AIで楽曲を楽器やボーカルに分離する

8

タクシーの振動のせいか、次第に痛みが強くなった。
なんとか我慢していたものの、マンションの部屋に入ると僕はついに由岐中(ゆきなか)さんの肩から滑り落ち、うずくまってしまった。
「うわっ、大丈夫か」
由岐中さんは僕を横抱きに抱き上げる。
僕は情けなかったが、実際歩けなかったのでそのままお姫様抱っこの状態でソファまで運ばれた。
「すみません……」
「いや、そんな重くないから平気だ、おれのほうこそ……」
由岐中さんはアイスノンを持ってくると僕の腫れた目に押し当てる。
「元々、おれの個人的なことだ。
 お前を関わらせなければ怪我をすることもなかったんだから」
 心外です、と僕は反論した。
「先輩の個人的なことじゃありません。
 紗耶香(さやか)さんの安全は自分にも大事なことなんです」
タオルを差し出そうとしていた由岐中さんはその手を止める。
鋭い眼を僕に注ぐ。
「まさか紗耶香に惚れたんじゃないだろうな」
違います、と焦って僕は首を振った。
先輩の恋敵になろうなんて滅相もない!
「そうじゃなくて、先輩が大事に思っている人だからです。
 だから僕にも大事なんです」
由岐中さんは傍のアームチェアに腰を下ろすときっと眉根を寄せ、僕の顔を見た。
「それは違う。
 紗耶香のことは刑事として安全を願っているが、特別じゃない」
え? 特別じゃないって? じゃあ僕の勘違い?
「紗耶香さんは先輩の昔の恋人じゃあなかったんですか?」
はあ? と由岐中さんは首を傾げる。
「ダイスケ、なんだってそんなこと、考えついたんだ?」
「だって……なんとなく」
確かに、そう言われたことはなかったけど……。
ひょっとして僕の先走り?
「あのな、ダイスケ、今回おれがこんなに躍起になっているのは、景山(かげやま)に一矢報いたいからなんだ」
景山、何度も出てきたあの由岐中さんを左遷した元上司。
由岐中さんは止めていた手を動かし、タオルで僕の唇についた凝血を拭った。
黙って手当てを続ける。
カットバンを張り終わると、由岐中さんは牛乳をカップに入れて持ってきた。
「これなら凍みないだろう」
自分は缶ビールのプルトップを引き上げる。
「左遷された恨みを晴らそう、と思っているわけじゃない。
 あいつは何か企んでいる。それを暴きたいんだ」
「企んでいる?」
紗耶香の従兄という事しか僕は知らない。
景山は「何か企む」ような腹黒い男なんだろうか。
由岐中さんはビールを一口飲むと、また僕をじっと見た。
「今、あいつは四課にいる」
さっきの刑事たちと同じ課だ。
キャリアだったら上司なわけで……。
「そうだ、四課の課長だ」
由岐中さんはビールの缶を握りしめる。
「だから今夜のことはあいつがやらせたに違いないんだ」
ええっ、と僕は目を見張った。
「それはどういうことです?
 紗耶香さんと僕たちのかかわりが筒抜けということですか?
 何故です?」
その、と気まずそうに由岐中さんは視線をそらした。
「お前に言っていなかったことがある。
 景山の下の名はマサヨシ。
『正義』と書くんだが……お前からマサヨシという名の男が紗耶香の家に出入りしている、と聞いた時点から、この件は単純じゃないと思っていたんだ」
僕にはまだ話の先が見えなかった。
「何故そう思ったか、って?
