真後ろでポニーテールにしている。
三十歳くらいだろうか、日焼けをした真面目そうな顔だ。
ちょうどいい、と僕は男のほうへと歩き出した。
「あの、ちょっとうかがいたいことがあるんですが」
男は手に持っていたバケツを地面に降ろし、僕を振り返る。
「誰だ、こんなところにまで来て。
 私有地だぞ」
警戒するのも無理はない、と僕は内ポケットから警察手帳を取り出し、開けて見せた。
「実はこういうものですが……」
終いまで言わないうちに、男がだっと走り出す。
大声で「親父、逃げろ!」と叫んだ。
前にも言ったが逃げるものを追うのは警官の本能だ。
作り物のウサギを追っかけるドッグレースの犬と同じ。
囲いの中で猛烈に吼え始めた犬をあとに、僕は男を追った。
ナイキを履いてきてよかった。
「止まれ!」と叫び、追いついて突き飛ばす。
追跡の基本だ。前のめりに倒れた男に馬乗りになった。
「逃げろ、親父!
 サツだ!」
男は小屋に向かって再び叫んだ。
身体を捩って僕を払い落とそうとする。
さらに拳で僕の顔を狙う。
こうなっては仕方がない、僕は後ろ手にした手首に手錠をかけた。
カチリと音が鳴ったのは手錠だけではなかった。
僕は頭を上げ、小屋の扉からがっしりとした男が出てきたのを見た。
上背はあまりないが肩幅は広い。赤銅色の顔は精悍で彫りが深い。
白髪交じりの髪は短く刈って、ジーパンにウィンドブレーカーを羽織っている。
男の手元に視線をずらしたところで僕の心臓は急にピッチを上げた。
男は手に猟銃を持ち、その銃口は僕に向けられていた。
探していたジュウサンだった。
「辻井さんですね、ちょっと伺いたいことがあります、ご同行願えませんか」
僕はまだ馬乗りの姿勢で辻井に呼びかける。
安全装置は外されている。
動いたら危険だ。
まさか辻井本人が隠れているとは思っていなかった。
僕たちは聞き込みのつもりで、もちろん二人とも銃器は携帯していない。
『しまった……』
早撃ちガンマンじゃないのだから、このシチュエイションでは例え持っていたとしても役に立たないだろうが……。
辻井は僕の後悔にお構いなく、「手錠を外せ」と低い声で言った。
「親父、おれのことはいいから逃げろって!」
僕の下で辻井の息子(なのだろう)が悲鳴のような声を上げた。
辻井は一歩近寄る。
眼はあくまでも冷静で、迷いがない。
銃口は揺らぎなく僕を捕らえている。
右肘はぴったりと脇腹につけられ、左腕は地面とほぼ平行に上げられている。
辻井は射撃の名手だ。
構えを見れば判る。
しかも本気だ。
指は引き金にかかり、筋肉は緊張している。
僕は一ミリも動けなかった。
心臓はさっきからトップギアに入っている。
だが冷静さを保った声で男に呼びかける。
「銃を下ろしてください、ここでそんなことをしても意味はない」
「どうかな」
辻井は指を僅かに動かした。
叫んだのは僕の下にいた息子だった。
「親父、馬鹿なことはやめろって!
 マッポを撃って逃げ切れるわけ、ないだろ!
 それより早く逃げろって!
 おれと犬はいいからさ!」
辻井は「いいや」と答える。
「こいつは公務執行妨害でお前を逮捕するだろう。
 そうなったら犬は飢え死にする。
 こいつを撃ち殺して自首する」
冗談じゃないって、と僕は冷や汗が出た。
確かに僕も犬好きだけど、そして犬が死ぬのは嫌だけど、そんな理由で撃ち殺されても困るって!
でもなんと言えばいいんだ?