 その前にあいつがどんな奴かを話さなくてはいけないな」
ビールを飲み干すと、由岐中さんは景山との因縁を語り始めた…………。
「景山と最初に会ったのは六年前。
 おれは喜多見(きたみ)署で昇進したばかりの巡査部長だった。
 そこにキャリアの景山が実務研修に来たわけだ」
国家公務員T種試験を通ったキャリア組の出世は僕たちとはまるで違う。
スタートから僕たちノンキャリがおおむね十五年以上かかって辿り着く警部補だ。
警察庁に入庁したあと、警察大学校で三ヵ月の初任幹部課程教養を受講する。
それから九ヵ月の実務研修を現場で受け、再び大学へ戻る。
そこで一ヵ月補習を受けるともう警部という階級で課長クラスになる。
「警部補として喜多見署に派遣された景山は、強行犯係にいたおれを指導刑事として指名した」
「なんでまた?」
多分、と由岐中さんは答える。
「おれの名があいつには届いていたんだ。
 おれの母方の伯父はキャリアで刑事局長にまで出世したからな」
そう言えばそんなことを聞いた覚えがあった。
「おれには伯父の名は意味がない」
きっぱりと由岐中さんは言い放つ。
「おれの母は一介の交番勤務だった父と恋に落ちて結婚したんだが、伯父は最後まで反対したんだ。
 結婚相手はキャリアじゃなきゃ駄目だってな。
 おれが刑事になってからは一転して評価が上がったけどね」
「キャリアが嫌いですか?」
僕は尋ねてみる。
水沢署長のお小言にあさってのほうを向いていたことが思い出された。
僕のようなショカツしか廻ったことのない警察官はそもそもキャリアと接することなどほとんどない。
違う人種だな、くらいで反感を覚える機会もないのだ。
「いや、キャリアだから悪いってことはない。
 本庁にいたときも色んな奴に会ったからな。尊大で唯我独尊の奴は多いが……」
由岐中さんは景山の話に戻る。
「とにかく景山は優秀だった……さすが東大法学部出だ。
 最初からおれはあいつには感服させられたよ」
景山も元刑事局長の甥である由岐中さんには礼を持って接した。
「おれたちは息が合ったバディだった」
由岐中さんの母親の実家は喜多見の隣町、高級住宅地の成城だ。
伯父が家を継いでおり、そこに景山を招いて伯父に引き合わせた。
その流れでお互いの家を訪問しあった。
「紗耶香に会ったのもそのときだ」
景山の家は代々木で、そこに景山は紗耶香をわざわざ呼んだ。
「どうも景山はおれと紗耶香を結婚させたかったようなんだ」
だが「もちろんおれにはそんなつもりはなかったから」その話は流れた。
「もちろん、ってどうしてです?
 タイプじゃなかったんですか? あんな美人なのに」
話の腰を折った僕に由岐中さんは「黙って聞け」と吼える。
「はーい」
「ダイスケ……」
 首を振ると由岐中さんは再び話し出す。
九ヶ月の研修を終えたころには景山と心は通い合ったと由岐中さんは感じた。
「あいつはキャリア特有の奢った態度も見せなかったし」
そして別れ際、景山は「警部補になったら必ず本庁に呼ぶ」と言った。
「別にそのためではなかったが、おれは昇任試験の勉強を必死でやった」
勉強の甲斐もあり、署長も推薦してくれ、二十九歳で警部補に昇任。
そして一年後。
景山は県警の刑事部長を二年間務め、警視庁捜査一課長補佐となった。
「そこでおれは本店勤めとなったんだが……」
晴れて警察官のエリート、本庁勤務となったのだ。
由岐中さんは溜息をつき、カーテンの隙間から見えるマンションの庭に目をやった。
「あいつは変わっていた。
 二年のうちに何かがあったんだろう……でなければおれはそもそもあいつのことを何も見ていなかったのかもしれない」
再会した頃はすでに昔の温かみはなかった。
「冷徹で傲慢なキャリアそのものだよ……さらになお悪いことに、あいつには鉄の信念があった」
もともと景山は大学三年のとき司法試験にも通っていた。
せっかく難関を突破したのに、司法修習を蹴って警察官僚を目指したのだから押して知るべし、だったのだが……。
「あるとき知って驚いたよ。
 有事では警察に司法権も与えるべきだというのがあいつの持論だ」
「それはつまり……」
「つまりな、有事には井戸に毒を入れたという疑いのある人間を警官はその場で殺していいということさ」
そんな、と僕は息を呑んだ。
「おれの父のことは話しただろう?
 景山とはまったく対極にいるような人間だった……おれが選ぶとしたら親父だ」
やはり景山は雲の上のキャリアなのだと思い知らされた。
熱く語り合ったと思っていたのは自分の勘違いだったのだ、と由岐中さんは思った。
「所詮むこうはキャリアさ。
 地を這って捜査するようなおれたちとは違う」
以来、理想を語るなんて青臭いことはやめた、と由岐中さんは皮肉な口調で言う。
「だがなぜあいつがそんなことを考えるようになったのか……」
由岐中さんの表情は苦しそうだった。
「景山を理解したかったのですか?」
僕が尋ねると、ぴくりと眉を動かす。
「理解したい……あいつのことを?」
鸚鵡返しに応じると、両手を組んで膝の間に挟む。
「そうだな、ダイスケ、お前の言う通りだ……そうだったのかもしれない……」
テロで友人を亡くしたのだと景山は語ったことがあった。
「そのこともあるのかもしれない」
無差別テロは確かに僕も許せない。
だがそこから飛躍して、有事の際に警察官に司法どころか執行権まで与えるというのはよほどのことだ。
「なんでそんな乱暴な考えを持ったのでしょうか」
由岐中さんは苦い笑みを浮かべた。
「そこがキャリアだな。
 大衆は愚かな羊だと言うんだよ、自らでは決断できない、ね。
 だからこそ、エリートの自分たちに判断を委ねるべきだと」
そしてもっと進んで、
「管理と監視が犯罪を抑制すると」
確かにこのごろは商店街や学校でも監視カメラを設置する動きが強まっている、と由岐中さんは言う。
「だがそれは違う……おれは確かに犯罪の防波堤は必要だと思う。
 カメラは犯罪を防止はするが、抑止するわけじゃない。
 犯罪はレンズの視野から追い出されるだけなんだ」
それは僕も同感だった。
僕の田舎・大網白里(おおあみしらさと)なんかに監視カメラはない。
だがそこには僕の尊敬する永瀬(ながせ)巡査長がいた……。
そして永瀬さんの優しい奥さん。
あの二人のお陰で、どれだけワルガキが救われたことか……。
由岐中さんは熱っぽい口調で続ける。
「最終的には抑止効果は人間であるべきだ。
 武田信玄も言ってるだろ、『人は石垣、人は城』って」
「はあ? 武田信玄?」
「あ、知らないか。『武田節』てのがあってね、それの一節だ」
武田信玄……そう言えば由岐中さんの出身は山梨だっけ。
「親父が酒を飲むとよく唄ってたもんだから……甲府の人間は酒を飲むと必ず唄うんだ」
由岐中さんは頭を掻きながら続ける。
「親父の生き方がパーフェクトとは言わないけれど……親父は犯罪を含めてさまざまな危機の防波堤になりたい、とよく言っていたんだ」
由岐中さんの目は遠くを見ているようだったが、強い信念の光が宿っていると僕には感じられた。
「防波堤、っていい言葉じゃあないか?
 警察は何もかも跳ね返す鉄の壁であるべきじゃない。
 おれは難攻不落の砦じゃなくて、波をもろに被るテトラポッドでいいのさ」
ちょっと気恥ずかしげに言う由岐中さんを僕は感激して見つめる。
「自分も駐在警察官に世話になったんです。
 すごくいい人で……それで警官になると決めました」
永瀬さんは五十近くの人で、「駐在さん」と皆から親しまれていた。
僕は中学に入った年、両親の経営するペンションは過剰投資と父の見栄から借金を背負い込み、人手に渡った。
父と母の仲は険悪になり、そのことで僕は随分投げやりになった。
そんなときに親身に相談に乗ってくれたのが永瀬さんと奥さんだった。
僕だけではなく親から高級スポーツカーを買い与えられていい気になって走らせているバカ者どもにも、同じように永瀬さんは親身の指導を行っていた。
今の政治家が何を言っているか知らないが、地方経済は厳しい。
永瀬さんは子供が好きだった。
若者に元気がなければこの国に未来はないとも言っていた。
活力の低下した町に青年団を造り、積極的に活動を手伝った。
夏祭り、収穫祭、正月、桜祭り……空元気でも、そうやって大声を出していれば本当に元気が出て来るとも。
永瀬さん夫婦には子供がいなく、僕はぐれているときにちょっと意地悪な気分で、自分に子供がいないから代わりに可愛がるのかと尋ねたことがあった。
そのとき、永瀬さんは答えなかった。
高校三年になって、警察学校を受験するというと、永瀬さんは喜ぶと同時に警察官の現実を教えた。
「最初は理想に燃えて仕事に就くが、警察は組織だ。
 だんだん嫌な部分も見えてくるだろう。
 目が曇ることもある。
 だが自分にとって何が一番大切かを忘れなければ、道に迷うことはない」
「永瀬さんは何が一番大切なんですか」
僕の問いに永瀬さんは「子供たちを護ることだよ」と速攻で答えた……。
隣でお茶をいれてくれている奥さんも微笑んでいた。
「私たちには子供がいないが、それが逆にいいことだと思っている。
 いればどうしても人様の子より自分の子のほうが可愛くなるだろう?
 多分神様から多くの子供たちのために尽くせと拝命を受けているんだろうな」
…………
「警察官は尊敬する先輩に出会うのが大切だ、とおれは警察学校で習ったよ」
聞いていた由岐中さんが漏らす。
「ダイスケ、お前はなる前に出会ってたんだなあ」
いいえ、と僕は首を振った。
「由岐中先輩が自分にとってはそうです」
由岐中さんは照れたように頭を掻いた。
「期待に応えるようおれも頑張らなくっちゃな」
そしてじっとこちらを見る。
「お前はいい刑事になるよ」
「本当ですか」
「ああ、おれが保証する」
ふいに由岐中さんが顔を近づける。
ちょっと強めの三白眼はじっと僕を見ている。
瞳の奥には火が燃えているようで……。
「え?」
太い指が顎にかかった。
再び、え? と思うまもなくその指は唇をなぞっている。
カットバンのところで止った。
まさか?