犬にはちゃんと餌をあげます……って、マヌケだし……。
迷っていると「銃口を下げろ」と低い声がした。
はっと振り返ると由岐中さんが立っている。
由岐中さんはゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「止まれ、撃つぞ」
辻井が散歩がてらに「こんにちは、いい日和ですね」と言うような自然な口ぶりで言った。
「由岐中さん、止まってください。
 奴は本気だし、射撃の名手ですよ」
僕は屈んだまま言う。
「ほう、判るか、小僧」
「自分は警察学校でオリンピックを目指さないかと誘われましたから」
「なるほど……」
辻井は初めて歯を見せた。
七十と聞いていたが、とても若々しい。
確かに訓練を受けた自衛官なら山の中での自給自足など、どうってことないのだろう。
由岐中さんがもう一歩前に出、辻井がぴくりと反応する。
僕は膝を伸ばした。
「屈んでろ」
銃口が再び僕に向けられた。
「親父、頼むからやめてくれ!」
息子は悲鳴を上げた。
由岐中さんは歩みを止め、辻井を見つめる。
「国を守る誇りはどこへやった!」
そして雷のような声で怒鳴った。
「なに?」
「おれたちにはまだあるぞ」
辻井は目を細める。
「この国にはその価値がない」
由岐中さんは僕の前に仁王立ちして両腕を広げた。
「先輩、やめてください!
 あいつは本当に撃ちます!」
僕は悲鳴のような声を出す。
目の前で由岐中さんが血に染まるシーンが頭に浮かんだ。
だが由岐中さんは動じない。
「仲間のために命を捨てる、か。
 その覚悟はあるようだな」
「ああ」
銃口は由岐中さんのほうへゆっくり動いた。
それでも由岐中さんの広い背中は動かない。
「お前はこの国に守る価値がないと言ったが、俺にとって大事な奴がこの国には棲んでいる。
 お前を助けようとした息子もこの国に棲んでいるだろう」
低く静かな声が響いた。
遠くでクンクンと甘えるような犬の声がする。
犬も住んでる、と言いたかったが言えない……。
僕の下にいる息子が「頼む、やめてくれ、親父」ともう一度呼びかけた。
銃口がゆっくりと下を向く。
僕は全身に血がまた戻ってきたように感じた。
心臓がマキシマムビートで耳の奥に鳴り響く。
由岐中さんは辻井に近寄ると銃身に手をかけ、もぎ取った。
僕はふらふらと立ち上がる。
中途半端な姿勢でいたのですっかり腰が痛くなっていた。
それだけではない。極度の緊張に晒されたせいか、頭もガンガンしてきた。
しかしそんなことはとても口に出せず、僕は下で這いつくばっている息子を引き起こす。
そして手錠の鍵を外した。
「あの……ということは」
息子は泥のついた頬を拭いながら僕の顔をうかがう。
僕は答えずに由岐中さんのほうへ行った。
「大丈夫か、ダイスケ」
由岐中さんの温かい言葉に、僕は強張った顔に笑みを作った。
由岐中さんは辻井に手錠をかけ、その上から自分の上着を被せた。
僕に猟銃を渡し「証拠品だ」と言う。
「辻井の息子は……」
僕の背後で息子が呆然と立っているのを見て「まあ、いいだろう」と呟く。
「奥多摩署へ連行します。
 宜しいですね」
辻井は観念したようで、さっぱりとした表情を見せた。


辻井は奥多摩署の留置所に一晩留め置かれ、明日、広尾署から迎えが来ることになった。
調書作成は明日から、と僕たちは奥多摩署の署長に言われる。
小さなショカツなのでのんびりとしている。
奥多摩署の玄関ホールに青梅線の時刻表が張ってあるのを見つけ、僕は調べようと近寄った。
すると由岐中さんが「いいって」と呼び戻す。
「今晩はここに泊まっていこうぜ。