一瞬ののち、由岐中さんは顔を背け「悪かったな、怪我をさせて」と呟いた。
なんだ、由岐中さんは僕の怪我を心配したんだ。
だよな、まさか……。
キスしようとしたなんて、自意識過剰もいいとこだ。
そんなこと、あるわけないじゃないか、男同士なんだから。
バカな僕、と自分を叱咤しながら「もう痛くありませんから平気です」と元気よく答える。
「ダイスケ、お前は天然だよ……」
由岐中さんはなぜか渋い顔になった。
「はあ?」
「もういい」
ふいに部屋の電話機がコール音を響かせる。
「なんだ? 携帯じゃなくてこっちにかかってくるなんて……」
由岐中さんは立ち上がり、受話器を取る。
さっと顔を強ばらせた。
僕に向かってしっという動作をして見せ、スピーカに切り替える。
「かけてくるとは予想してたが、すぐにとは思わなかったよ」
低い声がスピーカから流れた。
<予想してたか、それだけ判っているのならもう首を突っ込むのはやめるんだな>
「そうはいかない。おれは真相が知りたい」
回線の向こう側の男はくすりと笑う。
<会いに来い。久しぶりに話をしよう>
「行けば教えてくれるのか?」
<さあ……どうだろうか……>
謎の男は会見場所を伝えると一方的に電話を切った。
「今のは?」
予想は付いていたが、尋ねると、やはり由岐中さんは「景山だ」と答える。
そして椅子の背に掛けていたジャケットを取り上げる。
「お前も会いたいだろう。今夜の黒幕だからな」


深夜の六本木は相変わらず人の流れが途切れない。
高速道路の高架を地響きを立ててトラックが走っていく。
六本木オークビルにはTV局も入っていて、オフィス棟、居住棟に別れた巨大な複合施設だ。
その中でもオフィスとホテルの入った高層棟は眩い光の塔のように夜の街に君臨している。
高層棟の上階に二十四時間利用できる会員制のライブラリがあった。
年会費はかなり高く、個人より法人の利用が多いのだと由岐中さんの説明だ。
確かにライブラリに入ると、そこはベージュのふかふかした絨毯が敷き詰められ、椅子は革張りのアームチェアだ。
書き物をするための書斎机もスペースを十分に取って置かれた書架も木製で、いつも利用している公立図書館とは雲泥の差だ。
さらに受付の女性はみなミスなんとかというほどの美女揃いだった。
「すごいところですね」
「まあな、企業のおっさんたちが息抜きに鼻の下を伸ばすにはぴったりだ。
 ライブラリに行くと言えば格好が付くしな」
 なるほど。そういうことか。
「てことは上等なキャバクラですね?」
「ダイスケ……」
この時間は会合もなく、利用者はさすがにまばらだ。
僕たちはカンファランスルームの一つに案内された。
円筒形のビルの外壁に接していて、湾曲した床から天井までの大きな開口部からは東京の夜景が楽しめる。
扇状に配置された席には一つ一つに液晶モニターがつき、扇の要にあたる演壇は一番低い位置にある。
壁面には巨大なマルチビジョンがついていて誰もいないのに六本木の街やら富士山やら花やらが映し出されている。
いかにもセレブのための施設だ。
「まったく景山が好きそうなところだ」
中に入ると由岐中さんは苦々しい口調で呟く。
「指定したくせにまだ来ないのか」
辺りを見回しながら由岐中さんが文句を言うと、薄暗がりの中、マルチビジョンを背景に男が立上がった。
「ここにいる」
「景山……」
男は席の間に設けられた階段をゆっくりとこちらへ登ってくる。
逆光になってよく顔が見えない。
僕は顔を確かめようと由岐中さんの身体の影から出た。
男の足がぴたりと停まる。
「驚いた。私を驚かせるのは由岐中、君ぐらいだな」
男は僕の顔をじっと見ている。
「こいつは誰だ」
「おれの相棒だ」
「なるほど……君が身を挺して庇っていたのはこいつだったのか」
由岐中さんはちっと舌打ちする。
「おれたちを襲わせてしかもそれを見物してたってわけか……いやらしい奴だな」
「見物していたわけではない。
 部下に命じた任務だ、見届けるのは上司として当然だろう」
男は再びこちらへと登り始めた。
やがてはっきりと表情が判る位置に来る。
あいつだ!