 六本木に帰ってもどうせ明日、こっちで色々手続きがあるんだ。
 手間が省けるだろ?」
由岐中さんの言葉に僕は「ええっ」と渋い返事をした。
こういう場合、よくて宿直室を借りるか、宿直室が一杯だと留置所の空いてる房に泊まるんだよな……。
「辻井と一緒ですかあ?」
さっき命を狙われた奴と一緒はいやだ……もちろん房は違うけど。
「違うって、温泉にでも泊まろう。
 署長がいいところを紹介してくれたんだ」
それはすごくいいアイディアだ。温泉に美味い飯。
猟銃で狙われたことはもう過去のことだ。
「行きましょう、先輩!」
僕は先に立って玄関の階段を駆け下りる。
「おいおい、げんきんだなあ」
警杖を持って立っている警官が「ご苦労様です」と敬礼をした。
僕もさっと敬礼を返し、由岐中さんはまた笑った。
署長が推薦したのは、駅から少し歩いたところにある部屋数わずか十ばかりの小さな温泉旅館だった。
鉄筋コンクリートの素っ気無い外観だが、料理はこの辺りでは一番という評判だ。
奥多摩渓谷を見下ろす景観が自慢で、特に風呂からは対岸の紅葉が楽しめるという。
ちょっと時期には早かったが、そのおかげで宿は空いていて、僕たちは首尾よく泊まることができた。
部屋に案内されたころには奥多摩の日は沈んでいた。
夕闇に早瀬のせせらぎが響く。
僕たちを案内した女将は行灯に火を入れた。
「今どき珍しいなあ」
「これがいいんですよ、『ゆらぎ』っていうんですか、川の音もそうなんですって」
蝋燭の炎が揺れ、ぼんやりとした灯はなんだか心を落ち着かせる。
女将は六十歳ぐらいで、「今夜はぼたん鍋ですよ」と告げる。
「猟友会のかたからいただきましてねえ」
「うおっ、そりゃあラッキーだ!」
由岐中さんは舌なめずりをする。
「おれの実家の山梨でもよく食ったよ」
さっきの逮捕劇で腰を痛めた僕は、温泉のほうがありがたい。
僕は浴衣と丹前を洋服ダンスから出した。
「先輩、温泉に行きましょう」
「う、ううむ……そうだな」
なぜか由岐中さんの口調は重い。
「お前、入ってこい。
 おれはあとにする」
「宜しいじゃないですか、今は誰もいませんよ、ごゆっくり」
お茶をいれていた女将が由岐中さんをうながす。
「その間にお食事の用意をしておきますから」
由岐中さんは渋々と立ち上がった。
男風呂は渓谷に面していて、確かに抜群の眺めだ。広い浴槽の中に樋が伸び、打たせ湯になっている。
「うわー、いいですねえ」
僕はシャツを脱ぎながら由岐中さんを振り返った。
「実はさっき、ずっと屈んでいたもので、腰が凝っちゃって……」
ズボンを足から抜くと、僕は腰を回してみる。
「やっぱりまだ痛いな……でも温泉に入れば疲れが取れるよな、きっと」
腰だけではない。緊張から肩や首までも痛くなっていた。
頭にタオルを載せ、浴槽でリラックスしていると、由岐中さんが腰にタオルを巻いて入って来た。
さすが、いい身体をしている。
逆三角形の体型で、肩幅は格好いいスーツ姿から予想していた通り、本当に広い。
胸は分厚く、腹筋は割れている。
ウェストから下はきゅっと締まっている。
腕は長くて太く、反対に足はすっきりと細い。
僕の理想だ……溜息をついて眺める。
「なんだ、溜息なんかついて」
「いえ、羨ましいなと思って……自分もそんな身体になりたいです」
そうか、と由岐中さんは自分の身体を見下ろした。
「普通だぞ、おれは剣道だからそんなに筋肉はついていない」
「いや、つき過ぎもちょっと……先輩は自分の理想です!」
「り、理想って……」
由岐中さんはちらりと僕を見た。
「ダイスケ、お前だって体脂肪数%じゃないか?