間違いなく宇津木紗耶香の家で遇った男だった。
僕たちがいるところから一段低い位置に留まると、景山は眼鏡を外し、上着のポケットに挿した。
「大坪のところへに潜入させていたとは……やるじゃないか、さすがだ。
 君が今度の件をどこまで知っているのか私も知りたいな」
景山は首をそらし、由岐中さんを見上げる。
こういった場合、猫と同じで男同士は相手より高い目線になりたがるものなのだが……
景山がそれにこだわらないのは、本心から自分のほうが僕たちより上だと思っているからに違いない。
それぐらい自信たっぷりなオーラを景山は身に纏っている。
由岐中さんは腕を組むと景山を睨んだ。
「四課の連中を使っておれたちを襲わせたってことは、ひょっとしてかなりいいところまでおれたちは来てるってことか?」
「ショカツの出る幕じゃないってことを教えただけだ」
「そうかな、あんたは必要以上に力を行使するタイプじゃない」
景山は薄く紅い唇の両端を上げる。
凄味がある笑いだ。なんと言ったらいいのだろう……「妖艶」とでも言うんだろうか……。
「由岐中、だから君を手放したくなかったんだ。
 今から考え直す気はないのか?
 まだ捨石でいることに満足しているのか?
 私と一緒に人を動かしたくはないのか?」
「同じ事を言っても無駄だ。
 おれは石でいい。
 地面を這いずって色んなものを探すのが好きなんだ」
景山は由岐中さんに視線を貼り付けたままだ。
「男なら力を持ちたい、それが本能だろう。
 上に立って人を動かす、君はこの悦びを知らないだけだ。
 一度パワーゲームの魅力に取り付かれてみろ」
 由岐中さんは「それがあんたの本心か」と軽蔑の声で応じる。
「景山、あんたはすっかり官僚になったな。
 権力の魔力って奴だ」
 皮肉な声で続ける。
「そんなの、拳銃を持つと撃ちたくなるってのと同じだ。
 刀を持てば切りたくなる。
 まったく今関(いまぜき)でさえ、村正(むらまさ)を抜こうとしないのにな。
 あんたはヤクザより質が悪い」
景山の表情が少し険しくなる。
だが構わず由岐中さんは容赦ない言葉を浴びせる。
「力への欲望は歯止めがない。
 軍隊を持てば動かしたくなる。
 きりがないぜ、どっかの首相にでもなる気か」
「それもいいだろうがな」
景山の目が怪しく光った。
一歩階段を昇ると、由岐中さんに腕を伸ばす。
はっと僕は身構える。
すると驚いたことに景山は由岐中さんの唇を細い指でなぞったのだった。
「戻ってこい、ユキ」
「あんたのほうこそ」
「それは無理だな」
言い放つと景山は脇を擦り抜けていく。
ふいに僕のことを細い目で睨んだ。
その目にはなにやらねっとりとした情念がこめられていて、僕は一瞬背筋がぞっとした。


マンションに戻ると由岐中さんはまっすぐにサイドボードへ行き、ウィスキーのボトルを取り出した。
「飲むか」と僕に尋ねる。
いいえと僕が答えると、コップにどぼどぼと注ぎ、ストレートで煽りだした。
僕はその横顔を見ながらさっきの不思議なやりとりを思い出していた。
短い中にもお互いの目指しているものがまるで違うということは判ったけれど、景山は由岐中さんに戻ってきて欲しいようだった。
そして由岐中さんのほうも……。
袂を分かったのなら、そしてもうそれをふっ切ったのなら、景山に会ったことでこんなに動揺するはずはない。
由岐中さんは景山となにかあったのだろうか……。
その何かとは。
単なる友情だろうか。
そして由岐中さんはその友情を裏切られたことで、景山を今も憎んでいるのだろうか?
いつだったか、明け方にリビングで一人、やはり同じように頭を抱えているところを見たことがあった。
あのときは宇津木紗耶香を好きだったのではと想像していた。
ひょっとして……。
あのときも景山のことを考えていたのだろうか。
とすると、由岐中さんは景山のことを……。
僕が広い由岐中さんの背中を見ていると、ふいに由岐中さんが振り返る。
「ダイスケ、明日は早い、もう寮へ帰れ」
有無を言わさぬその口調に僕は黙ってうなずく。
由岐中さんの唇をなぞる細い指がその夜、夢に出てきて僕は何度も目が覚めた。

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