 細身だけどそこそこ筋肉、ついてるよ」
「でも自分はちびなんです。
先輩ぐらい背が高ければ……」
僕はざばっと湯船から出ると、由岐中さんの隣に行った。
「実はちょっとサバを読んでるんで……ほら、こんなに低いでしょう?」
「う、ううむ」
由岐中さんは僕に背を向け、湯船に入った。
「ダイスケ、身体でも洗ってろ」
「はい」
身体を洗い、ビキニをこっそり洗い、ついでに髪も洗って、ふと気がつくと由岐中さんはまだ湯船に浸かっている。
「先輩は長風呂なんですね!」
「ううむ……」
由岐中さんは僕と入れ違いに出ると、身体を洗い始めた。
僕はまた湯船でのんびりしながら目の前の広い背中を見つめた。
背中のあちこちに傷痕が見える。
特に大きなのは左の肩甲骨の下だ。
刃物だろうか、長く細い。
僕の知らない由岐中さんがいる。
警察官という職業の厳しさを悟らされる瞬間だ。
由岐中さんのお父さんも殉職した……。
由岐中さんもきっと、どんな危険にも向かっていったのだろう……。
その背中が証人だ。
さっき、猟銃の銃口と僕の間に立ちふさがった姿が蘇った。
もし、辻井が銃をおろさなかったら……。
僕はなんだか息苦しくなった。
広い背中に抱きついて「行かないでください」と叫びそうになる。
何を考えてるんだ……。
今、由岐中さんは危険な目にあってるわけじゃない。
黙ったままの背中に苦しくなって、僕は「背中を流しましょうか」と尋ねてみる。
「ええっ」
由岐中さんが肩越しに驚いた表情を見せる。
「なんだって?」
「いえ、背中を流しましょうか、って……」
ううむ、と由岐中さんはまた正面を向き、首を振った。
「いや、いい。
 ダイスケ、お前先に上がってビールでも飲んでろ。
 おれは長風呂だから、付き合ってるとのぼせるぞ」
そういえばそうだ、と僕は思った。それに喉も渇いてきて、ビールの誘惑が目の前をちらつく。
「ではお先に!」
ざばっと湯船から出る。
傍を通り過ぎるとき、由岐中さんは困った顔を僕に見せた。


ボタン鍋は味噌仕立てではなかった。
しゃぶしゃぶのように出汁にくぐらせ、酸橘をたっぷり搾った醤油だれで食べるのだが、イノシシ独特の臭みをまるで感じない。
山菜の天麩羅も衣はさっくりして中はジューシー、という凡庸な表現しかできないが本当に美味い。
「川魚も泥臭くないですね」
僕はニジマスの塩焼きにかぶりつきながら言った。
どうしても大網白里だと海の魚に不自由しないので、つい川魚に偏見を抱きがちだ。
「おお、おれんとこは山梨だからな、川魚ばっかだったが美味いのもあるぞ」
由岐中さんは手酌で酒を飲みながら答える。
やがて辻井のことに話題は移った。
「国東から聞いたんだが……」
辻井という男はさっき由岐中さんが言った通り、防衛庁でコンピュータ開発部門に席を置いていた。
退官までひたすら、独自のコンピュータソフトの開発に身を捧げた。
何年か嘱託で勤めたあと、関連会社に天下り、ついこのあいだまでソフト開発を手がけていた。
サイバーテロの目標は、防衛庁にソフトを提供しているコンピュータ会社だった。
「いかに危機管理意識が低いか知らしめるためにハッキングしたようだ」
「なぜそんなことを……」
「情報を制するものが勝利を得る。
 戦略の鉄則だ。
 その基本もこの国はなってない、というのが奴の口癖だったそうだ」
テロの目的は国を憂える気持ちの暴走だったわけだ。
「じゃあ、防衛庁のホストコンピュータにも侵入を……」
本当だったらすごい。
だがなぜ、防衛庁が動かなかったのだろう。
「いや、辻井の居場所をこっちへ漏らしてきたのは陸幕調査部だ。
 国東によるとな……」
陸幕調査部。
防衛庁の諜報機関だ。
警察機構でいう公安にあたる。
「深謀遠慮、って奴ですか……」
それぐらいは僕にも想像できた。
辻井の考えに賛同する人間もどこかにいたのだろう。
警察に渡せば、彼の存在が消されることはない。
「組織って複雑ですね……」
まあな、と由岐中さんは僕のお猪口に酒を注いだ。
「おれだって、組織内にいればままならないことがあることは実感している」
由岐中さんは眉を寄せ、窓の外へと顔を向けた。
景山によって左遷されたことを思い出しているに違いない。
顔も知らない景山のことが僕は腹立たしくなった。
注がれたお猪口をぐいと飲み干す。
「ところで……」
しばらくして由岐中さんが僕のほうを見た。
「なんで手錠を外した?」
うっと僕は詰まった。
「自分は甘いです。すみません」
「ふざけるな!」と怒鳴られることを覚悟して、
「その、自分は犬が好きでして……二人とも留置されると餌をやる人間がいなくてまずいのではと……」
深々と頭を下げる。
半分は事実だ。
あとの半分は、本当の理由を言えばもっと甘ちゃんに見られると思ってのことだった。
本来ならば、犯人隠匿、逃亡幇助、及び公務執行妨害に、僕に殴りかかったのだからプラス傷害ぐらいの罪状で逮捕すべきなのだろう。
でも肉親に「逃げろ!」と呼びかけてしまうのは人情というものだ。
だが予想に反し、「いや、いい」と大きな掌が振られる。
「まあ、おれだって動物愛護団体のデモを受けたくないからな」
それに、と僕の顔を見ながら付け加える。
「あいつは辻井に投降を呼びかけたんだし。
 おれも七十の爺さんには差し入れする奴ぐらいいたほうが良いと思うしな」
「ですよね!」
由岐中さんはにやりと笑う。
「おれもお前が外さなければ外してやろうかと思っていた。
 多数決で決まり、だな」
「それを言うなら、満場一致では……」
「細かいことを言うな」と由岐中さんは腕を差し伸べ、僕の頭を軽く叩いた。
「おれたちは気が合う」
僕はちょっと胸が熱くなった。
ついでに顔も熱くなる。
ごまかそうと急いで酒を飲む。
そして気になっていたことを尋ねてみた。
「なぜあそこに……よくわかりましたね」
「実はな、婆さんを送っていったろう?」
バス停までの間に、由岐中さんは辻井の写真を見せた。
その顔に見覚えは無かったが、
「野良犬を保護して世話している、という若い男がいるというんだ。
 そこにしばらく前から年取った男が同居を始めた、と……」
辻井に違いない、とぴんときたのだった。
「で、それで?」
「婆さんにリュックを背負わせ……」
ええっ、と僕は徳利に伸ばした手を止めた。
「じゃあ、お婆さんは……置いてっちゃったんですか?」
「バカ、そんなこと、するか」
由岐中さんはぎょろりと睨む。
「リュックを背負った婆さんをおれが背負って、両手に籠をぶら下げて、それでバス停まで走ったんだよ!」
「うわー、ご苦労様でした」
でもそのおかげで僕は辻井に撃たれずに済んだのだ。
あのときの情景が蘇り、僕は由岐中さんに「ありがとうございました」と頭を下げる。
「辻井は本気でしたよ……先輩が来てくれなかったら、多分自分は撃たれてたと思います」
あの距離から撃たれれば命はない。
由岐中さんが命を張って立ちふさがってくれたからこそ、辻井も撃つのをやめたのだろう……。
「バカだな、後輩を目の前で撃たれたんじゃ、名折れだからな」
由岐中さんの口調に気負いはない。それでも僕はその勇気に頭が下がった。


照明を消して暗くなった部屋に、渓流のせせらぎが響く。
僕は天井を見つめ、考えていた。
明後日からまた紗耶香と一緒に送り迎えが始まる。
いつまでも単独行動が許されるとは思えず、なんとか突破口を見いださなければならない。
隣の由岐中さんはひどく静かだ。
『寝たのかな……』
銃口を向けられるという大変な経験をしたのに。
さすがベテラン刑事だ……。
色々な考えが頭を過ぎり、寝付けない。
それに温泉に浸かって一時、筋肉痛も楽になっていたのが、再び痛くなってくる。
布団の中で煩悶していると、「どうした、眠れないのか」と声を掛けられた。
「はい……ちょっと腰が痛くって」
「はあ?」
実は、と僕は腰痛の原因を説明した。
「しょうがないなあ、いっちょ揉んでやろう」
ガバっと由岐中さんが起き上がったので僕は慌てて「結構です!」と大声を出した。
先輩に腰をもませるなんて、とんでもない!
「いいから、うつ伏せになれ」
有無を言わさず、僕の布団が引っ剥がされる。
僕はおとなしく枕を抱いてうつぶせた。
「この辺りか?」
太く温かい指が浴衣の上から僕の背中をまさぐる。
「はい、そのへんで……」
由岐中さんのマッサージはとても上手でとても気持ちがいい……。
僕は次第に瞼が重くなってくる。
「すみません、先輩に揉ませるなんて……」
「まあいい、ダイスケ、今日はお前のお手柄だ。
 お前は本当に天然だが……」
「天然?」
訊き返す僕に由岐中さんは笑いで答える。
「いいから、今日はおれのサービスデーだ。
 明日からはまた厳しくしごくぞ」
はい、と夢うつつに僕は答える。
「本当にお前という奴は……」
低く囁く由岐中さんの声が僕の耳を心地良くくすぐる。
渓流の音が僕を夢へと誘っていった。

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